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 織田作之助の「わが町」は、明治末にフィリピンで難航と言われた道路建設工事を成功させた人夫頭、ベンゲットの他ァやんこと佐渡島他吉の一代記。大阪、天王寺近くの「河童(ガタロ)小路」にある棟割り長屋を舞台に、南十字星の下で過ごした日々を矜持に、破天荒な人生を送った他ァやんの、明治、大正、昭和を描いた物語である。

 太平洋戦争中に松竹でシナリオ作家として糊口をしのいでいた織田に、溝口健二監督が依頼したのが「わが町」のシナリオだった。小説執筆の一年前、昭和17(1942)年に織田作が書いたものが大阪府立図書館にある織田文庫に収蔵されている。このシナリオ執筆は、織田にとっては苦労の連続で、妥協を許さない巨匠・溝口健二の下での作業は相当厳しかったと、織田作自身が周囲に漏らしている。結局映画化は見送られ、昭和18.年に小説として発表されている。

 織田と川島といえば、川島のデビュー作の原作・脚本家として出会って以来の旧友。現在『還って来た男』(44年松竹)として知られている作品だが、もとは『四つの都』というシナリオ・タイトルだった。さて、織田といえば。太宰治、坂口安吾とともに新戯作派、無頼派と呼ばれ、若くしてその才能を評価された作家。大阪風俗とそこに生きる人々の哀感を描いた小説も得意とし、昭和30(1955)年に東宝で豊田四郎監督、森繁久彌主演で映画化された『夫婦善哉』の原作者としても知られている。余談だが、昭和18年4月に発表された原作小説には、「夫婦善哉」の主人公・蝶子と柳吉のその後も描かれている。その洒脱な感覚と、都会生活者としてのモダニズムは、川島雄三監督の戯作者としてのセンスを刺激。東北、下北半島の出身であることを、自ら話す事は少なかった川島監督にとって、モダンな都市生活者としての織田は一つの理想だったのかも知れない。

 こんなエピソードがある。昭和20(1945)年3月8日、川島雄三は織田に「戦争が終わったら、軽佻派を立ち上げよう」と手紙を書いている。第一次世界大戦後に「表現派」運動が起きたように、「軽佻派」を標榜しようというのだ。東京大空襲の直前、そろそろ本土決戦という事がささやかれていた頃にである。ご存知のように川島は、その「日本軽佻派」を実践。戦後、松竹のプログラムピクチャーを「生活のため」とはいえ、連作していくなかで、戯作者としてのセンスを磨いていくこととなる。そういう意味では、戦後「日本軽佻派」を実践していこうとしていた矢先、昭和22(1947)年1月10日に、業病である結核で織田が急逝。川島にとっては無念だったに違いない。

 その織田の幻の映画作品『わが町』は、川島にとっても念願の企画だった。昭和30年には「夫婦善哉」が映画化されたこともあり、映画界や文学界に織田作再びという機運もあって、映画化が実現。脚本は『夫婦善哉』も手掛けたベテランの八住利雄。八住と川島は後に宝塚映画で、やはり大阪を舞台にした昆布商人の一代記『暖簾』(58年)で再びコンビを組むこととなる。

 さて、念願の映画化が実現したものの、主演の辰巳柳太郎の新国劇の舞台スケジュールの関係で。撮影期間が先にフィックスされてしまう。徹底的な準備を行うことで知られる川島組だが、この時は三橋達也、新珠三千代の佳作『洲崎パラダイス 赤信号』(56年)の撮影と重なり、撮影と平行しながら準備が進められたという。だから助監督も、毎作品チーフを勤めている今村昌平は『洲崎パラダイス』の仕上げに回って、代わって松尾昭典が、大阪風俗の検証や、スケジュール管理のための準備を勧めていた。『洲崎パダライス』 に参加していた浦山桐郎は、早めに現場を切り上げて『わが町』に参加している。日活に残されている製作進行表によると、脚本審査日は、前年の昭和30(1955)年8月17日。『夫婦善哉』のヒットを受けて、企画されたものだと推測できる。クランクインが昭和31年7月3日、クランクアップが8月16日とあある。撮影延べ日数が53日、実質的には36日だった。

