ぶつかってなんぼ|好きなことをやろう|#711C

毎日投稿711日目。今日はTC関連の話題について書くので、知らない人は意味がわからないものになることをお断りしてスタート。


TCC2を伝える

昨日の夜、東京からKさんが来ていて夜ご飯にお誘いいただいた。Kさんは3年前に私がTCCを普及する草の根活動をしていた時に使い始めてくれて、今回リニューアルしたTCC2に乗り換えもしてくれていた。嬉しいことだ。

食事のあとはTCC2の使い方の質問なども受け、私にとっては超久しぶりのTC話だったために新鮮で楽しく、おかげさまで新しい発想やモチベーションも生まれてバーニングしている。

これからTCC2の設定に関することや、私なりの使い方のミニコンテンツを作るぞ!という気持ちが溢れている。

やっぱりこういう刺激が入らないと、コンテンツとか生み出せないよな。誰かの必要を感じないところに、こちらからただ作ろうとするのは宙に絵を描くような難しさがある。


東京組うらやましい

それにしても昨日の一件は、同時に東京組へのうらやましさを感じた。あっちではみんなしょっちゅうこんな感じで、リアルでTCの話をしてんだよなあーーーと(地方在住者の偏見にまみれた目)

以前に毎晩TCCをおすすめする活動をしていた頃には質問も受けていたが、それも2年以上も前の話。

最近はもはや空気のようになっているTCC2を1人淡々と使いながら、TCAでの活動に関わりつつもべつにツールの話をする機会は私にはない。

協会のDiscordは今10期が走っているので、そこで応答すればいつだってTCCの話しはできるだろうにとも思うが、それはなんか違うのよねと。昨晩のような種類のモチベーションはわかない。


顔が見えないとやる気が出ない

何が違うんだろう?たぶん私は「顔が見える」と感じられるやりとりじゃないとテンションが上がらないのだ。

だからイベントなどで対話した人なんかにはとりわけ反応できるのだけど、知らない人にあんまり対応できない。脳のスイッチが死んでいる。

これは誰にとっても自然なことかもしれないが、しかしSまりさんみたいな怪物もいるし、やっぱり人それぞれに得意領域はあると思う。なんというか、力を込められる場所、自然にやれてしまう場所というもの。

私の場合は、私が好きな人にしか興味が持てないが、好きな人となら無限にがんばれるというところだろうか。


なにをやっても叩く人はいる

好きな人とならがんばれる、好きなことならがんばれる、なんて当たり前だろと思われるかもしれないが、はたしてそうか?けっこう淡白な人の方が多いと思うね。

(淡白という言葉はチョイスが悪いかもしれない。しかし「淡白」なのが悪いわけではまったくないし、どっちが優れているということもない。ただ「違い」の話がしたい)

私の異常性はたぶん好きになったものへのコミットの深さとその関わり方にある。その異常値を多人数コミュニティで全開にして動くと軋轢が生まれると感じていて、ここ1年近くは自粛傾向で過ごしている。

でもそうすると自分がそこにいる意味もないような気もしてきて、最近はまた気にせずにやろうと思い始めた。

なにをやってもそれが気に食わないという人は絶対にいる。自粛していても気に食わないという人は出る。活動していても気に食わないという人は出る。

ということで、私的な新しい世界線への移行に伴い、いろんなところで好きなことを勝手にやり散らかしていくぜと思っているのだ。


ぶつからなければ見えない形

「自分の形」は、外に出してみなければわからない。出すだけでは足りない。ぶつけてみなければ見えない。自分以外のものが補助線のようになってくれて、そうして自分の形を感じることができる。

人は誰でもいびつなもので、外に出せばだいたい必ず他者とぶつかる。ぶつかるのが怖くて丸まっている人も多いし、トラブらないように気をつけている人も多い。私もそうで、しかし出せるようになりたくてこのnoteも始めた。

誰かとぶつかる=誰かに迷惑かける、という部分を自粛しようとすると、精神的な引きこもりになってしまう。その程度に応じて、自分の持つ特有の、活き活きした生命力は失われる。

岡本太郎で言えば「芸術は爆発」だ。出してみて、トラブりながら自分の形がわかってきて、形がわかることで自分がハマる場所も探すことができる。そこからいろいろなところに移動してみて、ピタッとハマる場所や仕方を見つけるのだ。

怒られたら謝って、やめるか、移るか、それでも気にせず続けるか。それでいいのだ。これはだから、オマエ(自分)は外に出ていけという話。

外に出よう。好きなことをやっていいのだ。

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