映画感想 ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、終結
やっと視聴できた『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』。Netflixで配信中!
本作は2016年公開の『スーサイド・スクワッド』の続編……ではない。ストーリー的な関連性はなく、リブートに近いものだけど、登場人物の一部は続投していたり、と「リブートのようでリブートではない」という微妙な位置づけの作品となってしまった。これが公開時に一般観客を混乱させることになる(私も続編なのかリブートなのか、正確にはよくわからない)。
監督はマーベル映画の『ガーディアン・オブ・キャラクシー』シリーズで注目されたジェームズ・ガン。2018年当時、ジェームズ・ガンは10年前にTwitterで書いたブラックジョークが今さら掘り返され、その内容が今の時代の倫理観にそぐわないとバッシングされ、監督の仕事を喪っていた最中だった。この隙を狙ってDCはジェームズ・ガンをヘッドハンティング。マーベル映画の監督がDC映画の監督を引き受ける……ということになった。
マーベルと並ぶアメコミ界の老舗・DCは、マーベル映画の大成功を横目に見つつ、「DCでもマーベルユニバースのような作品を……」と企画を立ち上げるけれど、計画性に欠けるために、映画を制作してはなかったことにして仕切り直し……を繰り返すことになる。
計画性がない、という一つの例として、中途半端な秘密主義を敷いたために、脚本家同士の連携が取れず、作品ごとに設定の矛盾などが出てしまっている。例えばDCヒーローが集結した『ジャスティス・リーグ』と個々のヒーローが単独で活躍する映画との間でも設定の相違や矛盾が出てしまっている(どうやら秘密主義ゆえにそれぞれの脚本家が設定の摺り合わせができなかったらしい)。こういうところで、DC側に足並みが揃えられていない、計画性がない、ということが見て取れる。
2016年の『スーサイド・スクワッド』もやはりライバル社であるマーベルを意識して制作した1本だったが、しかし思ったとおりの評判を勝ち得ることができず、仕切り直しとして『ザ・スーサイド・スクワッド』が制作されることになった。しかし、リブートであるのに一部の登場人物は続投、それにタイトルが頭に「ザ」を付けただけ(最近のDC映画は頭に「The」が付く)。続編なのかリブート作品なのか一般観客にわからず、しかもタイトルが似ているため「同じ映画?」という混同を生むことになってしまう。
本作の興行収入は最終的には1億6000万ドル。最終的にはそこそこのお金を稼ぐが、オープニング成績はDCユニバース映画の中でも2番目に低い。これが「続編なのかリブートなのかわからない」という混乱が生んでしまった結果だ。
ただし評価自体はすこぶる高く、映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば、91%が高評価で、平均評価も10点満点中7.5。その他の批評を見ても、どれも高評価を叩き出している。
(参考に、前作は批評家支持率26%、平均評価10点満点中4.9) DC本社側の戦略に一貫性が欠け、一般観客に対するアピールが弱い……という問題点は抱えるが、作品自体は評価されている。DC映画の運営側とクリエイター側の噛み合わせの悪さがこういうところからもわかってしまう。
ひとまず、前半のストーリーを見てみよう。
任務に成功すれば10年の減刑。ただし、逆らえばインプラント爆弾で頭が吹き飛ぶ。成功させるか死か――彼らに選択肢は一つしかなかった。
タスクフォースX。通称スーサイド・スクワッド。凶悪な受刑者だけを集めて結成したチームだ。もとより極悪人だから、任務の過程で死んだとしても世論は騒がない。使い捨て自由。政府側にとって都合のいいチームであった。
今回の任務は南米のとある島国へ侵入すること。キャプテンブーメランを筆頭に、ハーレークインを含む7人が集まっていた。
だが任務は初っぱなから崩壊することになる。実はチームの中に裏切り者がいて、上陸地点に敵が集結していたのだった。即席極悪受刑者チームはあっという間に全滅するのだった……。
その3日前。政府職員アマンダ・ウィラーはロバート・デュボアをスーサイド・スクワッドに誘っていた。デュボアは拒否するが、娘が窃盗をやらかし、娘の収監を免除する代わりに任務を引き受けることになる。
任務の内容は南米の小さな島国コルト・マルテーゼへ侵入すること。コルト・マルテーゼはエレラ家による独裁政権が100年続いていたが、1週間前、ルナ将軍がクーデターを起こす。ルナ将軍は政権を掌握し、エレラ家は全員公開処刑となった。
