配信ライブの相対性理論~酒席永野論破10万~
「酒の席で永野を論破したら10万円」というライブを観た。とっても面白かったです。日曜の20:59が購入期限で、ちょうど晩酌モードに入っていたのであと2時間これで過ごすかと思い購入したらとても良い週末の締め方ができるね。こういう時間の使い方も今後選択肢に入る。登場1発目の永野のボケから「これは最低で最高なライブになる」という前提を演者観客全員で共有し、ライブ中に時折議論という名の進行で笑いの無い時間が生まれても「どうせ突拍子もなくイカれたこと言って盛り上げてくれるだろ」という期待で前進していったような感じだった。終盤のライス関町の弱すぎるディベート→流れ星たきうえのゴシップでボルテージが高まっていき、ラストのvs.ウエストランド井口戦で共闘化したところでMaxがきた。井口と永野が未体験の切り口(絶対に性格の悪い人間じゃないと思いつかない)で繰り広げる汚言暴言悪口に「言葉の暴力のセンス」を感じ、質の高いライブと芸人の底力を観た満足感がすごい。ウエストランドのファンでよかった。
twitterで多くの方が言うように"過激"(冷凍食品さんが言ってましたが「手あたり次第に車で轢いていく」よう)な内容のためネットでの公開はNGの公演でしたがその秘匿性がライブの面白さを掻き立てていることは言うまでもないでしょう。ライブにはお金を払って観た者だけの特権があってしかるべき。
詳細は伏せるがライブ中永野がしきりに<配信で観ている客>と<観客席に座っている客>を対比しており、場合によっては対極の存在として置き、<観客席に座っている客>を"本物"だと評していた。<配信>で観ていた俺ですが、これには本当に同意します。生で観る、生で体験するってほかに替えようのない最上位の行為だと信じている。ここ2年配信ライブが当たり前になり、お笑いライブは配信とリアル集客のセット、もしくは配信のみの形態をとるようになる中で、絶対にリアルの方が体験として勝ってます。リアルの何がいいって、五感を制限されないところ。自分で好きなところを観て、しゃべっている誰かに耳を集中させて、今回のライブは演者に酒が入ってたのでもしかしたら前方は酒臭さも感じられたかもしれない。それが配信だとカメラの画角とマイクの指向性によって切り取られてしまうわけで、これは田舎に住んでずっと生に憧れていた俺少年からしたら非常にもったいない。ワンガリマータイさんもこのもったいなさを突いてノーベル平和賞をとった。ノーベル平和賞は逆に白人がとってなさすぎる。お笑いライブってカメラの見えない範囲で気を使ったりして動く芸人の様子をみられたり、ツッコミの時に足で舞台をドンドン踏むときの音とか芸人の板の上での声とかそういうダイナミクスの存在を聴けるとか、「ああこうしてショーって作られるんだ」みたいなのを体感できるというか、そういうのは好きなので、配信だけ観てすべてを知った感じになるのはもったいないなあと思います。あんまそういう人いないけど。いつもの「見えない敵を作ってマシンガンをぶっ放す」モードではございやせん。
同じことが音楽のライブにも言えて、主に私が体験するのはインディーズバンドのライブですが、やはりここにもリアルでしか感じられないものがある。それは低音の強さや熱気とかそういうわかりやすいものもそうですが、ここにもカメラでは切り取りきれない視線の使い方やマイクで拾えない息遣い、さばきがあり、それらは同じ<空間>に存在することで初めて空気を伝って知ることができると思ってるんですよね。お笑いライブの方でも触れましたが舞台を足でドンドン鳴らす音が好きというか感覚的にくるものがあり、これは演奏面でもグルーブを生み出していると思っています。
ここまでリアルの良さを説いてきましたが、リアルこそ正義で配信は悪、というわけではなく、配信の良さはめちゃくちゃあります。むしろ配信の割合を、特に音楽ライブは高めていくべきだと思っている。それはかつて大分というどうしようもない田舎に住み、遠くまでライブを観に行くようなお金も、またそんな家庭環境も知識もなかった俺のような地方の少年少女のためなんですよ。田舎の洟垂れクソガキの彼らには配信を入口にして色んなものに触れてほしい。1000円なら一回ファミレスに行くのを我慢すればいい。それだけで心が安らいだり、夢を追いかけたくなったり、そのために今の生活に真剣に向き合ったり、人生のかじ取りができると思う。演者もめちゃくちゃ収入になる。これだけで生活が変わった演者相当いるでしょう。ライブ配信は大いにやってほしいし大いに活用してほしい。ただ配信はそのものすべてではなく、あくまでもリアルへの架け橋である。権利を守られた状態でYoutubeの動画を観ているようなもので、配信は配信。映画やドラマと違って、ステージの上の作品はステージの前で観るべきである。ステージの前のカメラはその作品に向けられた1つの視点というまなざしに過ぎない。装置に収まることなく一人の人間として感じたほうがいい。人間はかなり多機能だから。
そしてそれを感じられるのは都会であり、大阪とかに比べて圧倒的に質も量も東京が上回っていると思ってしまいますね、これはどうしても。大阪好きなんだけど。大阪には住環境の良さと歴史がある。東京には面白い歴史は全くなく平将門関連ぐらいしか楽しめないしさらに日が沈むの早くてそれだけで気が滅入るし、部活とか子どもの遊び時間マジでどうなってんのと思うし、これ思うの九州人だけらしいけど。それでも東京のリアリティーってすごい。日の短さとトレードオフで作品のリアルがある。日の長い都市でエンタメの全てが創られたらそこ最強都市になると思う。今回は視点と体験の話に終始しましたが、もちろん先に述べたような秘匿性の共有っていうのもその一つで。とにかくエンタメが好きなら東京に住むのがいいと思う。大人なら普通縛られる環境なんてないのだから。
リアルを提供すること、リアルを享受することが難しくなったから本当になんともいえない問題でもあるけど、少なくともリアルが前提となっている作品に対してバーチャルなまなざしでしか評価せず、バーチャルな切り取り方でインプットを終わらせてしまい、それによってゴミのようなアウトプットを生み出している人もいる。その人数を増やしてはいけない。とめよう。メタバースとかVRでは全然無理なんで。まずバーチャルでつくられてる絵とか人間のデザイン、全社会に適用したがってる割には二次元オタク向けすぎるだろ。あんなの全然よくないよ。
まあでも音楽もお笑いも本質は作品の良さなので、それが配信でも現場でも同程度に共有されていればそれは作品がすごすぎるということにもなるし、結局そこがよければいいとは思います。ただ現場には現場のよさがある。こうやって書いてみると音楽とお笑いの共通点がわかるというか、俺はステージでつくられるエンタメが好きなんですね。
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