12. 近入という除痴についての解説
42. ここに、近入という除痴とは何でしょうか?〔答えて曰く、〕「縁起であるものです」と。〔世尊は『ウダーナ』でこのように説かれました、〕「上下の一切処に解脱した人、かれは『私は存在する』とは随観しません;このように解脱者は激流を越えて、再生なきことについて後戻りしないのです」と。
「上」とは色界と無色界です。「下」とは欲界です。「一切処に解脱した人」とは三界において〔解脱した人〕です。これは無学人の解脱です。これらは実に無学人の五根であり、これが諸々の根からの近入です。
これらは実に無学人の五根であり、明知です。明知が生じることによって、無明の滅があります。無明の滅によって、行の滅があります。行の滅によって、識の滅があります。識の滅によって、名色の滅があります。名色の滅によって、六処の滅があります。六処の滅によって、触の滅があります。触の滅によって、受の滅があります。受の滅によって、渇愛の滅があります。渇愛の滅によって、取の滅があります。取の滅によって、有の滅があります。有の滅によって、生の滅があります。生の滅によって、老と死、愁い、悲泣、苦しみ、憂い、嘆きが滅します。このように、この苦の蘊の完全なる滅があります。これが縁起からの近入です。
これらは実に無学人の五根であり、戒蘊、定蘊、慧蘊という三つの蘊の所摂なるものです。これが諸々の蘊からの近入です。
これらは実に無学人の五根であり、行への完全なる到達です。およそ無漏の諸行であり、しかして有の支分ではないこれらは、法界所摂の諸行です。これが界からの近入です。
その法界は法処への完全なる到達ですが、それは無漏の処であり、しかして有の支分ではありません。これが諸々の処からの近入です。
「かれは『私は存在する』とは随観しません」とは、かれは有身見を根絶している〔ということです〕。そ〔の境地〕は有学人の解脱であり、これらは実に有学人の五根です。これが諸々の根からの近入です。
これらは実に有学人の五根であり、明知です。明知が生じることによって、無明の滅があります。無明の滅によって、行の滅があります。このようにして、一切の縁起〔の逆観〕があります。これが縁起からの近入です。
これは実に明知であり、慧の蘊です。これが諸々の蘊からの近入です。
これは実に明知であり、行への完全な到達です。およそ無漏の諸行であり、しかして有の支分ではないこれらは、法界所摂の諸行です。これが界からの近入です。
その法界は法処への完全な到達であり、それは無漏の処であり、しかして有の支分ではありません。これが諸々の処からの近入です。
有学人の解脱と無学人の解脱によって、解脱者は激流を越えて、再生なきことについて後戻りしません。それゆえに世尊は「上下の」と言われました。
43. 〔世尊は『ウダーナ』でこのように説かれました、〕「依止するものには動揺があり、依止しないものには動揺がありません。動揺がないときに、軽安があります。軽安があるときに、繋愛はありません。繋愛がないときに〔生死を〕往来することはありません。〔生死を〕往来することがないときに死して生まれることはありません。死して生まれることがないときに、この世はなく、他の世もなく、〔この世と他の世の〕両者の間もありません。これが苦しみの終わりです」と。
「依止するものには動揺があり」とは、渇愛依止と見依止という二種が依止と名付けられます。貪に染まれる思、これが渇愛依止です。愚昧なる思、これが見依止です。しかるに、思とは行です。行に縁って識があり。識によって名色があり、このようにすべての縁起〔の順観〕があります。これが縁起からの近入です。
ここに、貪に染まれる受、これが楽受です。極めて愚昧なる受、これが不苦不楽受です。これら二つの受が受蘊です。これが諸々の蘊からの近入です。
それゆえ世尊は「〔何かに〕依止するものには動揺があり、依止しないものには動揺がありません。動揺がないときに、軽安があります。軽安があるときに、繋愛はありません。繋愛がないときに〔生死を〕往来することはありません。〔生死を〕往来することがないときに死して生まれることはありません。死して生まれることがないときに、この世はなく、他の世もなく、〔この世と他の世の〕両者の間もありません。これが苦しみの終わりです」と言われました。
44. このように、〔縁起に〕依拠して、諸々の根・蘊・界・処は接近されるべきです。〔結集者曰く、〕それゆえ尊者マハーカッチャーヤナは「縁起であるものです」と言われました。
近入という除痴〔の章〕が終わる。
【参考】ネッティ・ダンマパーラ註(Nettippakaraṇassa atthasaṃvaṇṇanā)
接近させる、随入させるというこ〔の意味〕によって、あるいは、ここでは、縁起などに関して、もろもろの法が、〔短い〕経句(スッタ)から接近されるということが、近入(otaraṇa)である。