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恋を失うとき

感傷的になりたい気分だったので、昔書いたものを引っ張り出してみました。

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「星の王子さま」アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ作 倉橋由美子訳 宝島社を読んで

失恋のパターン?

(Ⅰ)自尊心が傷つく

自分にばかり関心がある場合に起こります。
恋に恋していた、と表現されることもあります。
相手じゃなくて自分のことが好きだったんだよ、ともいわれますが、この「好き」は、自分のことしか考えていない、見えていない、気になって仕方がないという意味です。
自分が大嫌いで、恋をすれば変われるかも、お姫様に変身させてくださいと、勝手に期待します。
思ったとおりにならなければ、裏切られて恋を失ったと勝手に騒ぎます。
傷は深いと感じますが、何に裏切られたのか、何を信じていたのか、何を奪われたのかとよく考えれば、相手は不在です。
相手から刻印されたものは傷すらどこにもなく、最後まで一人芝居だった、といえるかもしれません。

(Ⅱ)すべては変わっていく

同じ空の下にあの人もいる、と思うだけでうれしい。
一緒に過ごした時間があることで、見上げる空が、それまでとは全く違った、美しいものになった。
たとえ会えなくなったとしても、もう失うものはない。
そう確信しても、いつかはうつり、かわって、世界が色褪せるときがくるという覚悟は必要です。
王子さまが空の上へ旅立っていった、という悲しみも、薄れていく。
生きているかぎり、傷でさえどうしようもなく治っていき、結局は元気になって、日常に戻ります。
無感動になったとき、恋を失ったといえるかもしれません。
すべては変わっていく、と強く意識するからこそ、この気持ちは永遠だと信じられる瞬間が訪れるのだと思います。

(Ⅲ)同じような人間ではなかったと気づく

感情は消えていっても、言葉は熟されて、(ミヒャエル・エンデの『モモ』にもありますが、時間とはそういうものです)、人に伝えることができるようになるのは、救いです。
とはいえ、”わかっていない”大人は、美しい空の存在を信じません。
Seeing is Believing の彼らが大好きな、言葉や、写真や、数字や、権威を目の前に並べて、うんと説明してみても、わからないのですから、うんざりしてしまいます。
大人たちは、こころの中にどんなに美しい空が映ったかを、透視することはできないのです。
妄想だ、思い込みだ、美化してる、自分に酔ってる、本の読みすぎ、映画の見すぎ、変な宗教にでも入ったのか、何か悩みごとでもあるの?、オレが大人の悦びを教えてやるなどと、王子さまに会い世界が変わった経験をつくり話だと否定します。
「まるで子どもだな」とバカにする、というわけです。

著者は、王子様は子どもではなく反大人として描かれているといいます。
反大人であることを打ち明けるのは、カミングアウト、という様相をおびます。
軽く見られれば傷つきます。
その人が、何を踏みにじっているかを”わかっていない”ことに失望します。
大人は、それがどんなに大切なことか、けっしてわからないのです。
おのれの見る目のなさを情けなく感じたとき、恋を失います。
大蛇(ウワバミ)のような踏み絵を持つのが、賢いやり方なのかもしれません。

2007/4/18(水) 午前 3:24


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うん、分からない。

何を言わんとしているのかも思い出せない。

「星の王子さま」を再読すれば、いろいろ思い出せるような気もするけど、ま、いいや。(読まない)。

自分で何を書いているか分からないので、コメントをいただいたときヘンな返信になるかもしれず、すみません。

┐(´∀`)┌ヤレヤレ

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