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叱れない先生④【教師哲学をもつ】
叱る覚悟ができてきた1年目の2学期。
だが、当然ながら学級がうまく回るということはなかった。
思えば、私の中で明確な叱る基準がなかった。
よくない行動を前にして、感覚的に「今かな?」と思ったときに叱る。
教師の心の状態がどうであるかによって、叱られるか否かが決まる子どもたち。
いつ叱られるか分からない中で過ごすのは不安だし、何より叱られても納得いかないだろう。
そんな時に、再び指導教官の先生が教えてくださった。
「『これはダメ』『これはいい』という価値観をきちんと伝えないと、子どもが迷ってしまうよ。だから、まずは先生が、きちんと決めてあげることが大事。でも、今から立て直すとなると、やっぱり難しいよね。」
本当にその通り。
私の方針は、4月からコロコロ変わっている。
叱れなかった1学期。
何とかしようと叱り始めた2学期中盤。しかし叱る基準は不明確。
子どもからの信頼はなかっただろう。
子どもたちと出会った当初に、きちんと叱る基準をもち、「こういう時に先生は叱るよ」と約束する。その約束を基に叱る。そういった準備と覚悟が、子どもとの信頼関係を繋ぐ上で大切だったのだろう。
この経験から学んだこと
そもそも世の先生方は、なぜ叱ることができるのか。
当時の私との違いは何か。
それは、
「子どもたちには、こうあってほしい」という思いが根底にあるから
だろう。これはその教師なりの「哲学」と言い換えてもよいかもしれない。それくらい、揺るぎないもの。
例えば、「人に優しくできる人であってほしい」と願うなら、友達をおとしめた子に、厳しく叱るだろう。
「自分の目標に向けて努力を続ける人であってほしい」なら、できるのにやらない子を叱り励ますだろう。
当時の私は、様々な場面に出くわした時、「まずい、何か起きてる!これは叱っておいた方がいいのかどうか…」と毎回考えていた。
自分の根本的な考えがなかったから迷ったのだ。
哲学さえしっかりもっていれば、個々の行動で困ることはそうない。哲学に合った行動は褒め、そぐわない行動は叱る。
すると、子どもにかける言葉に気持ちがのる。
その気持ちは、きっと子どもに伝わる。
ここまで書いたところで、今、自分が考えていることを書き残しておきたい。
それは、
「子どもたちが、身の回りで起きているすべてのことに感謝できる人であってほしい」
ということ。
だが、ここに行きつくまでに、相当な紆余曲折があった。(先程、「哲学は揺るぎないもの」と書いたが)こう考えていくと、この哲学は、経験を経て変わっていくものなのかもしれない。
その時、一教師が精一杯考えたもの。それを私は「教師哲学」と呼びたい。
教師の皆さんは、今、どんな哲学をもって、子どもたちと接してみえるだろうか。
そしてそれは、これまでのどんな経験から裏付けられたものだろうか。
教師が哲学をもった時、始めて私たち自身が生きた教材となり、子どもたちの前に立つ大きな意味が生まれるのだと感じる今日この頃である。
【叱れない教師4回シリーズ これにて完】
このブログでは、現役教員としてたくさんの失敗を積み重ねてきた私が、当時の失敗を今ならばどうするかという視点をもち、書いています。教師として働いている皆様に向けたヒントとなることがあれば幸いです。
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