4. 四組の補特伽羅の施設
不善士たる補特伽羅(人)とは何でしょうか?ここにある人が生けるものを殺し、与えられていないものを取り、愛欲邪行をなし、嘘をつき、スラー酒、メーラヤ酒など酔わせるものであり、放逸の原因となるものを摂取します。これが不善士たる補特伽羅と言われます。
不善士の中にも不善士たる補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は、自ら生けるものを殺し、さらに生けるものを殺すように〔他人に〕勧め、自ら与えられていないものを取り、さらに与えられていないものを取るように〔他人に〕勧め、自ら愛欲邪行を行い、さらに愛欲邪行を行うように〔他人に〕勧め、自ら嘘をつき、さらに嘘をつくように〔他人に〕勧め、自らスラー酒、メーラヤ酒など酔わせるものであり、放逸の原因となるものを摂取し、さらにスラー酒、メーラヤ酒など酔わせるものであり、放逸の原因となるものを摂取するように〔他人に〕勧めます。これが不善士の中にも不善士たる補特伽羅と言われます。
善士たる補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人が、生けるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ、愛欲邪行から離れ、嘘をつくことから離れ、スラー酒、メーラヤ酒など放逸の原因となるものを摂取することから離れています。これが善士たる補特伽羅と言われます。
善士の中にも善士たる補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人が、自ら生けるものを殺すことから離れ、さらに生けるものを殺すことから離れるように〔他人に〕勧め、自ら与えられていないものを取ることから離れ、さらに与えられていないものを取ることから離れるように〔他人に〕勧め、自ら愛欲邪行から離れ、さらに愛欲邪行から離れるように〔他人に〕勧め、自ら嘘をつくことから離れ、さらに嘘をつくことから離れるように〔他人に〕勧め、自らスラー酒、メーラヤ酒など放逸の原因となるものを摂取することから離れ、さらにスラー酒、メーラヤ酒など放逸の原因となるものを摂取することから離れるように〔他人に〕勧めます。これが善士の中にも善士たる補特伽羅と言われます。
悪しき補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は生けるものを殺し、与えられていない物を取り、愛欲邪行を行い、嘘をつき、粗悪語を語り、離間語を語り、綺語を語り、貪欲ある者としてあり、憤激せる心ある者としてあり、邪見ある者として住します。これが悪しき性質の補特伽羅と言われます。
悪しき中にも悪しき補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は、自ら生けるものを殺し、さらに生けるものを殺すように〔他人に〕勧め、自ら与えられていない物を取り、さらに与えられていない物を取るように〔他人に〕勧め、自ら愛欲邪行を行い、さらに愛欲邪行を行うように〔他人に〕勧め、自ら嘘をつき、さらに嘘をつくように〔他人に〕勧め、自ら粗悪語を語り、さらに粗悪語を語るように〔他人に〕勧め、自ら離間語を語り、さらに離間語を語るように〔他人に〕勧め、自ら綺語を語り、さらに綺語を語るように〔他人に〕勧め、自ら貪欲ある者としてあり、さらに貪欲ある者としてあるように〔他人に〕勧め、自ら憤激せる心ある者としてあり、さらに憤激せる心ある者としてあるように〔他人に〕勧め、自ら邪見ある者として住し、さらに邪見ある者として住するように〔他人に〕勧めます。これが悪しき中にも悪しき補特伽羅と言われます。
善なる補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は生けるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ、愛欲邪行から離れ、嘘をつくことから離れ、粗悪語を語ることから離れ、離間語を語ることから離れ、綺語を語ることから離れ、貪欲ある者としてあることから離れ、憤激せる心ある者としてあることから離れ、正見ある者として住します。これが善なる補特伽羅と言われます。
善なる中にも善なる補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は自ら生けるものを殺すことから離れ、さらに生けるものを殺すことから離れることを〔他人に〕勧め、自ら与えられていないものを取ることから離れ、さらに与えられていないものを取ることから離れることを〔他人に〕勧め、自ら愛欲邪行から離れ、さらに愛欲邪行から離れることを〔他人に〕勧め、自ら嘘をつくことから離れ、さらに嘘をつくことから離れることを〔他人に〕勧め、自ら粗悪語を語ることから離れ、さらに粗悪語を語ることから離れるように〔他人に〕勧め、、自ら離間語を語ることから離れ、さらに離間語を語ることから離れるように〔他人に〕勧め、自ら綺語を語ることから離れ、さらに綺語を語ることから離れるように〔他人に〕勧め、自ら貪欲ある者としてあることあら離れ、さらに貪欲ある者としてあることから離れるように〔他人に〕勧め、自ら憤激せる心ある者としてあることから離れ、さらに憤激せる心ある者としてあることから離れるように〔他人〕に勧め、自ら正見ある者として住し、さらに正見ある者として住するように〔他人に〕勧めます。これが善なる中にも善なる補特伽羅と言われます。
