見たな~ の真実?
森脇謙治@すさのわオーナー さんのこの記事からインスパイアされたものを書きたいと思います
量子力学、素粒子の話の前提には、「観測者」という概念があります。
ここのところも大変難しい解釈なのですが、分かりやすく言うと、
物質は観測されるまでは可能性の波のような状態で、観測されて初めて物質化する。
これはさまざまな実験から明らかで、なぜかそうなるという話です。
この量子力学の話と僕が習った地球科学、よくよく考えると矛盾しています。
量子力学は観測者、つまり人間がいて、観測する必要があります。それが大前提。しかし、常識的な地球科学は観測者不在です。人間が登場するまでの世界の進化が描かれていますが、これは誰目線なのでしょうか?
観測者の有り無しでゲシュタルトの解釈は前提が大きくひっくり返ります。
これは、日本の神話や昔話にある
見てはいけない ⇒ でも見る(だから見る) ⇒ 見たな~
的なものが頭の中に浮かんできました
観測されて初めて物質化する
そうならば
全く同じものでも見る人によって全く違うものが見えている
これが、感覚の問題ではなくて本当に全く別のものを見ているのでは?
こう言った考えも成り立たないでしょうか?
だから、自分の気持ちの持ちようで見え方が変わると言うのも
見え方ではなくてそのもの自体が変わっている
こう言うストーリーも成り立つのでは?
お前にはこっち側をみせるがあの人にはこちら側をみせる
みたいなことも現実世界で誰も気付かずに行われている
でもそれを誰も認識できていない
何故ならば、お互いの見え方を本当に共有することはできないから
だから、人のイメージが各人が全く異なるのも全く不思議ではなくなる
何故ならば、全く別のものを見ているかもしれないからだ
だから
日本の神話や昔話で
見てはいけないものを見た場合には
こっち側をみせるが
何も言わずにそれをたまたま見せてもらえた場合では
全く別のものを見せる可能性だってある
見てはいけないものを見る場合には
ビックリ箱のようにお化けが飛び出すが
偶然を装おい見せてもらえる場合には
本当の姿を現す
とか
どうなんでしょうかね?