アメリカはエレラ家の独裁は容認していなかったが、これまで特に干渉はしてこなかった。しかし、新たに政権を握ったルナ将軍は強権的な反米主義者。いずれアメリカと敵対することになってしまう。
しかし、今回のターゲットはルナ将軍ではない。
コルト・マルテーゼ内には「ヨトゥンヘイム」と呼ばれる実験施設がある。そこで「スターフィッシュ計画」と呼ばれる謎の実験が行われていた。これこそアメリカの脅威となりうる。それを、ルナ将軍が手にしてしまった。
任務はヨトゥンヘイムに侵入し、施設を跡形もなく消し去ること……。
さて3日後、デュボアはコルト・マルテーゼに侵入する。近くで派手にドンパチをやっているようだが……。しかしそのおかげでデュボアたちは敵に発見されることなく、無事に上陸するのだった。
ここまでで25分。
冒頭からかなりトリッキーな構成になっている。冒頭、スーサイド・スクワッドが結成され、アメリカ国旗を前に格好よく行進した後、コルト・マルテーゼに上陸し、あっという間に全滅。でもその直後、このプロローグに登場したキャラクター達は今回の主人公達ではなかった……ということが明かされる。チームの中にハーレイクインもいるので、そのおかげでうまくミスリードできている。
プロローグはめまぐるしいカットスピードでテンション高くお話が進行していく。島に上陸したヴィラン達が次々と死んでいくのだけど、悲壮感ゼロ、リアリティなし。グロ描写もあるのだけど、それを含めて少し馬鹿馬鹿しく見えるように演出されている。
この一連のシーンが実はプロローグでした……と明かしてからは、お話のトーンがちょっと下がる。落ち着いたトーンに変わり、ここから「本当のストーリー」が展開していく。
ちょっとしたポイントだが、キャラクターを語る時や設定を語る時はお話のトーンを落ち着かせている。プロローグがプロローグだから、ひょっとしたら次の展開も……となるかも知れないが、お話のトーンだけで、今度はちゃんとしたお話なんだ、ということを示している。話術でちゃんとしたお話をする時はトーンを下げて話す……というのと同じやり方だ。
ではここでキャラ紹介。
ロバート・デュボア/ブラッドスポート
狙撃の名手。武器、凶器のプロ。傭兵の父親が殺しのプロに育て上げた。スーパーマンにクリプトナイト弾で重体を負わせたという経歴もある。受刑者としての暮らしは模範囚で、刑務所内のルールをしっかり守っている。窃盗を働いてしまった娘のために、政府からの任務を引き受けることに。
クレオ・カゾ/ラットキャッチャー2
特殊な機械を操作してネズミをコントロールできる。ラットキャッチャー1は父親だが、すでに死去。ポルトガル出身で父親とともにホームレス生活を送っていたが、父の死を切っ掛けに渡米。そこでネズミを操る道具が「兵器」と判断され、逮捕される。
刑務所に収監されているが、あまり「悪人」という感じはない。ごく普通に苦労した生い立ちを持つ女性だ。
クリストファー・スミス/ピースメイカー
狙撃の名手。武器、凶器のプロ。兵士の父親が殺しのプロに育て上げた。……という設定からわかるように、デュボア/ブラッドスポートと能力がまる被り。このため、デュボアとクリストファー・スミスはことあるごとに対立し、競い合う関係になる。
文字でプロフィールを書き出すとまる被りな2人だが、見た目と性格は真逆。ロバート・デュボアは傭兵として育てられたものの、基本的には善人だし人情家。対するクリストファー・スミスは冷酷で手段を選ばない。この真反対な性格が、後々の展開に大きく関わってくる。
見た目は真反対だが、能力がまる被り……というのは設定作りとしてもちょっとユニーク。ちなみにちんちんは左曲がりで標準時でもそこそこ大きい。
アブナー・クリル/ポルカドットマン
ポルカドットとは「水玉模様」のことで、その名の通り両腕から水玉を射出することができる。見た目はファンシーだが、威力はやたらと高い。母親が息子をスーパーヒーローにさせようと、宇宙からやってきたウイルスに感染させられ、能力が身についた。その後遺症で体中に水玉模様の嚢胞が浮かび、定期的に水玉を吐き出さねばならない体質になってしまった。その恨みから母親を殺すが、しかしトラウマを負ってしまい、それ以来まわりにいる人間全員が母親に見えている。
ナナウエ/キング・シャーク
体は人間、頭はサメという不思議な人種。先祖はサメの神だったらしい。知能は子供並みだが、凶悪な人食い鮫。
これにハーレイクインを加えた6人が本作のスーサイド・スクワッドとなる。
登場キャラクターについてだが……やはりハーレイクインがキャラクターとして存在感がありすぎる。他のキャラクターはどうしても「衣装を着せられている」という感じが出てしまっているが、ハーレイクインだけはキャラクターとしての完成度が1歩上を行っている。
