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映画感想 7月22日

 2011年7月22日。
 その男――アンネシュ・ベーリング・ブレイビクは警察官の扮装をして白のバンに載り、オスロの庁舎前に駐めた。バンに積み込まれているのはアンホ爆薬。硝酸アンモニウムとガソリンから作られた爆弾だ。
 ブレイビクはその導火線に火を点けて、バンを降りる。そのまま、前日に用意していた別の車に乗って、その場を離れた。
 庁舎の目の前に駐められたバンの存在に、すぐに警備が不審がって中を確認しようとした。そこに爆発が起きた。衝撃で地面が揺れた。庁舎の窓は一斉に砕けた。紙束があたりに飛び散っていく。この爆破で8人が死亡した。
 ブレイビクは振り返らず車でオスロから西へ40キロ移動し、ウトヤ島へ向かった。
 ウトヤ島には700人の子供たちがサマーキャンプを楽しんでいた。庁舎が爆破されたニュースはすぐにウトヤ島にも伝わった。子供たちの中には、親が庁舎に勤めているという人はたくさんいる。子供たちはすぐに、親に連絡を取ろうと電話する。
 そんな島の前に、ブレイビクはやってきた。
「オセロ警察のニルセンだ。島の警備を担当する。フェリーは?」
 警官服を着ているブレイビクに、島の人達はすぐに信用し、フェリーが手配された。
 島にやってくるブレイビクだったが、警備の1人が不審がって「念のため、身分証明書を見せてくれるか?」と尋ねる。
「ああ、いいよ」――とブレイビクは証明書を見せようとして、目の前の男を撃った。
 銃撃音は島全体に響き渡った。何かが起きた。子供たちが緊張で強張る。そんな子供たちの前に、ブレイビクは現れ、こう言い放った。
「貴様らは今日死ぬ。マルクス主義者、自由主義者のエリート共め!」
 この宣言の後、ブレイビクは島の子供たち69人を銃殺した。

 「ノルウェー連続テロ事件」を題材にした映画である。2018年Netflixにて公開。事件が起きた日は映画のタイトルになっているように、『7月22日』(事件が起きた日を忘れられないように、タイトルにしたのだろう)。監督はポール・グリーングラス。『ボーン』シリーズで知られる監督で、『ユナイテッド93』や『キャプテン・フィリップス』といった社会派の映画も手がけている。エンタメから実録もの社会派作品まで、幅広い作品を取り扱う監督だ。本作はもちろん「社会派」のほうのポール・グリーングラス作品。

 事件が起きたのは2011年7月22日。アンネシュ・ベーリング・ブレイビク1人による犯行で、市庁舎の爆破で8人、ウトヤ島の銃乱射で69人が死亡。怪我人は数百人に上る。ウトヤ島の死者の中には、王太子妃の義兄も含まれている。
 ブレイビクは逮捕後、「私はテンプル騎士団の1人だ。これは軍事クーデータだ」と宣言する。犯行直前には「ヨーロッパ独立宣言」と題される1514ページにもなる文章をウェブ上に公開。Twitterにも犯行決意を書き込んでいた。

 犯人のブレイビクは全ての犯行を終えた後、大人しく警察に掴まった。その時の表情は「やりきった」という感じの満足の微笑みだった。彼は「与えられた使命を達成した」とその時は思い込んでいたのだ。

 映画はブレイビクが主人公ではないので、その経歴は断片的にしか語られない。幼少期に両親の離婚があり、以来、母親の手で育てられている。映画中では「孤独な男」と表現されている。
 でも何となく察することはできる。友人もいない、仕事もいない。“社会”との関わりを断たれた男。そうした人間は社会そのものに対して猛烈な怒りを抱くケースがある。それが時として異常ともいえる凶悪犯罪として表に出てくる事例がある。こうした“孤立した人間”による犯罪は、最近では日本でも起きるようになっている。
 ブレイビクの場合、“友人もいない仕事もない”という個人的問題を、“政治的問題”に変換していった。これもよくある話だ。社会との関係性を持てなかった人は、その問題を政治的問題に変換し、極端な左翼や右翼思想に傾きやすい。「自分がこんな孤独に追いやられたのは政治のせいだ」……と。政治にのめり込むことで自己実現を達成しようとするパターンだ。
 またあるいは、絶対にどうにもならない“大きな敵”を設定し、それと対峙することで、心の安定を図ろうとする。「自分がこんな立場に追いやられたのは○○のせいだ」……とその相手が自分ではどうにもならない相手なら、永久に「○○のせい」にすることができる。どんな失敗をしても、「○○のせい」にできる。そういう意図で(無自覚に)政治問題にのめり込む若者もいる。
 ブレイビクが「問題」にしたのは「移民問題」だ。
 ――移民のせいで自分たちは真っ当な仕事につけない。移民のせいで自分たちが得るべき権利が奪われている。移民の保護を優先して、自分たちがないがしろにされている……。
 現在のヨーロッパにおいて、「移民問題」はデリケートな問題だ。文化の違う人間を国の中に招き入れて生活させるのは容易ではない。移民にも“文化”がある。固有の“習慣”がある。国が違っても、その習慣を維持したいと思うはずだ。移民達にとって、自分の出自を忘れないようにするためにも、それは大切なことである。
 しかし、それが移民先の国文化と対立することになる。この問題はそうそう解決できるようなものではない。国が自国民をないがしろにして、“哀れな”移民の保護を優先しているように思われた時、その保護の対象外にされて貧困に陥った、あるいは孤独に陥った国民は、政治に対して猛烈な怒りを抱えることになる。これがブレイビクが抱えた“問題”であり、“怒り”だ。

