『東遊記』(1940年2月7日・東宝映画=満州映画協会・大谷俊夫)
皇紀二千六百年に沸き立つ昭和15(1940)年、満州映画協会と東宝映画が提携第一回作品として、日満友好をアピールするために作られた『東遊記』(1940年2月7日・東宝映画=満州映画協会・大谷俊夫)は、色々と興味深い作品。ヒロインは、本作の後に撮影された『白蘭の歌』(1930年11月30日・渡辺邦男)で日本でも大人気となった満映のトップスター・李香蘭(こと山口淑子)。
この項、執筆にあたり、こちらの「居ながらシネマ」さんのサイトも参考にさせて頂いた。こうした在野の映画研究で、さまざまな映画のロケ地が特定できる。映画を観る楽しみが広がっていく。ありがとうございます。
満州国の気の良い若者・宋(劉思甲)と陳(張書達)が、日本で支那料理屋を経営して大成功しているという友人・王徳義(周凋)からの手紙をもらって、自分たちも一旗上げようと東京へ向かう。そこで出会う、さまざまな事件を面白おかしく描く、東京探訪記として作られたもの。日本語がわからない二人組に、やたらと日本の女たちが親切にする。何もそこまで?という感じなのはあくまでも「満州の友人との友情」を強調するための国策映画だから。
なので、二人が日本に来て、静岡県→十国峠→銀座→神田→横浜中華街(神田という設定)→浅草六区→お茶の水→日比谷→柳橋(の料亭)→日本橋→東宝撮影所→日劇→隅田公園などの、ロケーションをした昭和14(1939)年の東京風景が、満州の観客のために活写された「観光映画」として貴重な映像の記録となっている。
タイトルバックにインストで流れる曲は、李香蘭が唄う主題歌「陽春小唱」(作詞・劉盛源 作曲・永尾源)。昭和14年にリリースされ大ヒットした。劇中、王徳義(周凋)の義妹で日比谷の「アジア歯磨」のタイピスト嬢・麗琴(李香蘭)が、同僚たちにせがまれて、屋上で美しい歌声で唄う。満人の言葉は字幕スーパーで出るので、李香蘭の歌も日本語歌詞が出て、これが今でいうP Vの役割を果たしたことだろう。
肥沃な満州の広大な大地。農家で働く、でっぷり体型の宋(劉思甲)が、ノッポの陳(張書達)に「明日東京へ行こう」と持ちかける。というのも共通の友人で八年前に日本へ行った王徳義(周凋)から「今では支那料理屋を経営して大成功している。お前たちも来い」と手紙を貰ったからだ。出発当日、寝坊をした陳くんは慌てて駅へ。駅では宋くんと見送りの仲間たちが陳くんを待っている。いよいよ汽車が出発というときに、列車に飛び乗る陳くん。
この凸凹コンビ。その間抜けぶりが延々続くので、満映では人気だったのだろうなぁ。内地について、東海道線に乗り換えた二人、窓の外に広がる太平洋に大興奮した宋くん。海を見たことないのだろう。大はしゃぎ。そこで切符を飛ばしてしまい、二人は、東海道線、静岡県の「草薙駅」。本来ならば、満州からの運賃を請求されるのだけど、親切な駅長さんの計らいで、そのまま出札できることに。ああ、日本の人は親切だなぁ、という描写(国鉄ではありえないけど)。
で、日本平にほど近い「草薙駅」に降り立った凸凹コンビ。自分たちがどこにいるかもわからず、地図では大した距離ではないから、東京まで歩こうと、無謀なことを始める。キャメラはいつしか富士山を観む十国峠を歩く凸凹コンビ。この十国峠は東宝映画ではお馴染みのロケーションポイントで、『音楽大進軍』(1943年・渡辺邦男)で古川ロッパと岸井明が重量オーバーのバスに乗る、乗らないでバトルをしたのもここ。『クレージー作戦 先手必勝』(1963年・久松静児)でクレイジーの面々が「クレージー作戦」を歌いながらドライブした場所でもある。
凸凹コンビが口喧嘩をしながら歩いていると、満州の女性が青龍刀の男たちに襲われている。同胞の危機を助けんと、男たちに戦いを挑む凸凹コンビ。なんのことはない「昭和キネマ撮影所」の映画撮影隊で、主演女優(原節子)や撮影監督(岸井明)、製作主任(柳谷寛)たちはびっくり。「昭和キネマ」に飾り換えられた東宝映画のロケバスや、撮影隊の機材、スタッフたちなど、「映画の嘘」ではあるが、当時の雰囲気を感じることができる。キザな髭をはやして、アメリカナイズされたキャメラマン役の岸井明がイメージしているのは、おそらくハリウッド帰りのハリー三村こと三村明だろう。
