世界は美しい
ゲストとして伊藤緑さんをお迎えしお送りいたします、エッセイです。
『たった一日のこと』
どこで 私は 人間のあの温かさと光についての
どんなときにも壊れない感受性を身につけたのか―
不思議に思われてくる。私の見かたに間違いがないのなら、それはまったく子どもの日の完全に自然と解け合った
たった一日の記憶から来たものにちがいない。
美しい夜明けから始まってその日一日 美しく時間が流れて
美しい夕べになった、その日一日の記憶から―。
ロバート・フロスト(米詩人)
ともに育つ 第495号 2010年6月1日発行
発行所 キリスト教保育連盟 より
息子はキリスト教系の幼稚園に通っておりました。
月一で配られるお便りで引用されていたこの詩が気に入った私は、バーネット作『秘密の花園』の本に栞のようにお便りを挟み込みました。
『秘密の花園』では、環境によって美しい一日を持つことが妨げられていた子どもが、その日を迎え、世界の美しさに目覚める様子がカタルシスとともに語られています。
『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 』や、源氏物語を原作とした漫画『あさきゆめみし』にも、同様のカタルシスが見られます。
「世界は美しい」と私が呼ぶこれは、書きたい、語りたい、表現したいと望んだものでもありますが、陥りがちかつ既に嫌という程繰り返されている問題に加担しやしないかと、恐れる気持ちがありました。
「世界」と「美」の他、「真理」「摂理」「宇宙」「神」「喜び」「光」「静寂」「歌」等々、様々に表現されてきたこれに「目覚めた人」は、以下引用した中野好夫『偽善について』で云う「特に自分だけが神から恩寵を受け、あるいは神と交通しうるかのごとく思いこんでいる愚かな(ヴェイン)妄想」にとり憑かれて「神がかり」になりやすい。
未だ「目覚めていない人」を見下し、「目覚めた人」である我こそが上から人々を導こうとする「妄想」と「神がかり」は、私の知る限りでさえ悲劇と悪行を生んでいます。
たとえば情熱という言葉がある。情熱はある意味でいえば近代人にとっての感情の聖書であるとさえいえる。情熱に憑かれたもの、それはまことに近代人ということの同意語でさえあるといえよう。だが、かかる考え方は少なくとも十八世紀までは決して一般的な考え方ではなかった。情熱といえば、それはおそらくenthusiasmあるいはpassionに相当する新しい日本語であろう。だが、enthusiasmとは、語源的には一言でいえば「神がかり」の意である。現代人にとってさえ「神がかり」が多少とも冷笑的意味を含む言葉であるように、まさに十八世紀まではenthusiasmもまた多少とも冷嘲的含意をもって使用された言葉であった。十八世紀イギリスにジョンソン(※)と呼ばれる文壇の大御所がいた。彼は作家であると同時に、イギリス最初の権威ある国語辞典の編纂者でもあったが、その彼の辞書は、語彙の説明が単に科学的に正確な事実を記載するだけでなく、それぞれの言葉に関する当時の社会的感情、時には著者自身の個性的な主観感情をさえ述べている点で、今日なおきわめて興味深い。ところで上述のenthusiasmの項を引いてみると、そこにはっきり、「特に自分だけが神から恩寵を受け、あるいは神と交通しうるかのごとく思いこんでいる愚かな(ヴェイン)妄想」とある。なんのことはない「神がかり」である。ジョンソンがことさら「愚かな」、あるいは「空しい」という主観的含意の形容詞をつけ加えていることに注意してほしい。enthusiasmは決して近代人の聖書「情熱」ではなかった。「神がかり」にすぎなかった。人間が理性の抑制を失って一種の狂信的状態に陥った状態、それがenthusiasmに他ならないのであり、かかる状態を「愚かな」、「空しい」ものと考えるのが時代の社会的感覚であったのである。そしてこのenthusiasmがたちまち「情熱」として感情生活の王座に祭り上げられたのは、一に近代浪漫主義勃興以後であったのはいうまでもない。
今一つのpassionについても同様である。「情熱」といえばほとんどすべての近代人にとって、それはきわめて積極的な、行動的な連想を伴う概念であろうと信じられるが、しかしもし注意深い読者であるならば、英語で同じpassionは、文法でpassive voiceとあるように「受身」という意味に思い当たるはずである。いいかえれば、passionとは本来決して「情熱」が連想させるような「積極的」、「能動的」な含意ではなく、むしろ逆に人が何か他物によって支配され、隷属させられるところの「受身的」な観念でなければならないのである。