 日本では「人口が減ってきたから、移民を入れて労働者人口の帳尻を取ろう」という意見は非常に多いが、これは暴論だ。移民を招いた時に、どんな文化的対立が生まれるか……という想定がまったくできていない。「人口が減るから移民を入れよう」なんて気軽な考えて決めていいような話ではない。

 7月22日テロではブレイビクの単独犯として描かれたが、彼の語った「テンプル騎士団」の支部はどうやらヨーロッパ中に、さらにアメリカにも作られているようだ。
「移民を排除しろ! 国を大切にしろ! 民族としての純血を守れ!」
 この軋轢が現在のヨーロッパが抱えている問題だ。移民が各地に分散していくと、人々は自国の文化や土地が脅かされていると感じる。移民達はどうしたって「外国人」だから、その国の文化を必ずしも尊重するわけではない。その国が大切にしている神や聖所を平気で穢す人もいるだろう。
 国民はそういう問題に直面して、日々鬱屈した憤りを感じている。なのに、国は何も対処せず、移民ばかり手厚く保護しようとする。なぜなら、「移民に対して寛容」な姿を見せると国際的に“進歩的”であるとアピールできるからだ。
 逆に「移民排斥」などと言い始めるとどうなるか――それはドナルド・トランプを見ればわかるだろう。世界中から非難される。
 行政サービスにはキャパシティがある。税金は無限にあるわけではない。進歩的という態度を見せるために、“可哀想な外国人”を尊重して自国民を冷遇していると感じたら人々はどう思うか。むしろ自国民のほうが「差別を受けている」と感じられるとどうなるのか。
 そうした移民問題に対するカウンターとなる組織が、世界中の地下で、じわじわと勢力を拡大しようとしている……。ノルウェー連続テロ事件はそんな移民問題のごく小さな“一面”だ。
(テンプル騎士団はエルサレム奪還のために、イスラム教徒と戦ったキリスト教の戦士団のことだ。テロリストが「テンプル騎士団」を名乗るのは、移民排斥を「イスラムの戦争」となぞらえているからではないかと思う)

 ブレイビクのようなテロリストの出現は、「規制」を強くすれば防げるわけではない。ブレイビクの場合、孤独に追いやられたという個人的問題に、さらに「移民排斥」という歪んだ使命感が与えられて起きた事件だ。アンホ爆薬の材料となった肥料の入手を難しくすれば、ブレイビクのようなテロリストを防げるわけではない。テロリストは別の種類の爆弾を作るだけだ。
 規制を強くすれば事件が起きなくなるというわけではなく、そもそもブレイビクのような孤立した人間を作らないこと。そういった社会構造を作ることが先決だ。
 だが、なかなかそういう発想に至らないのが、私たち社会の難しいところだ。私たちはブレイビクのような孤独に陥った人間と向き合う時、これみよがしな「精神論」や「根性論」を発揮して、相手に同情を見せるのではなく、相手をマウントかけようとする“悪癖”がある。それがむしろ孤独に陥った人の怒りを増大させるとは気付かずに。
 どうしてそのような悪癖を発揮してしまうのかというと、そうやって“快楽”を得たいからだ。「どうだ! 俺はお前より上の立場だぞ。すごいだろ!」……と。大抵の人はその快楽を得たいという欲望に逆らえない。この快楽を得るために、自分の行動や発言を正当化する(DV男のように)。この多くの人が陥りやすい思考法を問題だと気付けばいいのだが、これが問題だと気付いている人は少ない。
 また「行政サービスには限界がある」という話を持ち出すが、限界のある行政サービスを移民に割いていたら、やはりブレイビクのように孤独に陥った人を見過ごすことになる。どうにもならないのだ。

