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「報国寺」【鎌倉ぐらし/社寺参詣】

きっかけは 「コロナ断捨離」中に出てきた1冊のノート。
上京前、21歳のときに書いた人生の設計図。

その日は苦笑いしながら「捨てるモノ」箱に放り投げたけれど、ずっと心に引っかかっていた。

“40代で鎌倉ぐらし”

あれから4年。
全然、20代の頃に思い描いた自分ではなかったけれど、ある日、ふと思いついた。
(今じゃないか?)

これまで、どうしても迷ったときは「やらぬ後悔より、やって後悔」で「やる」ことを心がけてきた。
(迷ったときは一歩前へ)

“思いつきと思いきり”

令和6年(2024)7月、諸々の態勢を立て直すべく、東京から鎌倉へ引っ越した。

“鎌倉ぐらし”の記録として、SNSに投稿した【社寺参詣】をnoteに残していく。

鎌倉ぐらし/社寺参詣

功臣山報国建忠禅寺(報国寺)

鎌倉五山の第五位「浄妙寺」の南、宅間ヶ谷(たくまがやつ、宅間谷とも)に佇む。
臨済宗建長寺派の「報国寺」は、正式には「功臣山報国建忠禅寺」という。

開基は、天文年間(1532~1555)に成立したとされる『五山記考異』などに足利尊氏の祖父・足利家時とあるものの、建武元年(1334)の創建時に家時はこの世にないことから、家時を弔うために宅間ヶ谷にあった上杉重兼によって創建されたのではないかといわれている。

開山の天岸慧広は「建長寺」の無学祖元、下野「雲巌寺」の高峰顕日などを師事したのちに渡元し、元代禅林の第一人者・古林清茂らに学んで、元徳元年(1329)に帰国したとされる人物。

本尊は釈迦如来坐像。

境内にある「やぐら」は、開基の家時と、永享10年(1438)に第4代鎌倉公方・足利持氏が室町幕府第6代将軍・足利義教に対して起こした「永享の乱」で自害した足利義久(持氏の子)の墓と伝えられる。

また現在は、本堂裏手の孟宗竹の林「竹の庭」が見事であることから「竹庭の寺」「竹の寺」などと呼ばれ、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで3つ星の評価を得て海外からも注目を集めている。

余談ながら、関東地方でよく見られる「谷戸(やと)」という地名は谷間や湿地のことで、鎌倉では「谷(やつ)」といい、平安時代後期から南北朝時代まで存続した宅間派という画派(絵師・絵仏師の流派)が拠点にしたことから、「報国寺」がある一帯を「宅間ヶ谷」と呼ぶようになったという。

令和6年(2024)10月26日のFacebookより


【撮影日】
令和6年(2024)10月11日

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以上

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