中野好夫集1、筑摩書房、1984年に収録『偽善について』より、242p―243p
(※)ジョンソン―サミュエル・ジョンソン(1709―1784)。イングランドの文学者(詩人、批評家、文献学者)。「英語辞典」(1755年)の編集で知られる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/サミュエル・ジョンソン
引用中、「神がかり」を語源とするenthusiasm(熱狂)がvain(愚かな、空しい)であり、passion(情熱)が「人が何か他物によって支配され、隷属させられるところの「受身的」な観念」であると喝破されております。
私自身もenthusiasmやpassionにとり憑かれているのではないかと、疑いました。
そう、なんですよね。
「世界は美しい」という感覚は「凪」に違いないのに、それを語ろうとするとenthusiasmやpassionという「嵐」にいつの間にやらとり憑かれる、これはいったいどうしようかと。
頭を抱えていた私に衝撃を与え、目から鱗を落として下さったのが、伊藤緑さんの作品でした。
『雑巾』、そして『洗面所』という二編の中に、私が「世界は美しい」と呼ぶものが、確かに、存在しました。
作品は「神がかり」に陥ることなく、「凪」としてそこにありました。
こんなことが・・・可能だったのですね。
実は私、noteでは『うたかたのキス』『人形はいりませんか?』に於いて、「世界は美しい」と表現せんとチャレンジ済みです。
上手くはいかなかったので、いつかまた書くつもりでした。
拙作と伊藤緑さんの作品を並べて眺め回し、気付いたことを以下いくつか挙げます。
・私は「カタルシス」に依って語ろうとしている。
・伊藤緑さんは「カタルシス」に依ることをされていない。
・「カタルシス」の以前から変わらずに「世界」は「美」としてそこにあった、そして変わらず以後も続く。と、気付くための「カタルシス」であり「気付き」であったのに、「カタルシス」を語るうちにenthusiasmやpassionにとり憑かれてしまう。「カタルシス」は当たり前ではないが、「世界は美しい」のは当たり前でなければならないという矛盾をどう超えるかと思案していたが、「カタルシス」を経由しなければ「世界は美しい」と語ることができないという思い込みがあった。そんなことはなかった。伊藤緑さんの作品は、矛盾を越えているというより、そもそも矛盾が生じていない。
・私は、語り手に「美しい」と言わせている。説明させてしまっている。
・伊藤緑さんは「美しい」という言葉を使わない。
その描写によって、私は「美しい」と感じた。
・伊藤緑さんの作品には描写に徹底する態度・姿勢が見受けられる。
これは、作者が「神がかり」になっていては出来ない技、仕業、仕事であると思われる。「人が何か他物によって支配され、隷属させられるところの受身的」な状態とは真逆と云えよう。
そして、その結果として、ムラサキさんが評するように作品から「わたし」が消えているのが興味深い。受身的であることの逆をいけば、作者が「わたし」として前に出てくるのではないかと、一見、思われるが、そうはならないようだ。
・私は「私小説」の手法を使っており、「私」が前に出るタイプである。
私に限らず、多くの作品と比べてみても、伊藤緑さんの作品に見られる「描写に徹底する態度・姿勢」は特異的であると思われます。
「描写」と聞けば、「写実主義」「自然主義」と連想されます。
となると、伊藤緑さんの作品はさぞや現実的に違いないと、やはり一見、想像されますが、そう単純ではない面白さを楽しめるのが、月刊アンソロジー『ネムキリスペクト』二月号に参加された作品『八朔』です。
二月のテーマは『鬼』でしたが、「鬼」という言葉は一切使われないところがらしくもあり、流石でございます。
作者が描写に徹底する態度・姿勢をとった結果、「作品」から「わたし」が消え、同時に物語(ストーリー)も消えていると思わせる作品の一つです。
物語る「わたし」も自ずと消えてしまった、のかもしれません。
読者の多くは、物語(ストーリー)に慣れています。
おそらくは、物語(ストーリー)が無いテキストというものを、よく想像できないほどに。
