瀬戸内寂聴『花芯』
瀬戸内寂聴について言いたいこと。
小説の方、読もうぜ!
という訳で紹介させていただきます。
花芯 (講談社文庫) 文庫 – 2005/2/15
瀬戸内寂聴著
丸い球体のガラスの中に、水と魚と水草と空気。
+日光で完璧な小宇宙。
そんなの、ありましたよね。
『花芯』もひとつの完璧な小宇宙として完結しています。
「小説」とは「小宇宙」、そういう定義なのかもしれないと思わせます。
読書により、一つの別宇宙を丸ごと呑み込むことで、「私」が更新されたように感じます。
文庫本の解説を書いている川上弘美も『花芯』に完璧さを感じたようですが、誉めているというよりも、゛ゆきとどきすぎ゛と、むしろディスっていらっしゃるかのようです。
『花芯』の発表によって、瀬戸内寂聴は一時文壇から退却することを余儀なくされました。
川上弘美が言うように゛性愛のからむ小説は、場合によると人の微妙なコンプレックスを刺激しやすいものともいえる゛せいで、読んだ人々の心がざわつき不快になった。
それらの人々によって瀬戸内寂聴が文壇から排除された、という出来事だったと思われます。
そして、川上弘美の解説の歯切れが悪いのも、川上弘美も゛性愛のからむ小説゛であったゆえに読んで不快になった一人だったからではないかと思われました。
完璧というところが良くなかったかのようにだらだらと言葉を継いでいますが、ホントはそうではないでしょう、と感じました。
私は不快にはなりませんでしたが。
むしろ気持ちが良くなった自分を、醜くいやらしいと思いました。
そして、瀬戸内寂聴は自分と同じ醜さいやらしさを持つ方だ、そう、直覚いたしました。
失礼ですみません。
私は批評家でも小説家でもなく一読者であり、「作品」を通してどんな私的な幻想を持っても良いと考えるなら、失礼と思う方が逆に失礼ですが。
ツィッターに馴れると、市井の人であっても、artやartistに対して批判とも受け取れることを匿名で言うのは卑怯である、せめて本名で言えと批判されているのをよく見かけるので、なんだか自信がなくなってきます。
ツィッターという同じ土俵に乗っかっている感覚なのでしょうか。
また、『花芯』以外で私が完璧な小説だと思っていものは、松谷みよ子による創作童話である『オバケちゃん』(講談社、1971)です。
『オバケちゃん』は、児童文学にカテゴライズされると思います。
『花芯』と『オバケちゃん』は完璧な小説であり、小宇宙である。
・・・そこから考え直すと、『花芯』を読んだ川上弘美が、゛性愛のからむ小説゛であったゆえに多少不快に感じたのもホントだとしても、川上弘美がそれ以上に気に入らなかったのはやはり『花芯』の゛完璧な造形゛の方だったのかもしれないと思われてきました。
川上弘美にとってはもしかしたら、「小説」とは、完璧ではいけなく、完璧から破れているものなのかもしれません。
となると、完璧なものは「物語」になるのでしょうか。
私は小説も好きですが、物語ももっと読みたい、呑み込みたいと欲します。
最後に。
私なら、電車の中では読めないエロさです。