7月15日 ネットでの誹謗中傷が辞められない人は、どんな心理状態なのか? 暴走する「正義」
有名人に対する誹謗中傷がやむことはない。しかしどうして人々は、有名人への誹謗中傷をやめられないのだろうか?
結論から書くと、やっている人にとってそれは「誹謗中傷」ではないから。当人は「正義」だと思い込んでいる。正義のつもりで「死ね! 死ね!」と書き続けている。それがあるとき、「誹謗中傷だった」ということに気付いて慌てる……。そういう経緯だと私は考えている。
ではなぜ結論になったのか、これを掘り下げていこう。
かなり遠回りな話から始まるが、脳内物質に「オキシトシン」と呼ばれるホルモンがある。これは1906年にヘンリー・ハレット・デールによって発見された物質で、「オキシトシン」という名前の由来は「迅速な出産」。このオキシトシンが分泌されると出産が早くなると考えられていた。
オキシトシンがどんなものに作用するのか……は今でも不明瞭なところが多く、研究段階のものなのだけど、オキシトシンが分泌されると次のような効果を生み出すとされる。
血圧を下げる。
心拍が遅くなる。
皮膚・粘膜の血液量が増える。
筋肉の血液量が減少する。
ストレスホルモン濃度を下げる。
消化・吸収がよくなり、エネルギーの貯蔵を効率的に行う。
……まとめると人を穏やかな気分にさせる物質がオキシトシン。逆に言うと、リラックス状態の時に分泌されるのがオキシトシンだ。
オキシトシンが多く分泌されると、穏やかな気持ちになり、協調性が強まり、いわゆる“包容力”が高くなる。また血行が良くなるので、肌つやが良くなり、見た目が美しくなる(顔は整っているのに、なんとなく美人に感じない人はオキシトシンが足りない可能性がある)。
マウスの実験でオキシトシンを取り除くと、ストレスに弱くなり、新しい環境に適応できず、新しいスキルも身につけにくくなり、また怒りっぽくなってしまう。
逆にオキシトシン量を増やすと、ストレスが軽くなり、行動が穏やかになり、怪我をしても治癒の速度が速くなっていった。
オキシトシンは別名「幸福ホルモン」あるいは「愛と絆のホルモン」と呼ばれて、分泌されると表面的には良いことだらけなのだけど、実は「裏の面」がある。
端的に言うと、「愛が重い」という状態になる。恋人・子供に対して支配的に振る舞ったり、自分の思うとおりにコントロールしようとする……いわゆる“毒親”の状態だが、これはオキシトシン過剰の状態で起こると考えられている。
オキシトシンは人同士の結束を促すホルモンだが、これはあるとき、別離を疎外しようとするときにも起きてしまう。例えば、母親が子供の自立を認めない。恋人が自分と会っていないとき、何をしているのか気にする(浮気をしているのではないか、と疑いを持ち始める)。こうした行動はオキシトシンがもたらすものと考えられている。
「愛と絆のホルモン」はあるとき相手を過剰に束縛する、危険なホルモンへと変わっていく。
さらにオキシトシンは「コミュニティの安定」を守る時にも効果を発揮する。コミュニティの中で1人だけ得をしている、1人だけ優れている……そういう人がいると過剰な「妬み」の感情を生み出し、その1人を排除しようと動き始める。
オキシトシンの感性では、そういう「1人だけ抜け駆けしているように見える人」は「コミュニティの安定を壊す可能性がある」と見なしてしまう。オキシトシン過剰な人は、こういう1人をただちに発見し、排除しようと行動を始めてしまう。
人を穏やかな気持ちにさせ、協調性をもたらすホルモンは、「集団」という状態になると、逆に攻撃的な性質を持つようになる。これがオキシトシンの「裏の面」だ。
オキシトシンは「抜け駆けをする誰か」をものすごく嫌う。「ズルしている人」を許さない。そしてそういう相手に対し、暴力を振るっても許される――この心理状態を「サンクション」と呼ぶ。「正義による制裁」という意味だ。
