「法を」とは「縁起についての聖典を」ということである。「義を」とは「この義を」ということである。因やもろもろの因の果、この、ここに因であるものが「法」であり、この、ここに因の果であるものが、「義」である。「法を」とは、あるいは「法性を」である。
しかして、一部の者たちは「如来が出現していても、如来が出現していなくても、その界は確立している。」という経典の言葉を誤って捉えて、「縁起は常住である。」として、縁ることを相とする法を誤って説明するが、そのように説明することなく、以下に説かれた意趣の通りに、自らの果の主〔である者〕は、因の確定された自性を説明することによって。
しかして、一部の者たちは「不滅であり、不生であり」等と縁起の意味を誤って捉えるが、そのように執見を為すことなく、説かれた意趣の通りに顛倒なき意味を把握することによって。「苦等について智無きことが無明である」と言われた意味を唱えさせて、さらに、「過去の辺際について智無きことが〔無明である〕」などと、他の法門によって説示することによって。「諸行はこれらの法門によって有と言われ、渇愛はこれらの法門によって取〔と言われる〕」などと説示することによってとも言われる。「本性によって」とは、前述のようなものに触れることなくして、完全にということである、