すると、物語(ストーリー)が消えてしまったかのような伊藤緑さんの「作品」に触れる読者は、馴染みのない、「異世界」に誘われることが可能となるのです、たぶん。
『ネムキリスペクト』に参加されたもう一編『神話』もまさに異世界でありました。
初回のご参加、つまり『ネムキリスペクト』に突如として現れた異世界に、コメントを寄せる猛者の皆様とのやり取りもたいへん興味深く見物でした。
noteならではの面白さです。
私はコメントできませんでした。
物語(ストーリー)が消えた「作品」を前に、戸惑い、オロオロしてしまい、言葉は出ませんでした。
「作品」が私の射程の外にあり、届かないとちょっと凹みました。
フォローさせていただいているおかげで、今は射程も伸びたように感じていますが、『神話』の難解さはやはり抜きん出ていると思います。
もう少し物語(ストーリー)が残されたものを楽しみたい方にもお勧めしたい、私好みの中から、次の二編を。
伊藤緑さんの作品の幅は広く、コンテストに応募される際は趣旨に合ったものを選ばれているようなのも心憎いです。
第一回『教養のエチュード賞』に応募され20選にも選ばれた『神様の原稿用紙』、そして『表現とこころ賞』に応募された『生きる』は、「書くこと」が主題となった作品です。
この二編以外にも、「書くこと」が主題となった作品を拝見しています。
「書く人」でありたい者には興味津々のところです。
これらの「作品」は、「書く」という行為が「特別」であることを痛烈に否定しているとお見受けしました。
「ファションレズ」「ファッションSM」という言い方がありますが、人とは違うことをしている自分は特別であると酔い痴れるような自意識の在り方を持つ「ファッション物書き」に対しても手厳しい。
「特に自分だけが神から恩寵を受け、あるいは神と交通しうるかのごとく思いこんでいる愚かな(ヴェイン)妄想」にとり憑かれた「神がかり」は、やはりどこまでも伊藤緑さんの作品とは相容れないようです。
2019年9月11日にnoteにアカウントを開設された伊藤緑さんは、毎日更新を基本とされており、9月に143記事、10月に64記事、11月に30記事、12月に31記事、1月に30記事をアップされています。
別サイトから移行された作品を含むと思われますが、それにしても凄い。
しかしこれも、決して「神がかり」の仕業ではないのでしょう。
そして、家族のご飯を毎日作り続ける私も、平日に通勤し仕事をする夫も、体は健康であり子どもなのに不登校児として引きこもり何年も無為な日々を過ごしてきた息子も、きっと凄いのです。
「毎日更新」を追うことで、そう、思わせてくださいます。
ダメ押しになりますが、ラッセルの幸福論からも引用させて下さい。
多少とも単調な生活に堪え得るという能力こそ、幼年時代に獲得さるべきものである。この点で、今日の両親は大いに非難されねばならない。彼らはその子供たちに、たとえばショーとかおいしい食べ物とかいったような受動的な楽しみをあまりに多く与え過ぎている。そして、昨日も今日も同じ一日を持つこと―もちろん、時たまの珍しいでき事は別として―が子供たちにとってどんなにたいせつであるかを理解していない。子供の快楽というものは、だいたいにおいて、子供がみずからある程度の努力と発案によってその環境のなかから取り出すごときものであるべきである。刺激的でしかも同時に身体をちっとも動かさぬような快楽―たとえば劇場に行くごとき―は非常にたまにしか与えないのがいいのだ。興奮は麻薬のごときものである。それはいよいよますます多量を要求することになるだろう。そして興奮している間の生理的な受動性は、本能に反するものだ。子供というものは、ちょうど若木のように同一の土壌のなかでいじりまわされずにおかれているとき、最もよく発達するものだ。あまりに多く旅行する、あまりにさまざまな印象を持つ、これは若い人々にとってはいいことではない。それは子供たちをして、有益な単調に堪えるということをできなくさせてしまうものだ。だが私は単調それ自身がなんらかの価値を持っていると言うのではない。ただ、ある種のすばらしいものが、ある程度の単調なしには、あり得ないということを言っているにすぎない。
B・ラッセル『幸福論』、角川書店、昭和27年、66p―67p
見出し画像の本はこちらです。
児童文学って、孤児設定多しですよね。
お金持ちの親は毒親だったり。
単調な、当たり前の、普通の一日は美しく、そういう日々が続くことは幸せです。
多少?家庭が荒れたことがあるだけでも、ほんと、そう思います。