人は何かを考え行動しようとするとき、「悪意」を持って行動してやろう……と思うことは少ない。「イタズラしてやろう」というときは「悪意」を持って行動するが、そういう話は横に置いといて。だいたいの場合、人は「正義」に基づいて行動する。
人は誰だって「自分は正しくありたい」と思っている。そして周りに対して「正しくあるべきだ」と思っている。もしもそこから外れている……と思う人がいると制裁を加えてやりたい……そう思うものだ。
ところで「煽り運転」をする人はどういう人だろうか? 普段から粗暴な人だろうか。実は違う。正義感の強い人が煽り運転をやってしまう。
実際に煽り運転による事故を起こした人は、「あ、下手なやつがいるな……ちょっと制裁(罰)を与えてやれ!」と思って車で煽ったら事故になってしまった……そういう経緯なんだそうだ。
明らかにルールを逸脱している、ルールがわかっていない奴がいる。そういう奴に対してなら、“自分がルールを逸脱して”暴力を振るっても構わない。それは正義なのだ。
そういうつもりで煽ってみたら事故で相手が死んでしまい、そこで自分のやっていたことが正義ではないことに気付いて愕然とする。
煽り運転をしがちな人って、実は「相手を脅かしてやろう」とか「粗暴な気質の人間」がやるのではなく、「正義感の強い人」。正義のためなら、多少法律的を犯しても大丈夫だろう……その瞬間そう考えて行動してしまうのだという。
こういう感情を引き起こし、行動させてしまうのがオキシトシンの効果。怖いでしょ。
人間は脳内物質にコントロールされている。だから世の中のちょっとした「不謹慎」なものが許せない。みんなが生活に困っているときに、SNSでいい食事を食べている人を見かけると「不謹慎だ! 許せない!」と攻撃してしまう。コロナウィルスが蔓延してみんなが外出できないときに、バーベキューなんかやっている人を「不謹慎だ! 許せない!」と攻撃してしまう。大規模災害が起きたとき、なにかと自粛を迫る人もこういうタイプだ。
世の中のあらゆる不謹慎が許せない。自粛させようとしてしまう。「みんな一緒」の状態にしてしまう。1人でも抜け駆けしているやつが許せない。1人でもいい暮らしをしている人を許せない。
ついでに特別な能力を持った人や、美しく生まれた人も許せない。お金持ち家庭に生まれた人を許せない人もいる。人間の能力もチャンスも平等であるべきだ! ……と執拗にその相手に自粛を迫るようにもなっていく。これもサンクションだ。
しかもオキシトシン過剰の時は、「外集団バイアス」というものが起きる。自分たちの集団に対し、相手の集団を低く評価するという心理だ。察しの通り、外国人へのヘイトスピーチもこういう時に起きやすい。
そしてそういうものに対する攻撃は「正義」ということになってしまう。
「悪いことをしているのだから、制裁を加えても構わない。それは正義である!」……と、攻撃する人は思い込んでしまう。
正義であれば何をしても構わない。多少過激であっても、正義だから許されるはずだ……そう思い込むようになる。
あの有名人は悪いことをした。排除すべきだ。そのためにSNSで「死ね! 死ね!」と書き込んでも、それは正義だから許される。やっている人はみんな正義のつもりでやっている。これは正当な攻撃だから正しい……と。
それがある時、その相手が自殺なんかしてしまい、「正義じゃなかった」とショックを受ける。
SNSが世に出たときから、こういうことは繰り返し起きているのに、反省が促されることなく何度も繰り返される。正義に基づく行動……と本人が思い込んでいるのだから、なかなか間違いだということは聞いてもらえない。一度それを正義だと思い込んだら、自分の生活を削ってでもやってしまう(有名人の動向に貼り付いて、攻撃し続ける……というのは結構な「暇」がないとできない。あるいはそのために、わざわざ暇を作り出している)。