 調布にある日活撮影所に、織田文学発祥の地でもある大阪の河童小路をオープンセットで再現。明治から昭和にかけての、大阪の市井の人々の生活の舞台を適度にデフォルメしつつ、リアルに作り上げたのが川島組の美術をずっと手掛けてきた中村公彦。この映画のもう一つの主役が、この河童小路。真夏のしゃくれ返ったドブ板や、障子の破れ、戸のガタツキなど、スタッフのこだわりが細見される。

 主人公・佐渡島多吉は、やはり辰巳柳太郎を置いて他にはないだろう。舞台「佐渡島他吉の生涯」では森繁久彌が当たり役とし、現在は北大路欣也が演じている。一本気だけど無茶苦茶、自分の我を押し通す、子供のような愛すべき他ァやんは、遥か後、はるき悦己の「じゃりん子チエ」の父親・テツをはじめとする、幾多のオヤジ・キャラクターの遥かなるルーツ的存在のような感がある。オープニング、絵物語で展開される他ァやんのフィリピンでの活躍の勇ましさ。明けて、車弾きとして登場する他ァやんの庶民性。立志伝中の人物でなく、かなり破天荒な男としての他ァやんは、実に魅力的である。プイとフィリピンに出稼ぎに出たまま、還らぬ夫を諦めていた妻・お鶴(南田洋子)との再会。身勝手な夫への怒りをストレートにぶつける名場面である。そこからのドラマは生々流転。次々と押し寄せて行く不幸にも、ものともしない。町内マラソン大会のエピソードの楽しさ。いつも心は南十字星の下にいる他ァやんは、娘・初枝(高友子)の夫・新太郎(大坂志郎)にも「男ならフィリピンや!」と、むりやりフィリピンに送り出してしまう。

 その病死を知る場面の演出は、まさに浪花節。これまでの川島映画ではあまり見られないような、大衆演劇的な感じもある。だからこそ、他ァやんの人柄がストレートに伝わってくる。孫娘を男手一つで育てて行く中盤。おじいちゃんの無茶な論理に振り回されながらも、心を通わせる。河童小路の長屋の連中も実に楽しい。長屋の隣に住む、売れない噺家・桂〆団治(殿山泰司)との友情、そして近所の床屋のおたか(北林谷栄)らと過ごしてく数十年。老女優のイメージが強い北林が、実年齢から老け役までを演じ分けて行くことで、時間経過がわかるというのもユニーク。

 さまざまなエピソードを重ねながら、まるで子供のような他ァやんの日常が綴られて行く。満州事変、太平洋戦争、終戦という時間を、土手を走る他ァやんの人力車の遠景に重ねて処理して行く大胆さ。続く、戦後風俗を描く後半。しっかり者に育った孫娘・君枝(南田洋子)と、少年時代を他ァやんたちと過ごした、夕刊少年が成長した次郎(三橋達也)のさわやかな恋愛。年をとって、いささかガタが来ているとはいえ、他ァやんの代わらぬ無茶な性格。ここで活写されている昭和二十年代から三十年代にかけての大阪の風俗描写も、都市の記録としては貴重なものとなっている。

 心斎橋の大丸百貨店の前、地下鉄の改札口、そこに息づく人々は、まさに昭和の日本人たちである。製作されてから経年するほど、こうしたさりげないショットは貴重な記録となっていく。君枝と次郎が食事をする千日前の正弁丹吾亭もまた、食を愛した織田作映画らしい。当時としてもかなり高めの1200円という勘定をさらっと払えるほどの次郎の羽振りの良さ。その支払いの会話のときの、君枝の仕草。細やかな演出が感じられる。

 老いては危ないと、多ァやんに内緒で君枝が人力車を売ってしまうエピソードの切なさ。それを買って、なれぬ車夫になろうとする〆団治の老い。続く乱闘シーンが胸に迫る。

 そしてラストに登場する四ツ橋の「大阪市立電気科学館」のプラネタリウム。ここでは南十字星を見ることができるのだ。わざわざ「カールツァイスのレンズ」という言い方で次郎がプラネタリウムを説明する台詞があるが、キャメラや光学機器を愛した川島らしい。その科学館で、満天の星空の下で他ァやんが迎えるラストまで、愛すべき名場面が連続の佳作である。

追記:四ツ橋の「大阪市立電気科学館」は、現在中之島にある「大阪市立科学館」の前身であると、友人でプラネタリウムのプロデューサー、鬼島清美さんに教えて頂きました。

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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