製作主任のアイデアで、急遽エキストラとして参加することになった凸凹コンビ。親切な映画スタッフ(ああ、日本の人は親切だなぁ、という描写)の計らいで、二人はロケバスに同乗して、十国峠から箱根芦ノ湖、そして東京へと向かう。バスの中で、原節子からキャラメルをもらい、共演女優から南京豆を勧められる。美人にモテモテの凸凹コンビ。なぜモテるのか?それは満州から来た友人だから。
東京に入るショットがいい。藤山一郎の大ヒット曲「東京ラプソディ」(作曲・古賀政男)のインストにのせて、数寄屋橋、マツダビル(のちの数寄屋橋阪急)、銀座の泰明小学校へとパン。さらに隅田川をに架かる厩橋からは昭和6(1931)年に竣工した松屋浅草デパートの威容。この建物は今も現役である。
バスの中で宋くんが、原節子に友人・王くんの店の住所を見せると「ここはよく知ってるわ」と、神田神保町で二人は降ろしてもらう。新宿通りから靖国神社の大鳥居が見える。左手には九段下ビル、俎板橋の手前の角でバスを降りる二人。次のカットでは、車に乗った撮影監督、製作主任と別れのシーンだが、ここは駿河台下の交差点。凸凹コンビは、ロケバス、監督車、スタッフの機材車に手を振って別れる。
神田神保町には、戦前から華僑の女たちが中華料理店を開いていたので、シナリオ上では王くんの店は、神田という設定になっている。だけど、凸凹コンビが歩いている背景に「聘珍楼」が写っている。横浜の「南京街」入り口の「聘珍楼」である。しかし「横浜」というスーパーは出てこない。王くんの店はどこだろうと探していると、「アジア歯磨」宣伝部長(藤原釜足)たちが「この家だよ」と教えてくれるのは、立派な破風造りの建物。横浜市議会議員を務めた沼田安蔵が経営していた高級中華料理店「平安楼」。
凸凹コンビは、王くんがそこのオーナーだと思い込んでいるから、奢ってもらおうと散々ご馳走を食べる。実は王くんはかつてここのコックを務めていたが、すでに辞めていることが判明。二人は店を追い出されるが、ここでも無銭飲食にならずに、結果的に(親切な日本に住む満人の配慮で)ご馳走になった様子。喜劇映画だと、身ぐるみ剥がされて、つまみ出されるのが関の山だが、「国策映画」たる部分は、日本人は満人に優しいという一点なので、ギャグにはならない。
山手の外人墓地の前を、とぼとぼ歩く凸凹コンビ。とりあえず王くんの勤め先を探すことに。その夜、雨が降るなか、凸凹コンビはワンタン屋の屋台の湯気に誘われるが、一文なしなので諦める。その屋台こそ、王くんが経営する「支那料理屋」だった。昼間は街中華を経営し、夜は屋台を引いてた。二人に気づいた王くんは、自分の現在の姿が恥ずかしいので姿を隠す。そこへ、王くんの義妹・麗琴(李香蘭)が迎えにくる。
この時代、ラーメン屋という概念はなく、屋台は「ワンタン屋」、もちろん支那そばも扱っているのだが、あくまでも「ワンタン」が主流。エノケン映画でも『エノケンの近藤勇』(1935年・山本嘉次郎)では、池田屋騒動のときに、チャルメラが聞こえてきて「ご安心めされい、ワンタン屋でござる」というセリフがある。また『エノケンの千万長者』(1936年・山本嘉次郎)ではエノケンが「学生ワンタン」の屋台を引く。「ラーメンでも食べようか」ではなく「ワンタンでも」の時代。こういう感覚は、映画を通して体感することができる。
一方、凸凹コンビは、無一文で雨の中、泊まる場所もない。そこで空き地の「土管」で眠ることに。赤塚不二夫の「おそ松くん」のような光景は、実はこの時代からあったのだ。そこへサンドイッチマンの青年がやってきて同宿。彼は支那語は喋れないが、インテリなので筆談ができる(これも国策、勉強家は満州の同胞を助けることができると)。二人は、翌朝から、「尋人」の札をぶら下げる「サンドイッチマン作戦」で王くんを探すことに。