しかし自分たちの最終目標がなんであるか、その相手を「排除する」ということが現実的にどういう状態なのか……その現実感は抜け落ちる。
そしてそれが達成されたとき……というのが誰かが死ぬとき。その現実に気付いた瞬間、「正義でも何でもなかった」と気付く。
それにしても、どうして現代人はこういうちょっとした情動だけで行動するようになってしまったのだろうか。世の中には本当に裁くべき「悪」はいる。でも、多くの人はそういう悪に目を向けず、わかりやすい芸能人やセレブのちょっとした「不謹慎な発言や行動」に振り回され、瞬発的にわーとなりやすい気質になってしまった。
私だったらそういうのを見かけても「うん、私とは関係ないね」というか「いったい誰だよ」で終わる。興味がまったくない。知らない人がなんかやりました……なんて話を聞いても「知らんがな」で終わる。そんなものに働く時間を奪われるのは馬鹿げている。なので、たいていは次の瞬間には忘れている。
考えられるのは現代人の理性が弱くなったから。「情緒」だけで物事を考えたり決めたり……という人が多くなったから。
でも世の中を見ると、そりゃそうだろうな……という感じがする。今の世の中、学校でもテレビでもアニメでも映画でも、「感情が大事だ」と全方面から諭そうとしている。感情が大切だ、感情で決めたものが正しい、その時どう感じたか……そういう感情は尊いものなんだ。理性で考える人というものは打算的で安っぽい人間なんだ。感情で行動する人間が一番尊いんだ……そういうテーマの作品があまりにも多い。
テレビの世界は「感動ポルノ」だらけだ。安っぽい感動だらけ。人が死んだら泣けるでしょ。悲しい曲をかけると泣けるでしょ。再現VTR流しながら、タレントさんが泣いている顔を見せると泣けるでしょ。某24時間テレビ~愛は地球を救う~ではプロデューサーが「もうすぐ死にそうな奴を見付けてこい!」と号令をかけて、そういう人に無茶な挑戦をさせる。そういう様子を見せて「感動するでしょ」と、これをショーとして見せている。そういう感動ポルノに、多くの人が飼い慣らされてしまっている。私はああいうの、大嫌いだけど。
「カルチベーション」という言葉がありましてね。カルチベーションというのはメディアの情報を受け続けると、次第にメディアが提唱するような文化観や人間観になっていくこと。安っぽい感動ポルノばかりテレビで見てたら、理性が弱くなって、情動のみで衝動的に行動する人間になっていく……そうなるでしょうよ。
現代人に必要なのは「理性」だ。回りが大騒ぎになっていても、一歩引いて様子を見て、自律的に判断すること。今の時代、そういう人間のことを「根暗」と呼んで社会的にも忌避されがちだが(今風にいうと「陰キャ」かな)、しかし「冷静であること」は大事だ。情緒で行動が振り回されている人間……というのは私から見れば子供……というか動物だ。「根暗」とか「陰キャ」とか、そういうネガティブな言葉で忌避するのではなく、自分を律する精神性を身につけていくことが大事。そういう人間が戦後明らかに減っていった……というのは日本人の劣化。
そういう自立的な精神を持たない人にインターネットなんてものは与えちゃダメだよ。インターネットなんて、どうでもいい失言とか不謹慎が針小棒大にクローズアップされ続ける場所なんだから。それ自体が一種のポルノ。そういうものに対し、いちいち情緒で反応して、自分自身の時間が奪われていく……。こんな間抜けなことはない。「不謹慎だ!」で大騒ぎする人がこれだけ多い、ということは、それだけ間抜けな状態に陥っている人が現代人の中に多い、ということだ(そうでなければ、みんなやることが特にないのだろう)。それはもはや「動物化している」というしかない。
そういう人には大人であってもインターネットを与えちゃダメ。情緒で判断しがち、自分の情緒を根拠に正義を行いたくなる……という人は、自分の感情をコントロールできない人なんだから。そういう人にインターネットはまだ早いんだよ。