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「物語」が「イズム」を超えるとき。

作品が出るたびに世界の文学賞をとり、「いずれはノーベル賞」の呼び声が高いナイジェリア出身の作家がいる。

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ。
恋愛小説の中に、ポストコロニアル、移民、ジェンダーなどの現実を、鋭い観察眼とリアルな描写、ときに皮肉とユーモアを交えた筆致で描き出す。

「物語の力で、使い古された『フェミニズム』や『アフリカ』という言葉に息吹を吹き込んだ。これはイズム(主義、概念)ではできないことです」

アディーチェ作品の邦訳をすべて手がけてきた、翻訳家のくぼたのぞみさんは言う。

物語の持つ力とはなにか。本に描かれた場面などをもとに、読み解いてもらった。

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チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie)(写真左、くぼたのぞみさん提供)
1977年、ナイジェリアに生まれ、19歳でアメリカに留学。03年にO・ヘンリー賞を受賞後、初の長編小説『パープル・ハイビスカス』でコモンウェルス初小説賞を受賞。イギリスから1960年に独立したナイジェリアでは7年後にビアフラ内戦が起きた。それを描いた『半分のぼった黄色い太陽』でオレンジ賞を最年少で受賞、長編『アメリカーナ』でアフリカ人作家初の全米批評家協会賞を受賞。2019年、短編集『なにかが首のまわりに』と『イジェアウェレへ フェミニスト宣言、15の提案』の邦訳、『アメリカーナ』の文庫版が出版された。

イズムでなく、物語の言葉で


はじめに、短編集『なにかが首のまわりに』に収録された同名の小説から、ある場面を紹介したい。ナイジェリアからアメリカへ渡った若い黒人女性(=きみ)が恋人の白人男性(=彼)とのやり取りを振り返っていく。

 彼は、本気でナイジェリアを見たいと思ってるんだ、二人分の航空券を払ってもいいよ、といった。故郷に帰るために、彼にチケット代を払ってもらうのは嫌だった。彼がナイジェリアへ行って、ナイジェリアを、貧しい人たちの生活をぼんやりながめてきた国のリストに加えるのも嫌だった。そこの人たちは「彼の」生活をぼんやりながめることなどできはしないのだから。ある晴れた日に、きみはそのことを彼にいった。(中略)

 きみは、ボンベイの貧しいインド人だけが本当のインド人だという彼は間違っている、といった。それじゃ、ハートフォードで見かけた太った貧しい人みたいじゃない彼は、本当のアメリカ人ではないってこと? 彼がきみを追い抜いてぐんぐん先に歩いていく。裸の、青白い上半身を見せて、ビーチサンダルで砂をちょっと跳ねあげて。でも彼はもどってきて、片手をきみに向かって差し出した。きみたちは仲直りして、セックスをして、互いに相手のヘアの中に指を走らせた。成長するトウモロコシの穂軸に揺れる房みたいに柔らかくて黄色い彼の毛、そして枕の詰め物のような弾力のある黒っぽいきみの毛。彼の肌は太陽にあたりすぎて熟れた西瓜のようになり、その背中にきみがキスしてローションをすり込んだ。

 きみの首に巻きついていたもの、眠りに落ちる直前にきみを窒息させそうになっていたものが、だんだんゆるんでいって、消えはじめた。

「なにかが首のまわりに」河出文庫所収 から抜粋)

くぼた:ジェンダーの視点から制度や法律を変える議論には、イズムの言葉が必要です。でも、日常の生活を変えるには、つまり、人と人の関係を変えるには、「物語」が大きなヒントをくれます。小説や物語は、即効性はないけれど、あとからじわりと効いてきますから。

物語には大きな力があって、アディーチェ自身も「物語はとても重要」だと言っています。それも「単一の物語(シングルストーリー)」ではなくて「複数の物語」が大事だと。物語は人を傷つけるけれど、人を癒す力もある。彼女はその物語の力を使って、「人と人は対等でありたい」というメッセージを、読者の心の奥まで伝えることに成功しています。これは「イズム」の言葉にはできないことでした。

アディーチェが語ったTED Talksの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』が、世界中で予想を超えるヒットになりました。アディーチェの最良の部分は、やはりストーリーテラーだということでしょう。物語に託して細やかな心の襞を描き分け、いくつもの小さな物語を通して、立場の違う人と人の関係を描いています。差異を認め合うにはまず言葉にしなければ、理解できない。違いがあっても、それを認めて支え合うことはできる。そういう可能性を開いて見せてくれているようです。