二人がまず歩くのは、浅草六区。大変な賑わい。ちょうど松竹館(かつての帝国館)では大ヒット映画『愛染かつら』(1938年・松竹大船・野村浩将)大会を上映中。最新作『続・愛染かつら』(1939年)公開に合わせて、すでに総集編がリバイバルされるほどの人気だった。
この凸凹コンビの「尋人」は、たちまち帝都の話題となり、新聞記者の取材を受けることに。このシーンは、中央通り、日本橋室町で撮影。「室町千疋屋」の建物が見える。すぐに新聞に「銀座街頭の異変 満州二人男」と見出しが踊ることに。「王さんよ何処?俄然帝都の人気をさらふ 珍案尋人広告! 銀座街頭の満州二人男」と。その新聞を売る新聞スタンドは、お茶の水駅・聖橋口。新聞を求めるサラリーマン、学生たちが足早に歩くのはお茶の水の聖橋。東宝映画ではお馴染み、藤山一郎の『東京ラプソディ』(1936年・P. C .L.・伏水修)では、クライマックスの主題歌を歌うシーンで登場する。
そのニュースは、日比谷のオフィス街にある「アジア歯磨」のサラリーマンたちの話題となる。宣伝部長は先日、支那料理屋の前であった凸凹コンビのことだとすぐにわかり、彼らを「アジア歯磨」のサンドイッチマンに使おうと、社長(小島洋々)に進言。早速交渉に取り掛かることに。
「アジア歯磨」は、この年の正月映画『ロッパの新婚旅行』(1940年1月4日・山本嘉次郎)で、生活に困った緑波がアルバイトでサンドイッチマンというか、女の子を率いて「アジア歯磨」の大デモンストレーションをする。アーヴィング・バーリンの「世紀の楽団」の替え歌で「♪お買いなさい お買いなさい アジア歯磨を〜」と歌う。それに続くタイアップである。
この会社には、タイピストとして麗琴(李香蘭)が働いている。子供の頃に日本に来た彼女は、日本語をマスターし、おそらく女学校も出て、立派なサラリーガールになっている。麗琴は、同僚の女の子たちのリクエストで、屋上で主題歌「陽春小唱」(作詞・劉盛源 作曲・永尾源)を美しい歌声で歌う。
♪木の芽萌え出で 春が来りゃ 満州よいとこ
さァさおいでよ さァおいで 杏の花盛り
好い友同志の お友達 心も浮き立つよ
国は広いし 富んでるし 満州楽土だよ
さァさおいでよ さァおいで 仲よく歌はふよ
好い友同志の 二人連れ 家庭を作らうよ
春が来て、仲の良い友達同士で楽しく過ごそうの歌詞には「満州は良いところだから、日本からもどんどん開拓に来て」という国策である「満蒙開拓」を精神的に奨励し「好い友同志の 二人連れ 家庭を作らうよ」に「日満友好」のメッセージを込めている。この「満州は楽土」の甘言に乗せられ、多くの日本人が満州開拓団に参加して、大変な労苦をする。そのことを考えると胸が痛む。
みんなニコニコして、麗琴の歌声を楽しんでいる。このロケーションは、千代田区内幸町にあった戦後の東宝映画でもよく屋上のシーンで使ってきた富国生命ビル、昭和2(1927)年竣工の「富国館」。サラリーマンの昼休みの屋上の描写は、もちろん戦前の映画から定番だった。
麗琴は、宣伝部長に呼ばれ、早速、凸凹コンビとの交渉を始める。次のカットは、夜の柳橋(ここはスーパーが出る)の料亭。麗琴の通訳で、凸凹コンビは、宣伝部長と契約、王くんを探す広告の裏に「アジア歯磨」の広告を入れて宣伝活動をすることに。この時点で、麗琴は、二人が自分の義兄を探していることを知りながら、そのそぶりも見せない。その理由は「兄に断らずに話していいものか」。奥ゆかしいのである。フライングはしないのである。これも当時の「理想の女性の在り方」なのだろう。
翌日、早速、凸凹コンビは、日本橋へ。日本橋三越の前で部長の車を降りて、早速デモンストレーション。新聞をにぎわせた「満州二人男」の登場に、白昼の日本橋は大騒ぎ。その人気は、ついに「昭和キネマ」から映画主演のオファーにまで!「昭和キネマ撮影所」に二人の車が到着。世田谷区砧の東宝撮影所の正門で撮影。奥にステージが見えるが、残念ながら、撮影所でのシーンはない。
