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『ホープさん サラリーマン虎の巻』(1951年10月19日・東宝・山本嘉次郎)

 戦後の東宝サラリーマン映画のスタートとなった、源氏鶏太原作、小林桂樹主演、山本嘉次郎監督『ホープさん サラリーマン虎の巻』(1951年10月19日・東宝)をスクリーン投影。十数年ぶりなので、色々と発見もあり、感慨深かった。戦前、明治製菓宣伝課からP.C.L.へと入社した藤本真澄は、最初はサラリーマン経験、宣伝マン経験を活かして映画宣伝を中心にP.C.L.から東宝草創期に活躍。その後、傍系の南旺映画を任されて、千葉泰樹などと映画作りに専念。戦前、戦中の東宝カラーに貢献してきた。

戦後は、東宝争議により退社、銀座に藤本プロを設立して外部プロデューサーとして、石坂洋次郎の今井正『青い山脈』(1949年7月・東宝)を完成させ、戦後民主主義、リベラルな風で描くことに成功。藤本プロでは石坂洋次郎の『石中先生行状記』(1950年1月・成瀬巳喜男)、『若い娘たち』(ラジオドラマの映画化『えり子とともに』二部作(1951年1月、2月・豊田四郎)(1951年・千葉泰樹)、井上靖原作のメロドラマ『その人の名は云えない』(1951年5月・杉江敏男)、青春映画『若人の歌』(1951年8月・千葉泰樹)など、昭和30年代につながる東宝娯楽映画のカラーの礎を築いてきた。

 そして、この『ホープさん』で、サラリーマン小説の雄となっていく大衆作家、源氏鶏太の世界を映画化した。その経緯は、藤本が打ち合わせで通っていた東宝文芸部の入っていたビルに文藝春秋社の社友室があり、書籍編集者や作家たちが出入りしていた。そこで藤本は雑誌や単行本のベストセラーの動向をいち早くキャッチして、出版社タイアップによる映画化を積極的に行なっていた。映画と本のメディアミックスである。もちろん戦前、P.C.L.時代から東宝に限らず映画会社は大衆小説、新聞小説の映画化に力を入れてきた。

 敗戦後六年、戦争から帰ってきた人たち、戦禍で苦労をした人々の生活も落ち着き始め、東京、大阪などの都市部ではホワイトカラーのサラリーマンが、戦前のように急増していた。戦前は大学を出て、サラリーマンになることはステイタスだった。しかし世界恐慌の煽りを受けて、サラリーマンになったものの・・・という生活の苦労も現実だった。戦前、松竹の城戸四郎は小津安二郎、成瀬巳喜男、野村浩将などに「会社員もの」制作を奨励、サラリーマン映画が連作された。城戸四郎を信奉していた藤本真澄は、戦後、サラリーマン映画の復活を目論み、そこで源氏鶏太という金の鉱脈を掘り当てることになる。

 源氏鶏太は、小説を執筆しながら、昭和5(1930)年、大阪の住友合資会社(のちの住友商事)に入社。ずっと経理畑で、戦後の財閥解体時には、GHQの命を受けて、住友本社の清算事務に関わった。一方、作家としては昭和25(1950)年にサラリーマン小説「随行さん」「目録さん」「木石にあらず」で、上半期・下半期の直木賞候補となり、昭和26(1951)年に「英語屋さん」ほかで第25回直木賞を受賞。ユーモア溢れる筆致は、当時のサラリーマンたちの共感を得ていた。

 そこで藤本真澄は、かねてから目をかけていたが、大映ではなかなか目が出なかった小林桂樹を抜擢して源氏鶏太の「ホープさん」の映画化を企画。監督には、戦前、P.C.L.映画のカラーを作った娯楽映画のマエストロ、山本嘉次郎に依頼。脚本は『青い山脈』など気心の知れた井手俊郎と山本嘉次郎。フレッシュマンの奮闘を描く「ホープさん」に加え、「随行さん」のエッセンスも加えた脚本は、のちの東宝サラリーマン映画のさまざまな「手」のショーケースとなっている。

 さらに、音楽には、敗戦直後からNHKラジオ「日曜娯楽版」の「冗談音楽」で一世を風靡していたマルチクリエイター、三木鶏郎が参加。主題歌「僕はサラリーマン」(作詞・サトウハチロー 作曲・三木鶏郎 唄・三木鶏郎、並木路子)、「サラリーマン・エレジー」(作詞・作曲・同 唄・伊藤久男)がコロムビアからリリースされた。三木鶏郎の劇伴奏は、適材適所で、新潟行きの列車のシーンには「僕は特急の機関士で」のインストが流れたり、実に効果的。トリメロ好きにはたまらない。