例えば、代表作『アメリカーナ』(2016年)。主人公イフェメルはナイジェリア出身のイボ人で、子どもの頃からぼんやりアメリカ行きを夢見ていました。

そんなイフェメルと、高校時代に、いっしょにアメリカへ行くことを約束した恋人オビンゼとの恋愛が描かれています。

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くぼた:物語の前半は、アメリカへ渡ってブロガーとして成功したのに、ラゴスへ帰郷することにしたイフェメルが、美容院で西アフリカ出身の美容師に髪を編んでもらいながら、自身の過去を振り返ります。

母国の学校時代の話、アメリカに来たばかりのころ家賃を払えずに苦境に瀕した話、一度は身につけた「アメリカ的」な話し方を捨てて、幼いころから馴染んできたナイジェリア英語で話そうと決めた時の話……。

「アフリカ」というと一般にアメリカ人がどんな反応をするか、それが移民たちのあいだにどんな反応を引き起こすかを、リアルに伝えるシーンがあります。美容師のアイシャが、イフェメルの髪を編み込んでいます。アイシャにはイボ人の恋人がいて、同じイボ人であるイフェメルに「結婚」について聞きます。

 「でもそれ、本当? イボ人はいつもイボ人と結婚するって?」
 「イボ人はいろんな人と結婚してるわよ。私のいとこの夫はヨルバ人。おじさんの奥さんはスコットランド出身」
 アイシャは髪をねじりながらちょっと黙り、鏡のなかのイフェメルを見つめて、彼女のことばを信じていいのか決めかねているようだった。
 「妹が本当だっていう。イボ人はいつもイボ人と結婚するって」
 「どうして妹さんにわかるの?」
 「アフリカにいるイボ人をたくさん知ってる。布を売ってるから」
 「どこにいるの?」
 「アフリカ」
 「どこ? セネガル?」
 「ベナン」
 「なぜ、国の名じゃなくてアフリカっていったの?」とイフェメルは訊いた。
 アイシャが舌打ちした。「あんたアメリカのことがわかってない。セネガルっていったら、それどこ? ってアメリカ人はいうでしょ。ブルキナファソからきた友達に、それラテンアメリカの国? って訊くよ、あの人たち」髪をねじる作業を再開したアイシャの顔に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。まるでここがどうなっているのか、イフェメルには理解できないのかというように訊いてきた。「アメリカにあんたどれくらい?」
 イフェメルはそのときアイシャのことを好きにならないと心に決めた。(中略)
 何年も前におなじような質問を受けたことがある。ウジュおばさんの友達の結婚式で、そのとき彼女は二年と答えた。事実だった。ところがナイジェリア人たちの顔に浮かんだ嘲りの色から、アメリカにいるナイジェリア人に、アメリカにいるアフリカ人に、そしてはっきりいってアメリカにいる移民に、まともに取り合ってもらう栄光にあずかるには、滞在年数を上乗せしなければならないことを学んだのだ。
(『アメリカーナ』河出文庫所収 から抜粋)

くぼた:アメリカに移民した者どうしが「滞在年数」を競い合っています。イフェメルの内部には違和感がふくらんでいたんですね。「自分ではない何か」に必死でなろうとする人たち、自分もまたそうだったと気づきます。

その後、9.11が起きて、憧れのアメリカへ行けなかったオビンゼが、イギリスに渡って不法労働で捕まり、強制送還される物語があって、ナイジェリアに帰国したイフェメルが大金持ちになったオビンゼと再会する終章へ進みます。

ナイジェリアとアメリカとの関係が物語の中心ですが、イギリスの移民社会のリアルも描かれている。ここでイギリスが入ることで、アフリカ大陸、アメリカ、ヨーロッパが結ばれて「環大西洋」になる。ここは重要なポイントなんです。

「環大西洋」とはかつての三角貿易、奴隷貿易の航路です。「移民」が世界中で問題になっていますが、アフリカからの「移民」に対して、私たちはどんなイメージを持っているでしょうか? そのイメージは、誰の目を通したものでしょうか?

