Vism大復注釈書における縁起に関する邪見批判

Dhammanti paṭiccasamuppādapāḷiṃ. Atthanti tadatthaṃ. Hetu, hetuphalāni vā ayamettha hetu dhammo, idamettha hetuphalaṃ atthoti. Dhammanti vā dhammataṃ. Yathā eke ‘‘uppādā vā tathāgatānaṃ anuppādā vā tathāgatānaṃ ṭhitāva sā dhātū’’ti (saṃ. ni. 2.20) suttapadassa atthaṃ micchā gāhentā ‘‘nicco paṭiccasamuppādo’’tipaccayākāradhammaṃ micchā dīpenti, evaṃ adīpetvā heṭṭhā vuttanayeneva attano phalaṃ pati kāraṇassa vavatthitasabhāvaṃ dīpentena. Yathā ca eke ‘‘anirodhaṃ anuppāda’’ntiādinā paṭiccasamuppādassa atthaṃ micchā gāhenti, evaṃ gāhe akatvā vuttanayeneva aviparītaṃ atthaṃ saṅgāhentena.  ‘‘Dukkhādīsu aññāṇaṃ avijjā’’ti vuttamatthaṃ parivattetvā puna ‘‘pubbante aññāṇa’’ntiādīhi (dha. sa. 1067) aparehipi pariyāyehi niddisantena. ‘‘Saṅkhārā iminā pariyāyena bhavoti vuccanti, taṇhā iminā pariyāyena upādāna’’ntiādinā niddisantenāti ca vadanti. Pakatiyāti yathāvuttavidhānaṃ anāmasitvā kevalameva.


 


法を」とは「縁起についての聖典を」ということである。「義を」とは「この義を」ということである。因やもろもろの因の果、この、ここに因であるものが「」であり、この、ここに因の果であるものが、「」である。「法を」とは、あるいは「法性を」である。


しかして、一部の者たちは「如来が出現していても、如来が出現していなくても、その界は確立している。」という経典の言葉を誤って捉えて、「縁起は常住である。」として、縁ることを相とする法を誤って説明するが、そのように説明することなく、以下に説かれた意趣の通りに、自らの果の主〔である者〕は、因の確定された自性を説明することによって。


しかして、一部の者たちは「不滅であり、不生であり」等と縁起の意味を誤って捉えるが、そのように執見を為すことなく、説かれた意趣の通りに顛倒なき意味を把握することによって。「苦等について智無きことが無明である」と言われた意味を唱えさせて、さらに、「過去の辺際について智無きことが〔無明である〕」などと、他の法門によって説示することによって。「諸行はこれらの法門によって有と言われ、渇愛はこれらの法門によって取〔と言われる〕」などと説示することによってとも言われる。「本性によって」とは、前述のようなものに触れることなくして、完全にということである、

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