1965(昭和40)年、ハナ肇とクレイジーキャッツは結成十周年を迎えた。三年前の1962(昭和37)年の『ニッポン無責任時代』からスタートした東宝クレージー映画も、「日本一の男」シリーズ、「クレージー作戦」シリーズを中心にハイペースで作られていた。さらに『ホラ吹き太閤記』(64年10月・古澤憲吾)からは時代劇もバリエーションに加えられ、映画のために書き下ろされた主題歌や挿入歌は、レコード発売され、テレビで歌われたヒット曲が映画で歌われるという幸福な状況が続いた。

 しかし1964(昭和39)年、『無責任遊侠伝』(7月・杉江敏男)撮影中、植木等がビールス性肝炎で倒れるというアクシデントもあった。1963(昭和38)年には通年で、ゲスト出演も含め、植木は12本もの映画に出演するという多忙ぶりで、それ以外にテレビやラジオ、そして舞台と大忙しだったわけで、その人気の凄まじさが伺える。

 さて結成10周年記念リサイタルが「東京宝塚劇場」で行われ、アニバーサリー気運が高まっていた1965年の秋、「結成10周年」を謳い上げた記念作が作られた。笠原良三、田波靖男脚本、古澤憲吾監督の『大冒険』(10月)は、世界に名だたる円谷英二を特技監督として迎え、それまでにないスケールを目指して作られた。

 この映画で植木は、ビルからワイヤーで吊るされ、鉄橋にぶら下がり、そのまま馬に乗ったりと、過酷なことをスタントなしで演じていた。突撃監督の異名を持つ古澤憲吾らしいが、植木はその馬に跨がったまま列車に飛び乗り、挙げ句にはバイクでジャンプをするという離れ業まで求められたという。そのバイクスタントは、結局、植木の付き人だった小松政夫が任されたという。

 ことほどさように古澤演出による「日本一の男」シリーズの勢いは、植木等のパワフルなイメージの源泉でもあり、スクリーンにおける二人の相性は抜群だった。青島幸男の歌詞のイメージを古澤の大胆な演出が明確にビジュアル化をし、そのイメージで映画の挿入歌が作られていたのが、1965年あたりのこと。

 植木の個性を最大限に引き出したのが古澤なら、谷啓と相性がピッタリだったのが『クレージーだよ奇想天外』(66年5月)の坪島孝監督だった。アメリカのコメディや不条理なSFが好きな坪島は、谷啓のホンワカした独特なムードを引き出すのに成功。古澤のような爆発力や瞬発力はないものの、上品な喜劇という雰囲気は、脚本の田波靖男のテイストとも一致していたと思われる。昭和40年代前半、植木=古澤コンビと、谷=坪島コンビの両輪が東宝クレージー映画を動かしていたのだ。

 一方、リーダーのハナ肇は、早くから映画で主役を演じていた。川島雄三の遺作となった『イチかバチか』(63年)での工場誘致を推進するハッタリ市長などの大風呂敷キャラクターは天下一品で、日本女子バレーを金メダルに導いた鬼の大松監督に扮した『おれについてこい!』(65年・堀川弘通)など、映画でもリーダーシップを発揮していた。しかし、演技者として、ハナの魅力を最大限にスクリーンに引き出したのは『馬鹿まるだし』(63年)の山田洋次監督だろう。ハナ=山田コンビは、粗野だがすこぶるお人好しの主人公が大暴れするパワフルな喜劇「馬鹿シリーズ」を松竹で連打。後の「男はつらいよ」の原点と評されることが多いが、これは紛れもなくハナと山田のオリジナル。なかでも、犬塚弘の名演が光った『馬鹿が戦車でやってくる』(64年)や、シリーズ最高作『なつかしい風来坊』(66年)など秀作が多い。「馬鹿シリーズ」終了後も、ハナ=山田コンビは「喜劇一発シリーズ」を連打、テレビ「ゲバゲバ90分」の人気キャラをスピンオフさせた「為五郎シリーズ」も野村芳太郎監督らが作って行くことになる。

