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〈自我という現象〉の謎を追って――真木悠介『自我の起原――愛とエゴイズムの動物社会学』

追悼・見田宗介=真木悠介先生

 

2022年4月1日、社会学者、思想家の見田宗介=真木悠介先生がお亡くなりました。享年84歳とのことです。

ここに謹んで哀悼の意を表し、先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

恐らく、現代日本を代表する、稀有な社会学者、思想家の業績、影響、全貌については、今後多くの論者が語り継いでいくことになると思います。

見田=真木先生には東京大学での錚々たる教え子たちがいらっしゃり、日本の社会学のかなりの部分は、この見田学派によって占められることになりますが、他にも、私塾「樹の塾」での塾生の方々、そして、著作などを通じて、社会学に留まることのない広範囲の多くの人々に影響を強く与えました。今後、これらの人びとがそれぞれの思いを語り継いでいくことでしょう。

また、見田=真木先生の著作は、合計で14巻の『著作集』*[1]として纏められていますが、惜しむらくは、「全集」ではないので、数多くの作品が、そこには収録されていないこともいささか気になるところです。これに関しても、今後、文字通り、完全版の「全集」が編輯、刊行されることを心から待ちたいと思います。

さて、ここで、新たな見田=真木論を展開する余裕が今のところないので、一旦、1993年に刊行された『自我の起原』についての書評、というよりも、単に内容を纏めただけのレポートを再録して追悼の意味を込めたいと思います。

当時これを勝手に送り付けたところ、どういう訳か、見田=真木先生からは「「鳥」有難う!」というご返事も頂き、尚且つ、ここが重要だが、生物学的知見については、正直さっぱり分からなかったが、この書物の肝は、「あとがき」の言葉に凝縮されているとの思いで、その箇所を囲み付きで引用したところ、全く同じ箇所が、この次の著書『現代社会の理論』の「おわりに」で引用されていて、まさに我が意を得たりと膝を敲いたことも昨日のように思い出されます*[2]

わたしに、能力とやる気と真剣さの何か一つでもあれば、直接教えを乞うことも可能であったはずなのに、何故か、そうせず、結局お会いすることもないまま、鬼籍に入られたことが、なんとも悔やまれます。

今わたしにできることは、残された見田=真木先生の莫大な遺産をしっかりと咀嚼し直すことではないかと、心に強く思いを刻んでいます。

それでは、単なるレポートですが、ご笑覧下さい。

 

 

 

 

 

 

〈自我という現象〉の謎を追って

――真木悠介『自我の起原――愛とエゴイズムの動物社会学』

 

■真木悠介『自我の起原――愛とエゴイズムの動物社会学』①1993年・岩波書店/②2001年・岩波モダンクラシックス/③2008年・岩波現代文庫/④『自我の起原――定本 真木悠介著作集 第3巻』2012年・岩波書店。以下、本書からの引用は①からのものである。引用文の傍点は全て原文のものである。

 

【目次】

《わたくしといふ現象》... 1

《明るい世界》への問い... 3

ドーキンス批判... 5

遺伝子への反逆... 7

他者だけが自己を形成... 9

〈自己裂開的な構造〉... 10

【主要参考文献】... 12


 

 

《わたくしといふ現象》

 

 

それまで彼の名を知るものからは「なぜに社会学者が宮澤賢治を?」との疑問を引き起こし、 一方彼の名を知らぬものからは「このような賢治論が有り得るのか」との驚きと圧倒的な共感を持って迎えられた書物*[3]。見田宗介にとって恐らく最も美しい書物であるだろう『宮沢賢治――存在の祭りの中へ』は〈自我〉の問題、すなわち詩人の言葉を借りれば《わたくしといふ現象》(『校本全集』第2巻・5頁)とは一体どういう現象なのかという主題を持っていた。今では当然とも言えるが〈自我〉が〈現象〉であるということは〈自我〉が他者との〈関係〉性の中で生起する現象であるとの意味だ。それは自分が自分であることの根拠となり、〈自我〉を際立たせる。それと同時に、ひとりひとりの〈自我〉を〈関係〉の中に縛り、場合によってはそれを飲み込んでしまう。これが〈自我〉という現象だ。宮澤賢治がその短い生を生きることで追求しようとした問題は例えば次のような詩句に表れている。