現代の移民たちを、アディーチェは自分たちの物語として内側から描きます。これまで大きな物語では外側から描かれることが多かった人たちの物語のリアルをつむぎ、ここまですっと読者に理解させてしまう作家は、いなかったのではないでしょうか。

「与える側」が見落としていること

アディーチェの思いが圧縮したかたちで出ているのが、冒頭で紹介した「なにかが首のまわりに」です。実は、日本ではこの作品はまず2007年に「アメリカにいる、きみ」(You in America)という題名で訳されたのですが、今回あらたに文庫化されたものでは、結末が書き換えられています。

「きみ」が、母国へ帰るために白人の恋人に別れを告げる場面です。

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 きみが泣いているあいだ、彼はきみを抱いてくれた。髪を撫で、きみのチケットを買うよ、いっしょに行って家族に会うよ、と彼はいった。きみは、いいの、ひとりで帰らなければ、といった。もどってくるんだろ、ときくので、きみは自分のグリーンカードが一年以内にもどってこなければ失効することを彼に思い出させた。いってる意味はわかってるんだろ? もどってくるよな? くるよな?
 きみは顔をそむけてなにもわなかった。彼がきみを車で空港まで送ってくれたとき、きみは彼を長く、長く、しっかりと抱きしめて、それから手を放した。
(「なにかが首のまわりに」から抜粋)

くぼた:文庫化の前は、見送りに来た彼を、彼女は強く抱きしめて「ありがとう」と言って別れますが、新バージョンでは最後の「ありがとう」が削られています。なぜだと思いますか?

その白人の恋人は、「きみ」と付き合っている間、何度もプレゼントを贈ります。でも、彼女はそのプレゼントがだんだんうれしくなくなっていきます。

 きみは彼からのプレゼントに惑わされた。振ると内部でピンクの衣装を着たスリムな人形がスピンする、拳大のガラス球。触れるとその表面が触れたものの色に変わる、キラキラした石。メキシコで手描きされた高価なスカーフ。ついにきみは彼にむかって、皮肉っぽく長く引き延ばした声で、これまでのきみの人生では、プレゼントはいつだってなにかの役に立つものだった、といってしまった。たとえば大きな石、それなら穀物を挽ける。彼は大きな強い声で長いこと笑ったけど、きみは笑わなかった。(「なにかが首のまわりに」から抜粋)

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くぼた:英語のGift(贈り物)はドイツ語では「毒」という意味なんですね。オランダ語にもgiftig (有毒な)という語があります。

誰かが誰かに一方的に贈り物をするとき、贈る者と贈られる者の間に、ある力関係が生まれていきます。贈る方が上。もらう方は下。親子なら、いずれ関係は変わるけれど、贈る側と贈られる側が入れ替わることがなかったら? それも個人の力量や努力で超えられない理由によって。だとしたらその関係は「対等」ですか?

何かを贈られることによって、受け取る側に積もり積もっていくマイナスの心情があります。弱者がGiftによって受ける傷、屈辱、それをアディーチェは描いています。政治や経済の状況が個人の内部にたてるさざ波を見つめながら、ハードな歴史的事実と個人のソフトで繊細な感覚を巧みに喚起する作品をアディーチェは書いてきました。

『イジェアウェレへ フェミニスト宣言、15の提案』の中で、アディーチェはジェンダーの問題として、「相手との関係で、それを逆にするとおなじ結果になるか」と問うことを、人間として「対等」かどうかを考えるための「ものさし」として提案しています。

これを男女の関係のなかで、北と南の格差を絡めて描いてみせたのが、「なにかが首のまわりに」の海辺の喧嘩のエピソードであり、プレゼントのエピソードなんですね。たとえばナイジェリアに住む彼女の親戚が、アメリカをただ見るために訪れることができるだろうか。相手のプレゼントと同じ価値のものを、裕福な白人男性に贈り返せるだろうか、と。

立場を逆にして同じことが起こらないのであれば、両者の関係は人間として対等ではありえません。これは、常に「与える側」にいる強者が、「そういうものだ」という先入観で、生まれながらに与えられた特権として見落としていることです。

最初のバージョンからアディーチェが「ありがとう」を削ったのは、その辺のことと関係がありそうですね。

アフリカから見える「世界」

くぼた:私がアディーチェの名前を知ったのは2002年、短編「アメリカにいる、きみ」が、アフリカ文学の登竜門であるケイン賞の最終候補になったときです。

とてもいい作品を書く人だなと思っていたら、ネット上でアディーチェ自身のインタビュー記事をいくつも目にするようになりました。ああ、若い才能が出てきたなあ、とうれしかったですね。

人口が2億人近いナイジェリアは、1990年代後半まで軍政でした。民政に移行してから、壊滅状態だった出版産業が息を吹き返します。いまでは経済の伸び率がアフリカ最大と言われています。

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くぼた:私にとって、翻訳家としての最初の仕事は、J.M.クッツェー※の『マイケル・K』(1983年初版、ブッカー賞受賞作)で、クッツェー初の邦訳書として1989年に出ました。

※John Maxwell Coetzee:2003年、ノーベル文学賞受賞。受賞理由の中で「作品は、よく練られた構成と、想像力に富んだ対話、優れた分析が特徴だ。しかし同時に西洋文明の残酷な合理主義とうわべだけのモラリティには容赦なく批判の目を向ける」(プレスリリースより)などと評された。