悪しき性質の補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は生けるものを殺し、与えられていない物を取り…乃至…邪見ある者として住します。これが悪しき性質の補特伽羅と言われます。
悪しき性質の中にも悪しき性質の補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は自ら生けるものを殺し、さらに生けるものを殺すように〔他人に〕勧め、自ら与えられていない物を取り…乃至…自ら邪見ある者として住し、さらに邪見ある者として住するように〔他人に〕勧めます。これが悪しき性質の中にも悪しき性質の補特伽羅と言われます。
善なる性質の補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は生けるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ…乃至…正見ある者として住します。これが善なる性質の補特伽羅と言われます。
善なる性質の中にも善なる性質の補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人は自ら生けるものを殺すことから離れ、さらに生けるものを殺すことから離れることを〔他人に〕勧め…乃至…自ら正見ある者として住し、さらに正見ある者として住するように〔他人に〕勧めます。これが善なる性質の中にも善なる性質の補特伽羅と言われます。
過失ある補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人が、過失ある身業を備え、過失ある口業を備え、過失ある意業を備えています。これが過失ある補特伽羅と言われます。
(144. Sāvajjādīsu – sāvajjoti sadoso. Sāvajjena kāyakammenāti sadosena pāṇātipātādinā kāyakammena. Itaresupi eseva nayo. Ayaṃ vuccatīti ayaṃ evarūpo puggalo tīhi dvārehi āyūhanakammassa sadosattā, gūthakuṇapādibharito padeso viya sāvajjoti vuccati.
「過失ある」云々…。過失(avajja, skt. avadya)あるとは、過悪(dosa, skt. doṣa)ある〔という意味〕である。過失ある身業とは、生けるものを殺すなどの過悪ある身業である。他の〔門による業〕も同じ方法〔によって理解すべき〕である。「これが言われる」とは、同様な人、〔すなわち〕三つの門によって、寿を破壊する行為〔等〕の悪しき事柄を備えているから、糞と死骸などで充満した土地のごとく、過失あると言われるのである。)
多くの過失ある補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人が、多くの過失ある身業と、少しばかりの過失なき身業を備え、多くの過失ある口業と、少しばかりの過失なき口業を備え、多くの過失ある意業と、少しばかりの過失なき意業を備えています。これが多くの過失ある補特伽羅と言われます。
過失少なき補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人が、多くの過失なき身業と、少しばかりの過失ある身業を備え、多くの過失なき口業と、少しばかりの過失ある口業を備え、多くの過失なき意業と、少しばかりの過失ある意業を備えています。これが過失少なき補特伽羅と言われます。
過失なき補特伽羅とは何でしょうか?ここにある人が、過失なき身業を備え、過失なき口業を備え、過失なき意業を備えています。これが過失なき補特伽羅と言われます。
略説智者たる補特伽羅とは何でしょうか? 〔教えが〕説かれると同時に法を現観する人、これが略説智者たる補特伽羅と言われます。
広説智者たる補特伽羅とは何でしょうか?簡略に説かれた〔教え〕について、詳細な説明がなされることによって、意味が分析され考察されたときに、法を現観する人、これが広説智者たる補特伽羅と言われます。
所引導者たる補特伽羅とは何でしょうか?説示によって、質問によって、如理作意によって、善友に親近することによって、〔師に〕奉仕することによって、〔師を〕尊敬することによって、このように、徐々に法を現観する人、これが所引導者たる補特伽羅と言われます。
語句最上者たる補特伽羅とは何でしょうか?多く聞いても、多く読誦しても、多く心に留めても、多く教えられても、その生まれによって、法を現観しない人、これが語句最上者たる補特伽羅と言われます。
(151. Byañjanapadameva paramaṃ assāti padaparamo. Na tāya jātiyā dhammābhisamayo hotīti na tena attabhāvena jhānaṃ vā vipassanaṃ vā maggaṃ vā phalaṃ vā nibbattetuṃ sakkotīti attho.
字句こそまさにそ〔の人〕にとって最上のものであるというのが「語句最上者」である。「それによって、生まれつき法を現観しない」とは、その個性の故に、禅であれ、観であれ、道であれ、果であれ、生じることができないという意味である。)