 

ああ誰か来てわたくしに云へ

億の巨匠が並んで生れしかも互ひに相犯さない

明るい世界はかならず来ると

(「校本全集」第3巻・542頁)

 

《明るい世界》への問い

 

まさに、そのような《明るい世界》が本当に来るのかどうか、またそれはいかにすれば可能なのか、それを問うことの中に1965 年『現代日本の精神構造』 以来の、社会学者・社会思想家、見田宗介=真木悠介の一貫した足取りがあったのだ(見田が本名、真木は筆名)。 本書『自我の起原』はそのような問いかけから放たれた、動物社会から現代社会に至るまでの 《自我の比較社会学》の壮大な試みの第1歩である*[4]

《動物社会における個体と個体間関係》の問題の探求を企図としたこの第Ⅰ部では、動物の行動は「利己」的なのか「利他」的なのかをめぐって展開された動物学界の流れを、すなわちローレンツから始まってドーキンスまでを批判的に検討する。なかでも主要な標的にされているのは〈利己的な遺伝子〉理論で知られるリチャード・ドーキンスである。彼の考えを簡単にまとめてみよう。我々の常識からすれば生物が子孫を残すためにその情報を伝える手段として遺伝子という存在がある*[5]。つまり生物が主で遺伝子はその従だ。しかし、実はそうではない、逆だというのだ。遺伝子が主で生物の方がむしろ従だというのである。つまり我々生命体のあらゆる

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~「ほんとうに切実な問いと, 根柢をめざす思考と,地についた方法とだけを求める精神に」~

 

この仕事の中で問おうとしたことは, とても単純なことである. ぼくたちの「自分」とは何か. 人間というかたちをとって生きている年月の間, どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか. 他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか. そういう単純な直接的な問いだけにこの仕事は照準していている。

時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに, ほんとうに切実な問いと, 根柢をめざす思考と,地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに, わたしはことばを届けたい.

虚構の経済は崩壊したといわれるけれども, 虚構の言説は未だ崩環していない.だからこの種子は逆風の中に播かれる.アクチュアルなもの, リアルなもの, 実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に, 青青(せいせい)とした思考の芽を点火することだけを願って, わたしは分類の仕様のない書物を世界の内に放ちたい.

本書「あとがき」より。

 

この『自我の起原』「あとがき」は、この直後の諭著である『現代社会の理論』(1996年・岩波新書)の「おわりに」においても自己引用された。恐らく、論者、思想家としての見田=真木の姿勢の、ありとあらゆる無駄を削ぎ落した形でのそれが明瞭に、そして全体重を込めてその思いが示されているように思う。

 

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本能や行動は彼ら遺伝子が生き残っていくための手段であり、そのような観点に立てば生物は遺伝子の〈生存するための機械〉だとい

うことになる。

 

ドーキンス批判

 

さて、 ドーキンスに対する批判は次の2点からなされる。

(1)《ドーキンスが遺伝子レベルの「利己性」と、個体レベルのの「利己性」を混同していること》。

(2)《ドーキンスが、上位システムの創発的emergentな自律化と、それによるシステム のテレオノミー的な重層化(……)を理論化していないこと》(本書・p.p.28-29)。

 

(1)については、言うまでもなく、先ほどまとめた彼の考えに基づけば〈利己的な遺伝子〉の《利己的》とは遺伝子にとっての「利己」ということで、個体レヴェルの「利己」とは違う。遺伝子の利己性が直接的に、利己的な個体を発現するわけではない。だが、筆者によれば《ドーキンスは理論的には(……) 〈利己的な遺伝子〉理論は、個体の利己主義を帰結するものとしている》という( 本書・30頁)。これは《論理的な誤り》である(本書・29頁)。むしろ個体レヴェルでは「利他的」であるという(本書・36頁)。

また、そこで言われる〈個体〉という概念にしてもそれほど自明なことではないという(本書・46-47頁)。筆者はそこでひとつの例としてマーグリスの理論を紹介する。すなわち《今日動物や植物を構成している真核細胞は、幾種かの原核細胞の共生体である(……)》。 《この共生は、酸素が多いと生きられなかった初期の生命体たちが、(……)酸素による「大気汚染」の大公害の危機をのりこえて生き残るために、酸素無毒化の方法として「呼吸」を発明し、 エネルギー源として逆利用することを開始した突然変異種と連合することに始まった、とするものである)(本書・57-58頁)。 つまり《個体は共生系である》 (本書・147頁)。

