ぼうやよいこだねんねしな


今、大場昇さんの

『からゆきさんおキクの生涯』

と言う本を読んでいるのですが

それについて、私論を述べさせて頂きます


以下一部抜粋です

俳句界の風雲児、河東碧梧桐はかつて島原を歩いた時、田んぼの中の立派な家が醜業婦からの仕送りで建ったと聞き、密航、淫売、不健康、低級な虚栄などを感じたが、フィリピンのマニラに上陸し三井物産の車がからゆきさんの街へ案内した折り、彼はそこで何を思ったか
「明るい押ッ開いた、柔らかな暖か味のあるものにしか思われない。彼らは光明のみ見ていきてゐる、自己の運命に何の危惧も感じてゐない、とまではどうか、其のやうにらしく見えることすらが、既に私には以外な事実なのだ。そこには一つの奇蹟がある。誠意と摯実と親切がある」


おキクを主人公にして「からゆきさん」という題名の映画を撮った、今村昌平監督も語っている
「ただ暗く悲しい物語を予期していた私は、どこかあっけらかんとした彼女らの物云いに触れ、驚いた。熱帯の底抜けの明るさに、悲しみが風化してしまったのか。灼けつく太陽の下でカラカラと豪快に笑う。これは何なのだろう。そんじょそこらの安っぽい悲劇をはるかに超えた凄まじい体験から来る”凄み”なのだと私には思えた」
また彼は言う
「あらゆる辛酸をなめ、恥辱にまみれた過去の生活を語りながら、私の狙う”近代化のワダチの下で押しつぶされて、挙げる怨嗟の声”を放った人は殆ど居なかった」
積極的あるいは肯定的な無常観とでもいおうか、現生からヒョイと別次元の世界へ飛び移ったかのように思える程だ


からゆきさんを語るには余りにも軽いような気がする

悪いが役不足としか思えない

それとも、誰かに頼まれて全てわかった上でこうなっているのか

打ちのめされて、打ちのめされて、それでも、

そんな状況でも 生きていかなきゃならない

そういう状況になった時に

生きるためにこうなっているんじゃないんですか

しかも彼女たちには美意識がある

男にはない美意識が

その当時までの日本女性にしかない美意識が

それがそうさせている

ずっとそれに甘え続けてる坊やのくせに

凄みの一言で片づけるな

表にでてるもんが全てだと思うな

言葉で言っていることが本心だと思うな

よくそれで生きてこられたなと言いたいが

この国でのさばっている男どもは本当に小ずるい

そう言うことだよね


この国でのさばっている男どもは明治以降本当に情けない小便たればっかりだ

残念だったな今となっては米英も自分の尻に火が付いて

テメーらの子守までは手に負えないらしいぞ


からゆきさんの多くは、おキクやおユキのように、十五、六で売られ、三、四年も稼がされた頃には、熱帯特有のマラリアや風土病、あるいは、性病にやられて、バタバタ斃れていった。私は何百というからゆきさんの墓石や木の墓標を調べてきたが、平均二十一・六歳で亡くなっている。吉原の遊女の投げ込み寺として知られる浄閑寺の過去帳に載っている、役二千人の遊女の死亡年齢の平均がおよそ二十二歳という研究結果があるが、どちらも同じ位のとしで死を迎えていることになる。これはどちらも数えの齢だから、今風の満の数え方でいくとこれより一歳か二歳は若い齢になる。
幕末から昭和にかけておおよそ、三十万ともいわれるからゆきさんが、日本を出たという
しかしながら、密航した(させられた)娘たちが”一番の地獄”と口々に述懐したのは、船員たちが手引きの報酬として、娘たちをえじきにしたことだ
「まっ黒か石炭船の底でした。それこそ腰巻一枚で、きたなか話ですばってん、糞も小便も垂れっぱなしでした。恐ろしかとと、ひもじかとと震えている私たちば、ふとか外人の船員たちが移り変わり抱きにきたとです」


平均21歳位で亡くなっていったもしくは自決した大多数のからゆきさんはその後何も語ることはできない

その方々の気持ちを慮らずして坊やがよってたかってからゆきさんを語るべきではない

しかもからゆきさんの悲劇がその上がりによって更に多くのアジア・シベリアそしてその後の日本での同様の悲劇を生んだことは絶対に肝に銘じておかなければならない


福沢諭吉の「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」もよく引き合いに出されるが、「相応の銭を儲け帰国の上、立派に家を成したる輩も多きよしなれば」、娼婦の「出稼を自由にするは形成上の必要なる可し」と、当時の知識人には珍しいことを言っている


だから本当に絶対に許されざる者たちは

こう言った類の坊や今でいえば竹中平蔵のような連中なのである


そんな坊やが大学作ったりお札になったり、総理大臣になったりしてるんだから

この国がずっと許されず呪われ続けているのがよくわかる


まだわからねーのか

ぼ う や




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