森繁久彌さんが名実ともに現在のイメージを作るきっかけとなったのが、昭和30(1955)年9月13日封切りの織田作之助原作『夫婦善哉』。同時上映は、柳家金語楼さんの喜劇『若夫婦なやまし日記』だった。

 織田作之助は、大阪に生まれ育ち、大阪文化、浪速の人々をこよなく愛し、市井に生きる人々を綴った。昭和15年4月、同人誌「海風」に発表した「夫婦善哉」は、船場の放蕩息子でダメ男の柳吉と、しっかりもので情にもろい蝶子、二人の「腐れ縁」ともいうべき生々流転を、滋味深く描いて、高く評価された。織田作之助はラジオドラマやシナリオも手がけた才人だが、敗戦二年目の昭和22(1947)年、36歳の若さで病没。

 さて『夫婦善哉』の監督は戦前から東宝で活躍してきた豊田四郎。この作品を機に、森繁久彌さんと淡島千景さんのコンビで、文芸映画の佳作を次々と手がける。「駅前シリーズ」の第一作となった『駅前旅館』(1958年)は、この『夫婦善哉』的な、文芸風俗喜劇として企画された。こちらが戦前大阪の風俗ドラマとするなら、『駅前旅館』は戦後の東京の風俗ドラマとなっている。いわば対の作品。

 大正時代の大阪。曽根崎新地の売れっ子芸者・蝶子(淡島千景)が、船場の化粧問屋の若旦那・柳吉(森繁)と熱海の温泉旅館に駆け落ちと洒落込むが、大正12年9月1日の関東大震災に遭遇。東京での新生活を断念して、仕方なく大阪に逆戻り。

 優柔不断でお人好し、金と女にだらしないけど、憎めないダメ男を森繁さんが、見事に造型している。金縁のメガネをかけているが、それが伊達眼鏡だとわかるシーンがなかなか。気が弱いので、ここぞという時に、何もできない。男としては身につまされるが、森繁さんのうまさに、見ていて「しょうもない」と思いながらも、惚れ惚れとする。しかも大阪弁ネイティブなので、戦前の船場の若旦那のおっとりとした大阪弁も味になっている。

 その柳吉を「一人前の男にする」と、懸命にささえる蝶子のけなげな愛。二人がむつまじく暮らす前半は、豊田四郎の演出の丁寧さ、二人の巧みな演技により、しみじみ味わい深い。

 この頃の森繁さんは、人気コメディアンから実力派俳優へと着実にシフトしつつある頃。この映画の一週間前には新東宝で『森繁のデマカセ紳士』に主演。いわゆるアチャラカ映画もこなす芸達者でしたが、この『夫婦善哉』の演技が高く評価され、名実ともに演技派となる。それまでの喜劇での軽薄さ、軽みが、文芸作品での「味」になる。それも40歳を過ぎての遅咲きだけに、周到に計算してのこと。

 蝶子の実家に転がり込んだ柳吉が昆布の佃煮を作りながら「小倉屋よりうまいもんを」といいますが、小倉屋とは大阪の老舗の佃煮やさん。森繁さんは昭和33年、川島雄三監督の『暖簾』で、この小倉屋の主人を演じることとなる。

 それから二人の父親を演じた俳優も素晴らしい。柳吉の父・維康伊兵衛(小堀誠)の頑固さ、蝶子の父で惣菜の天ぷらをいつも揚げている種吉(田村楽太)。明治時代から舞台で活躍してきた小堀誠さんは、ダメな跡取りに殆愛想が尽きた大旦那の黄昏を好演。また田村楽太さんの大阪のおっちゃんぶりと、一見卑屈に見えるけど、人生の苦汁を知っている、そんな種吉の人生を感じさせてくれる田村楽太さんが実にいい。田村さんはこの後も『世にも面白い男の一生 桂春団治』(1956年)、『野良猫』(1958年)、『花のれん』(1959年)と森繁大阪映画に出演している。

 蝶子と柳吉がカレーを食べるのは、大阪難波にある「自由軒」。ここのカレーはご飯にルーを混ぜてあり、真ん中に卵が落としてある。それを混ぜてかき込む。大阪らしい食べ物で、今でも名物となってるが、蝶子の柳吉への想いを象徴するシーンとして劇中、三回登場する。三回目、朝帰りの蝶子が一人、自由軒でカレーを頼み、少し口をつけただけで店を出ていくシーンの切なさ。

 またタイトルの「夫婦善哉」は、法善寺横丁境内にある甘味処。何もかも失った柳吉と蝶子が、むつまじく肩を寄せ合うラスト。そこで森繁さんの名台詞「たよりにしてまっせ、おばはん」淡島千景さんと森繁さんは、この後「駅前シリーズ」を中心に次々と共演。八年後の昭和38年には、同じスタッフ、キャストによる姉妹篇『新・夫婦善哉』が作られることとなる。

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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