 

遺伝子への反逆

 

(2)。ここまでのところを確認してみると、ドーキンスの考え、つまり個体の「利己性」については退ける。しかし《〈個体〉という生の形態が本来は(……)生成子の再生産のメディアとして派生した現象であることは正しい》と真木は認める(本書・78頁)。だが、我々は本当にドーキンスの言うように遺伝子の単なる〈生存機械〉だろうか? 例えば、それについての簡単な反証が、子どもを意志的に作らない人々がいる、という事実である (本書・78頁)。遣伝子が自らが生き残るためには、それはあってはならない《反逆》行為だ(本書・79頁)。であるにも関わらず、個体は自立化する。 これが2点目である。《上位システムの創発的emergentな自律化》 (本書・28-29頁)とはそういうことだ。では、その後半部分の《それによるシステムのテレオノミー的な重層化》(本書・28-29頁)とはどういうことか まず《テレオノミー》。これは「目的論」、平たく言えば《「何のために」という問いに対する答えである》(本書・83頁)。つまり我々個体がある行動をとる時、それは一体「何のため」なのか、遺伝子の生存のためなのか、それとも我々の自由意志なのか、ということである。言うまでもなく、筆者は個体の〈テレオノミー〉的な主体化を認めている。次にその《重層化》については以下のように述べる。

 

〈テレオノミー的な主体〉の一般的な定義は、テレオノミーを自ら設定しうることである。つまりfor whatに対する答えを、みずから選択しうることである。その設定されたテレオノミーが自己自身であることもあるし、再び自己以外のものであることもありうる。第一の場合を自己目的化、第二の場合を脱自己目的化としよう。(本書・93頁)

 

つまり個体の自立化は二つの側面が存在するということだ。次のようにまとめられる。

 

《エゴイズム》

=《自己目的化》

=《その身体を形成している遺伝子たちの決定論からの「個体」の自立化》。

《愛》

=《脱自己目的化》

=《この「個体」水準の自己絶対化からの自己超越》

(本書・93、37頁をまとめた)。

 

《愛とエゴイズムの動物社会学》の所以である。

 

他者だけが自己を形成

 

では何故そのような〈主体化〉が起こったのであろう。

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~旧版「ことの次第(あとがき)」より~

 

◆私にとって、見田宗介(真木悠介)氏とはその著『宮沢賢治』を通じて、深い影謇を与えられた思想家の一人である。といってもその内容をどれくらい理解てきているか全く心もとない。当時見田のみの字も知らなかったのだが、『銀河鉄道の夜』の読書会の参考文献のひとつとして、何の気もなしに手に取った。種々感じるところがあったが、 その時の読書会ではしきりに〈自己犠牲〉の暗さについて語っていたように記憶している。本文で触れたように『宮沢賢治』は見田氏にとって最も美しい書物だと思うが、私のは何度も読んだためにボロボロになってしまった。揚げ句には結婚式のあいさつなどでも朗読したりした。◆今回は全く専門外の内容だけに、出鱈目を書いてしまったのではと恐れている。〈螢〉

 

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哺乳類のレヴェルでは、容易に予想されることではあるが次の4点が挙げられる。①《哺乳》②《保育期間の延長》③《学習能力、およびシミュレーション能力を支えるに足るだけの脳の発達》④《群居性、とくに「社会性」》(本書・96-97頁)。

人間のレヴェルでは、明確な原因は特定されていないが、種々の研究成果を紹介、検討した上で次のように述べる。《〈自己認識〉という現象にとって一見逆説的に、〈他者〉こそがその起原と存立の機制の根拠をなすことは確実である》と。すなわち《他者だけが自己を形成することができる》(本書・120頁)。

まとめてみよう。筆者はドーキンスの〈利己的な遺伝子〉理論がイデオロギー的に個体の利己性にまで展開されていることを批判した上で、その発生はともかく、現段階における個体は遺伝子の〈生存機械〉ではなく、自立化しているとする。そしてその自立化は〈愛〉の方向と〈エゴイズム〉の2方向があるという。そしてそのことはその自立化そのものの発生の根拠そのものによって与えられているのである。