それ以来、クッツェーを8冊、アディーチェを7冊訳してきました。年齢は大きく違うアディーチェとクッツェーですが、訳者の私には、アフリカ大陸で生まれた作家として補完しあう関係にある、そんなふうに思えます。

白人で、南アフリカのオランダ系植民者の家系に生まれたクッツェーは、若いころから自分が植民者の末裔であることを厳しく自己検証しながら小説を書いてきました。

アパルトヘイトとは目に見えるかたちの植民地主義として20世紀末まで残っていた、暴力的な政治経済制度です。クッツェーはその中で生きた人です。アフリカでは白人、黒人の作家を問わず、コロニアリズムを深く真摯に批判する作品が書かれ、ものの見方を変える土台になってきました。

クッツェーはそれをさらに進めて、いまは英語という覇権言語にも抵抗しています。2018年に『モラルの話』をまずスペイン語と日本語で出しましたが、英語版は出ていません。

「北」の「白人」中心の「唯我独尊の世界観ではすまないぞ」ということに、多くの人が気づき始めたんだと思います。人間の尊厳を問うそんな文学空間の中心には、ポストコロニアリズムとフェミニズムの思想があると言えるかもしれません。

でもその空間は、「イズム」だけではなく多くの「物語」によって豊かに耕されてきたんです。そんなふうにして、アディーチェの登場する舞台は整えられてきたのでしょう。

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くぼた:アディーチェが書いているのは、今まで「見られる側」にいた人たちが語る物語です。今の世界は、アフリカで代々生きてきた彼らの目からすればどう写るのか? 単に「反」(アンチ)ではなく、どこまでも世界全体を俯瞰するような視点からアディーチェは書いている。

クッツェーとアディーチェの作品を、背景にある長い時間と奥行きを想像しながら読み合わせると、「ヨーロッパ」や「地球の歴史」の全体像が見えてくるのではないでしょうか。

例えば、欧米各地には豪華な建物や芸術品がありますね。そういったものは、どのような資金によって支えられていたのか、とふと思うことがあります。ヨーロッパの「文明社会」が栄華を極めていたそのさなか、その国々は「南」で何をしてきたのか。

建築や芸術だけでなく、文学や思想も含めて、あの豊かな文化は、何百年にも渡って植民地から吸い上げてきた豊かな資源をもとに花咲いたといえます。領土拡張と三角貿易と植民地経営による莫大な富の蓄積によるものです。そういうヨーロッパの影の部分に気づくと、世界の見方が変わるし、日本人のアフリカ観が偏っていたことにも気づくはずです。

私たちの世代は、学校で「アフリカは暗黒大陸だ」と習いました。でも、「暗黒」「野蛮」というような、先入観に満ちた「アフリカ」は、欧米の目を通して伝えられた姿だったのではないでしょうか。これもまた「単一の物語の危険性」と言えるでしょうか。

アフリカのことを書くとき、英語はリングア・フランカ(異なる言語を使う人達の間で意思伝達手段として使われる言語)の一つなんだと思うようになりました。クッツェーやアディーチェの作品は英語で書かれていますが、奥にいくつもの言語を抱えています。アフリカーンス語やズールー語、そしてイボ語やヨルバ語などです。

翻訳文学も日本語文学というのが私の持論ですが、作品の背景やコンテキストがとても重要だと思って仕事をしてきました。アフリカという長い歴史をもった土地に関連した作品を、翻訳文学として日本語の海の中に投げ込んできましたが、それはもっぱら日本語のためなんです。

小説を楽しみながらアフリカへの見方が変わるといいなと思います。わたし自身がそうだったのですが、アフリカと欧米の関係をあらたな視点で見直すと、他者への一方的な見方がちょっと変わる。その結果、欧米やアジアの国々に対する「日本」の姿に、別の光があたるかもしれない。

すぐれた文学作品というのは国や国境を越えて、個人と個人が対等に出会うための想像力を養うものなので、そのまま世界を見る窓にもなるんですよね。

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くぼたのぞみ 翻訳家・詩人。北海道生まれ。アフリカを軸にして世界を見る作品を紹介し続けている。アディーチェ作品を始め、J.M.クッツェー『マイケル・K』『モラルの話』、S.シスネロス『マンゴー通り、ときどきさよなら』など多数。著書に『鏡のなかのボードレール』、詩集に『記憶のゆきを踏んで』など。

取材・文・写真:笹島康仁      編集:錦光山雅子

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