次のカットは、二人が映画のみならず、有楽町・日劇のステージに登場するシーンとなる。フィルムの状態がよくないのでボケボケだが、夜の日劇の外景、イルミネーションが写ったカットは戦前の映画では珍しい。日劇ダンシングチームの面々が、美脚をずらりと並べてのロケットダンス。満員の客席、その後ろには、麗琴に連れられた王くん(周凋)と、その妻で麗琴の姉(張敏)たちがきている。ステージでは、凸凹コンビが登場、なぜか宋くんは女装して、夫婦ネタの漫才を披露。笑いのポイントが違うので、一向におかしくはないが、日本の漫才とはまた違うネタの応酬は面白い。このあたりフィルムが欠落しているのでオチまではわからないが、ともあれ凸凹コンビは、映画、舞台と一躍時代の寵児となる。
この段階でも王くんは、まだ自分から名乗ることはしない。そのことを心配している麗琴とその恋人で満州からの留学生・徐兆銘(徐總)に相談する。徐くんは「僕の考えでは、なんの自覚もなく小金を持って帰ったんでは、返ってよくない」と、凸凹コンビのこれからを憂慮。この辺りから「国策映画」にふさわしい「新時代の満州国人の在り方」がチラチラと。
一方、すっかりスター気取りの凸凹コンビ。たまの休みに、柳橋の料亭で芸者遊びでもしようかと、宣伝部長の目を白黒させる。いい気になっている二人。その帰り道「俺は支那麺が食いたいな、毎日日本食や洋食では俺も飽き飽きしたよ」と、街をぶらぶら。街ゆく女性に教えてもらった店「満来軒」にやってくる。看板の「当店独特の 満州名物 水餃子 大盛十五銭」「満洲丼(どんなのだろう?)三○銭」の看板に喜んで店内へ入ると、なんと王くんの妻がお出迎え! ここでようやく感動の再会となる。恥ずかしさから、自分が見栄を張っていたことを謝る王くん。さらに、その義妹が、憧れの麗琴だと知って、さらに有頂天の凸凹二人組。
ある日、凸凹二人組は、麗琴目当てに店にやってくるが、婚約者・徐くんに紹介されて「プチ失恋」。しかも二人は近々結婚をして、王くん夫妻共々満州国へ帰ると聞いて尚更ショボンとなる。東京にいる意味を見失った凸凹二人組は、隅田公園をとぼとぼ歩く。言問橋から松屋方向を望む道。チンドン屋が服部富子の「満州娘」を演奏して練り歩く。子供たちが殺到する。このシーン、大谷俊夫監督の狙いだろうが、かつて「満州二人組」が尋人のプラカードを下げて街を歩くだけで、子供たちが殺到した。そのシーンと呼応する。もはや、自分たちの居場所はここではない、と二人が満州への帰国を決意する。
二人は「アジア歯磨」社長に事情を話して、契約解除を申し入れる。普通だったら身勝手な「契約違反」と怒るところだが、ここでも「満人に優しい日本人」を強調しているので、社長は快諾して、さらには特別手当まで呉れる。麗琴に、満州に帰ることを告げる二人。「ぢゃ一緒に満州へ帰れますわね。満州に行ったら、きっと一緒に努力してみませう」と麗琴。
エンディングは、麗琴と徐くん夫妻、王くん夫妻、凸凹二人組が、肥沃な満州で農業に励シーンを現地ロケーションで展開。日本の観客にとっては「満州楽土」のヴィジュアル化であり、満人にとっては「おうちが一番」である。日満友好で、理想的な国家を築き上げよう!というプロパガンダで映画は終わる。
この映画を撮影、公開した時点では、これから5年の間に、出演者、製作者、観客、画面に写っている人々に、どんな運命が待ち受けているか、知るよしもなかっただろう。歴史のその後を知っているだけに、こうした「理想」「スローガン」「プロパガンダ」に胸が痛む。戦前、戦中の映画を観て検証していくのは、実はその部分を忘れてはいけないんだなぁと、しみじみ思う。
東宝で古川ロッパの快作『ハリキリ・ボーイ』(1937年)や『楽園の合唱』(同年)などの音楽コメディと得意としてきた大谷俊夫監督は、この映画の前年、新天地を求めて渡満、満映に入って『冤魂復仇』(1939年)から、敗戦直前の『虎狼闘艶』(1945年)まで、満州映画協会で本作も含めて11作の映画を撮っている。特に興味があるのが、中田弘二、風見章子も出演した『現代日本』(1940年)という作品。どんな映画だったのだろう? ともあれ大谷俊夫監督は、そのまま東宝にいたら戦時下、11本もの映画は撮れなかったかもしれない。さまざまな思いが去来する。