 

〈自己裂開的な構造〉

 

本書には補論として「性現象と宗教現象」という、先に挙げた『宮沢賢治』の補章にあたる評論が収録されている。その末尾において次のように述べられている。

自我はその永遠や無限や歓喜や恍惚や諒安や明視を求める極限の欲望にみちびかれながら、その自我を越える存在に向かって自己を散開する。これら極限の欲望もまた、自我という存在の芯にあらかじめ仕掛けられている裂開の罠だ。性現象は、このような個我の欲望の自己裂開する構造の原的に単純な形式であり、宗教現象は、この同じ欲望の自己裂開するダイナミズムの、最も遠い射程を潜勢する形式である。 (本書・196頁)

 

生物的に内蔵された〈自己裂開的な構造〉を持つ我々の〈自我〉。それは仕組まれたシステムを超え出て、人間が人間である所以、〈愛すること〉と〈信ずること〉という次元にまで開いていくだろう。そしてそれはまた、同時に「自分だけ」という〈エゴイズム〉をも意味するのではあるが。恐らく本書の眼目はここにある。

〈自我)という現象の根本に〈エゴイズム〉という《自己目的化》と、同時に性現象や宗教現象のような〈愛〉という《脱自己目的化》つまり〈自己裂開的な構造〉が生物的に基礎づけられるということに。

真木悠介の 『自我の比較社会学』全5部の今後の展開の核心にはこの〈性現象〉と〈宗教現象〉という二者が大きく関わってくるだろう。本書が成功したものになるかどうかはそこに帰着する。 圧倒的な期待を込めてこの完結を待ちたい。

 

【主要参考文献】

(1)見田宗介『現代日本の精神構造』1965年/新版・1984年・弘文堂。

(2)真木悠介『時間の比較社会学』1981年・岩波書店/2003年・岩波現代文庫。

(3)見田宗介『宮沢賢治――存在の祭りの中へ』1984年・20世紀思想家文庫(岩波書店)/1991年・同時代ライブラリー(岩波書店)/2001年・岩波現代文庫。

(4)『校本宮澤賢治全集』全14巻・1973-1977年・筑摩書房。

(5)Richard DAWKIS, The Selfish Gene,1976.(『利己的な遺伝子』日高敏隆他訳・1991年・紀伊國屋書店。)

(6)Lynn MARGULIS, Symbiosys in Cell Evolution,1981.(『細胞の共生進化』永井進監訳・1985年・学会出版センター。)

(7)見田宗介『現代社会の理論――情報化・消費化社会の現在と未来』1996年・岩波新書。


(初出 『鳥』第3号・1993年11月1日・鳥の事務所)

5657字(15枚)

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*[1] 『定本 見田宗介著作集(全10巻)』 岩波書店、2011年-2012年 NCID BB0731070X

「現代社会の理論」「現代社会の比較社会学」「近代化日本の精神構造」「近代日本の心情の歴史」「現代化日本の精神構造」「生と死と愛と孤独の社会学」「未来展望の社会学」「社会学の主題と方法」「宮沢賢治――存在の祭りの中へ」「晴風万里――短篇集」

『定本 真木悠介著作集(全4巻)』 岩波書店、2012年-2013年 NCID BB10395926

「気流の鳴る音」「時間の比較社会学」「自我の起原」「南端まで――旅のノートから」

*[2] 「コラム ☕tea for one~「ほんとうに切実な問いと, 根柢をめざす思考と,地についた方法とだけを求める精神に」~」参照。

*[3] もちろん例外はあるが。

*[4] 筆者によれば《自我の比較社会学》は以下のような全5部作である。《Ⅰ.動物社会における個体と個体間関係/Ⅱ.原始共同体における個我と個我間関係/Ⅲ.文明社会における個我と個我間関係/Ⅳ. 近代社会における自我と自我間関係/Ⅴ.現代社会における自我と自我関係》(本書・159頁)。本書はこれの第Ⅰ部に相当する。ついでに註記しておけば、この仕事は1981年の『時間の比較社会学』のあとがき(306頁)で予告されていたものである。

*[5] 筆者自身は「遺伝子」ではなく「gene」の直訳である〈生成子〉という術語を使用している(本書・45頁)。

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