それゆえ古師たち曰く:
業の作り手は存在しない。異熟を受ける者も。
単なる諸法が転起する〔のみ〕。かくのごときが正しい知見である。
そのように、業にも、異熟にも、存在にも、有因のものにも、
最初の種と木たちにとってのように、過去の辺際(=最初の起源)は知られない。
未来の輪廻においても、転起せざるものは見られない。
外ならぬこの義に、外道たちは自ら住することなく、
有情という想を捉えて、常住と断滅という見解ある者となり、
六十二見を執し、互いに敵対する。
彼らは見という束縛に捕らえられ、渇愛の流れに運ばれる。
渇愛の流れに運ばれて、彼らは苦しみから解脱しない。
仏の声聞である比丘は、証智によってかくの如く、
甚深微妙にして空である縁を了解する。
異熟の中に業は存在せず、業の中に異熟は存在しない。
両者は互いに空なのである(=一方の中に他方はない)。そして業なしに果は存在しない。
ちょうど太陽の中に火は存在せず、摩尼珠の中にも、牛糞の中にも〔火は存在せず〕、
それらの外に〔も〕それ(=火)は存在せず、しかして諸々の要素によって生じるように、
そのように業の内側に異熟は得られず、
業の外側にも〔異熟は存在せず〕、そこ(=異熟)に業は存在しない。
この業は果について空であって(=業の中に果は存在しない)、果は業の中には存在しない。
然るに業を執取して、それにより果が生じるのである。
ここに、神または梵天といった、輪廻にとっての存在の作り手は存在しない。
単なる諸法である、諸々の因と要素と縁が転起する〔のみ〕、と。
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ダンマパーラ『清浄道論大復注釈書』より
「かくのごときが」(evetaṃ)とは、このような類いの、この知見が、〔という意味〕であり、「正しい知見」とは顛倒なき知見という意味である、…甚深な智の行境であることによって、「甚深」である。同様に〔微妙な智の行境であることによって〕、「微妙」である。衆生について空であることによって、さらに、互いの状態が空であること(=互いに一方の中に他方が無いこと)によって「空」である。「縁を」とは、名色の縁を、である。そして、その縁を了解することによって、一切を了解するということである。
…
もし因と果が互いに互いを欠いたものであるなら、どうして因から果が転起するだろうかということで「然るに業を執取して」と言われる。ただ業と果だけが空であり、作者なきものなのではなく、一切もまた法によって生じたものであり、作者なきものであると示して、「ここに神は存在しない」と偈は説いているのである。「因と要素と縁」とは、因の集合を指すか、あるいは因と縁を指す。
*1:BJT版にはñāyatiとある。これを取る。また、『Tipiṭaka Pāḷi-Myanmar Dictionary』では、nāyatiはñāyatiと同義である。