小林桂樹

 慶應ならぬ慶法大学野球部の万年補欠選手だった風間京太(小林桂樹)が、丸の内の昭和鉱業株式会社の入社試験を受けるシーンから映画は始まる。母一人子一人、どうやらマザコンの京太には、なぜか母(三好栄子)が付き添って、とやかくうるさい。優柔不断な京太は母に背中を押されて、積極主義で面接試験をパス。見事入社する。東宝サラリーマン映画の小林桂樹は、「社長シリーズ」でも「サラリーマン出世太閤記」シリーズでもそうなるが、母親を大事にしている。これは、生涯独身で母親と暮らしていた藤本真澄と重なる。

 さて、庶務課勤務となった京太の隣席には、可憐な事務員・若子(高千穂ひづる)がいて、二人はすぐに相思相愛となる。若子の父・茂木(東野英治郎)は定年間近の人事課長。何かにつけて京太の面倒を見ることに。野球部に入った京太は、日本製鉱との対抗試合に、ピンチヒッターとして打席に立ち、見事ホームラン。これが秋葉社長(志村喬)の目に止まり、社長秘書として東北・北海道出張の「随行さん」に抜擢される。

小林桂樹

 このあたりはのちの『サラリーマン出世太閤記』(1958年・筧正典)や、同じ「随行さん」を原作にした『社長道中記』(1960年・松林宗恵)でも、小林桂樹自身によってリフレインされる。同時に、サラリーマンの悲哀、源氏鶏太原作らしい「ほろ苦さ」も随所に描かれているのが味わい深い。

 秋葉社長は「三等重役」の桑原社長同様、先代・吉川社長(小川虎之助)が公職追放でパージされたために、経営を任されたサラリーマン社長。なので、いつ前社長が復帰するがビクビクしている。その夫人を演じているのは『ラッキーさん』『三等重役』二部作、『一等社員』で、河村黎吉社長夫人の沢村貞子。なので四作連続で「三等重役」夫人を演じることになる。

 おかしいのは、一見、豪放磊落に見えるが小心者の秋葉社長が、戦前は、先代・吉川社長の「随行さん」からキャリアをスタートさせたこと。このあたり、源氏鶏太の世界ではあるが、山本嘉次郎映画ならではのペーソスとユーモアを感じる。中盤は、秋葉社長の「随行さん」となり、社内の誰もから「ホープさん」と呼ばれるようになった京太が、生真面目すぎるために、失敗を連発する。遅れてきた世代は『社長道中記』がこの『ホープさん』のリフレインであることを感じて、嬉しい気分になる。

志村喬

 旅先で夫が浮気しないように、社長夫人から密かに「監視役」を命ぜられた京太が、それを忠実に守ろうとするあまり、というのは十年後の「社長シリーズ」で繰り返されるので安心して観ていられる。弁当を忘れた京太が、空腹で不機嫌になった社長に命ぜられて途中の駅弁を買うシーン。この時代、駅弁を買うにも「外食券」が必要だったことがわかる。結局、駅弁屋とのやりとりでもたついて、列車に乗り遅れてしまう大失態。

 新潟では、秋葉社長が先代・吉川社長の愛人だった芸者・ひょうたん(花柳小菊)としんねりむっつり。なんとか浮気を阻止しようとする京太。この辺りも「社長シリーズ」で繰り返される。というわけで、さまざまな原点を味わうことができる。

給仕は井上大助!
三好栄子

 三木鶏郎の音楽が見事に生かされているのは、中盤のスクエアダンスのシーン・クサクサした京太と若子がランデブーしてパチンコをするが面白くない。そこで、音楽に誘われるまま、日比谷公園でのスクエアダンスの会に参加。多くの人々と一緒にフォークダンスに興じる。戦後民主主義のリベラルな感覚がここで活写されている。ここでの音楽アレンジが見事で、そのまま二人は高揚感のなか、初めての接吻。結婚の約束をする。

 しかし、秋葉社長の娘・恵美子(関千恵子)が、京太に一目惚れしてモーションをかけてくる。面白くないのは、恋人・若子。宝塚時代の高千穂ひづるがとてもチャーミング。若子には、画家の兄・一郎(大森義夫)がいて、父とは断絶したままアルプスで遭難死したことになっている。こうした屈託は、この映画では解決されない。茂木課長が京太を息子のように可愛がる理由はそこにあるのだが、息子との和解は描かれない。

高千穂ひづる
大森義夫

 それどころか、「随行さん」の働きによって社長の覚えが良くなった京太は、人事課長に大抜擢される。茂木課長の耳が遠くなったために、起きたトラブルについて、京太が社長に漏らしてしまったために、茂木課長は早期退職を迫られる。それが禍根となり、若子は京太から離れていく。京太は出世と引き換えに大事なものを失ってしまう。こうした「苦さ」は、次作『ラッキーさん』(1952年・市川崑)に引き継がれるが、以後の東宝サラリーマン映画では、描かれることがなくなる。日本の経済復興、高度成長を邁進していく時代に寄り添って「社長シリーズ」は家族的会社経営を是とする終身雇用のコミュニティのコメディとなっていく。

 

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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