 7月22日のテロのあと、警察の初動が遅れたことにも非難が集中した。警察はもっと効率的に、合理的に動けたんじゃないか……と。
 事件当日、警察のヘリより、報道のヘリが先に現場に駆けつけていて、ウトヤ島で子供たちを狙うブレイビクの姿を撮影していた。
 しかしこれは「後出しジャンケン」の非難だ。そううまく行くわけはない。庁舎爆破事件も、子供たちを狙った銃殺事件も、想定を越えた事件だ。初動において、警察は何が起きたのかすぐに把握できなかった。把握できなかったから動けなかった。後で振り返ってみれば、1人の男が庁舎を爆破し、その足で車に乗ってウトヤ島に向かった……ということはわかる。だが事件が起きた直後の段階で、そんなものわかるわけはない。
 映画はそこを描いていて、判断を求められた首相が、一瞬返答に詰まる場面がある。こんな事件を前にして、すぐに次の判断を下せる……というわけにはいかない。
 そういうわけで、後になって「こうすべきだった」というのは後出しジャンケン的な批判なので、正しいとは言えない。

 ブレイビクのテロが描かれるのは映画中の前半30分。ここから以降は、被害者達がテロのトラウマに対してどのように立ち向かっていくのか……が描かれていく。
 その中心に立っているのはビリヤルだ。
 映画の冒頭部分、サマーキャンプにやってきた、ビリヤルは「もしも私が首相だったら」というスピーチでこう発言する。
「僕の出身地スバールバルでは、どの国籍の人でも歓迎される。もちろんノルウェー人もいるし、ロシア人もいる。中国人、クロアチア人もいる。みんな一緒に暮らしている。差別がないように努力した」
「スバールバルの人口って2000人くらいでしょ。どうヨーロッパに当てはめるの?」
「肝心なのはその原則だよ。僕が首相だったら、それを主張する」
 どんな国籍の人でも受け入れ、その国の中で仲良く暮らしていける……。ビリヤルはその理想を語る。しかしその理想を破壊しようとする男が、島にやって来て銃を乱射する。
「貴様らは今日死ぬ! マルクス主義者、自由主義者のエリート共め!」
 孤独に追いやられた男の憤り……。サマーキャンプに集まってきたのは、エリートの子供たちだ。お坊ちゃん、お嬢さんたちだ。成功を約束された子供たち。ビリヤルにしても、市長の息子だ。孤独な男のルサンチマンの対象にされてしまった。

 ビリヤルはブレイビクに撃たれ、倒れ、九死に一生を得る。脳内に銃弾の破片が入り込み、それを除去する手術のため、何日も生死の境を彷徨う。手術は終わったが、しかし銃弾の破片が脳幹に残留し、それが少しでも変なところに入ったら死亡する。脳内に“爆弾”を抱えたままの復帰だった。
 ビリヤルはやがて意識を取り戻すが、体の使い方がわからなくなっていた。足が動かない、膝が動かない。普通に立って歩く……ということからやり直さなければならなかった。

 体はボロボロ。精神もボロボロだった。事件のトラウマがずっと頭から離れない。目を閉じると銃撃の音と、側で死んでいく子供たちの悲鳴がする……。ビリヤルは体の傷、心の傷の両方と戦う。

 映画のエンタメ的なもう一つの見せ場は、犯人に対していかに「反撃」をするか、だ。
 ビリヤルは映画中のある場面で、犯人を「殺したい」と言う。殺せば頭の中で鳴り響く銃声を消せる……。でもそれをやると、あの犯人と一緒だ。
 ビリヤルは映画の後半、裁判に来て証言して欲しい……と誘われる。それはつまり、あの犯人の前に立つこと。向き合いたくない、姿も見たくないあの犯人の前に立つ、ということだ。
 それでもビリヤルは、法廷に出る決意を固める。
 犯人――ブレイビクは逮捕直後、笑顔だった。「やりきった」……という顔をしていた。自分は素晴らしいことをしたんだ……という達成感で満たされていた。ブレイビクは世界中の「反移民」の人々が自分を称賛するんだと思っていた。「俺は孤独じゃない……いや、孤独から解放されたんだ」――そう思っていた。
 生き残った人にできることは、それを覆すこと。
 お前は罪を背負ったんだ。むしろ本当の孤独に陥ったんだ――ということを伝えること。
 それは事象で示すのではない。心情で示していく。犯人が「自分は孤独だ」と自覚した時、生存者たちの勝利となる。

 2011年7月22日に起きた凄惨なテロ事件を描いた映画だ。その再現映像は非常に恐ろしい。異様に生々しく、リアルな映像が展開する。そんな恐ろしい犯行の後、犯人ブレイビクの達成感に満たされた笑顔でピザを食い、コーラーを飲む。胸クソである。そんな事件と犯人とどう向き合っていくのか……が描かれた作品だ。恐ろしい場面があるが、非常に骨の太い作品だ。一つの事件というだけではなく、ヨーロッパが抱える葛藤を描いている作品でもある。見る価値のある1本なのは間違いない。


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