 そうしたなか、メインストリームの東宝クレージー映画は、年間3〜4本のハイペースで作られていた。谷啓主演の異色作『クレージーだよ奇想天外』は1966(昭和42)年の五月末、加山雄三の『アルプスの若大将』(古澤憲吾)と二本立てで公開、興業成績8位を記録するヒットとなった。その翌年のゴールデンウイークには、一本立て公開の超大作『クレージー黄金作戦』(4月)が登場。喜劇で上映時間二時間半を超す大作といのは前代未聞。しかもアメリカ縦断ロケという大スケールを成立させてしまったのは、クレージー映画の底力であり、渡辺プロの実力でもあった。
 ラスベガス大通りを封鎖し、クレイジーの七人組がダンスを繰り広げるというビジュアルは、戦後焼け跡からスタートした昭和ヒトケタ世代の、まさしくジャパニーズドリームを象徴していたような気がする。
 撮っても撮っても終わらなかったとは『〜黄金作戦』の坪島監督の言葉だが、その年の興業成績3位を記録する大ヒットとなり、その翌年、メキシコ五輪に沸き立つ1968(昭和43)年の『クレージーメキシコ大作戦』(4月)でも、再び海外ロケの一本立て大作が作られている。

  その後もクレージー映画は連作され、植木等はスクリーンで歌い踊り続けたが、さしもの高度成長に翳りが見えた68年秋、それまでの東宝クレージー映画とはベクトルの異なる異色作が登場する。佐々木守、早坂暁の協同脚本、社会派でブラックな笑いも得意とした須川栄三監督の『日本一の裏切り男』(11月)である。それまでの会社組織で成功する「有言実行男」を主人公にしていた「日本一の男」シリーズが一変。時代に裏切られ続けながらもたくましく生きて来た「裏切り男」が、最後にニッポンそのものを売り飛ばしてしまうというスケールの大きな風刺劇は、「無責任男」の登場以来のインパクトが作品に内包されていた。

 1945(昭和20)年の敗戦から、製作された時点ではまだ未来の70年安保まで、戦後史のなかに植木等を放り込んだスタイル。ラジカルな展開とシニカルな結末は、クレージー映画の新たな可能性を示唆。続く『日本一の断絶男』(69年11月)では、いささか毒味が中和されたが、素性が最後まで不明な「断絶男」の迫力は植木でなくては醸し出せない異様さがあった。
 この路線が続けばとは、後年のファンの歯噛みだろう。映画産業は斜陽に歯止めが利かなくなりつつあり、大作志向の東宝クレージー映画もスケールダウンが否めなくなる。その中で『クレージーの大爆発』(69年5月・古澤憲吾)などの佳作が作られ、スケールをアイデアで補うという例の成功作となった。

 翌1970(昭和45)年は日本万国博が開催され、クレイジーも「笑い」をテーマにした「ガスパビリオン」で、立体映画に出演。東宝のスタッフによるこの実験映像は、会場の目玉の一つでもあった。そうしたなか、古澤憲吾監督の最後のクレージー映画となった『日本一のヤクザ男』(6月)が作られる。
 1971(昭和46)年、久々の海外ロケ作品『だまされて貰います』(4月・坪島孝)が作られ、その年の暮れの『日本一のショック男』(12月・坪島孝)で九年30作続いた東宝クレージー映画が終焉を迎える。石油ショック、公害、そして「ディスカバージャパン」に材をとった風俗喜劇だが、もはやパワフルな無責任男の影はなかった。翌年、十一年続いた「シャボン玉ホリデー」も終了する。

 東宝クレージー映画はその役割を終えたかのようだったが、70年代末、クレイジーキャッツに再び脚光が浴びることとなる。大瀧詠一のラジオ「ゴーゴー・ナイアガラ」のクレイジー特集やメンバーのゲスト出演は、オールナイト上映などサブカルチャーとしてのクレイジー・ブームの導火線となった。1986(昭和61)年の結成三十年を記念してのムーブメントでは東宝クレージー映画のアンソロジー「クレージーキャッツデラックス」(東宝・大瀧詠一監修)がリリースされ、この時点でクレージー映画はスタンダードとなった。まさにCRAZY CATS FOREVERである。

*2005年「クレージームービーズ VOL.2」(東芝EMI)ライナーノーツより

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