これは役作りが……とか、演出が……という話ではなく、マーゴット・ロビー=ハーレイクインが奇跡的なハマり方をしてしまっているから。こういうのは演技や演出ではなく、「見いだされる」しかないもの。マーゴット・ロビーを見いだせたことが、前作『スーサイド・スクワッド』最大の功績だ。
でもあまりにもハマりすぎているから、将来的に「2代目ハーレイクイン」となる女優は苦労するだろう。ここまでハマっているキャラクターを一旦崩して、作り直さなければならないのだから。
ではストーリーの続きを見ていこう。
島に上陸したロバート・デュボアたちは新たな任務を命ぜられる。同じく島に上陸したリック・フラッグ大佐が敵の捕虜になってしまった。リック・フラッグ大佐は、ロバート・デュボアとかつての戦友だ。フラッグ大佐を逮捕した敵を殲滅し、救出せよ。
という命令を受けて、ロバート・デュボアたちは森の真っ只中にある敵のアジトへ侵入。そこにいる人間を全員殺し、フラッグ大佐が閉じ込められているテントに飛び込むと……。そこでは“敵”とされる首謀者と仲良く歓談しているフラッグ大佐の姿があった。
実は森のアジトは反政府組織の拠点であった。つまり、ロバート・デュボアたちの味方。反政府組織のリーダー、ソル・ソリアはフラッグ大佐と接触を持ち、一緒にルナ将軍を倒そう……と意気投合しているところだった。それを知らず、うっかり仲間達を全滅させてしまった。場に気まずい雰囲気が漂う……。
一方その頃、ハーレイクインは敵に掴まり、収監されていた。が、間もなく釈放され、ドレスを着て、官邸へ招待される。
さて、なにごとか……と行ってみると、ルナ将軍にいきなりのプロポーズを受けることに。実はルナ将軍はハーレイクインの大ファンで、ハーレイクインを反米のシンボルとして結婚したいというのだった。
ハーレイクインはプロポーズを承諾する。
その夜、2人は官邸の窓から、ヨトゥンヘイムを眺める。あれは第2時世界大戦後、ナチスの残党が建てたものだった。ナチスは賞金首だったので、エレラ家が皆殺しにして、ヨトゥンヘイムを乗っ取った。
ヨトゥンヘイムにはその当時から不穏な噂があった。あそこには化け物がいて、政府に逆らうものはみんな連れて行かれて、化け物のエサにされる……と。
ルナ将軍は政権を獲得した後、それが噂ではないことを知った。あの塔の中には、事実怪物がいる。あの怪物がいれば、アメリカとも対等に渡り合うことができる。もしも新政権を一言でも非難したら、全員あの塔へ送り込んでやる。親も、恋人も、子供も……。
と語るルナ将軍を、ハーレイクインはいきなり銃殺する。
子供を殺すなんて許せない! そんな理由だった……。
ここまで45分。
お話は南米のどこかにある小さな島国で、そこは独裁政権で……といえばキューバとかその辺り。リアルに書くとかなりデリケートな問題を孕むが、この作品はあくまでもエンタメ映画。とはいえ、脳天気に「反米国家=悪い奴」「親米組織=良い奴」とかできる国は羨ましい。日本だとここがどうしても気難しくなる。なんでも真面目に考える日本ではどうしてもできないポイントだ。
本作におけるリアリティの置きどころはここ。描写の一つ一つはリアルに、しかし設定もアクションもコミカルに。撮影されたのはパナマらしいのだが、このロケーションがやけにハマっていて、背景がやたらとリアル。らしさが出ている。でもその中に珍妙なコスチュームを着た人たちがいる……。ここで抽象度のギャップが生まれて、見ていると「おや?」となるところだけど……。
その中でも、存在感を放つハーレイクイン。ハーレイクインだけはリアルな背景ともさほど違和感がない。そういう意味でもキャラクターとしての完成度が高い。
ハーレイクインはさておくとして、本作のリアリティラインは背景描写にある。そこを軸にして、いかにコミカルな世界観を展開できるか……。もとより、コミックの世界観を実写でやること自体に無理がある。だいたい、あんな全身タイツみたいなのを着て戦う男なんて、はっきりいえば変人だ。それをもっともらしく見せなければならない……というのがコミック原作映画の命題である。
そこは『バットマン』や『ワンダーウーマン』では世界観とキャラクターを馴染ませようと、背景設定や描写に力を入れている。ところが本作の場合、最初から崩しにかかっている。リアルに見せようとはしていない。設定も馬鹿馬鹿しいし、登場キャラクターも馬鹿馬鹿しい。DCコミック映画はどちらかといえば重厚な作りが特徴なのだが(例外あり)、『ザ・スーサイド・スクワッド』はその逆を真っ直ぐいっている。
まずプロローグ。ここからすでに描写がちょっとおかしい。従来のスーパーヒーロー映画ならもっと“らしさ”を表現するところだけど、どの描写もやたらとチープ。どこまでも馬鹿馬鹿しい。でもこのプロローグを入れることで、作品の抽象度を一気に上げている。抽象度を上げるために、プロローグシーンがあるといってもいいくらい。
そこから基本的にずっとバカなことをやり続ける映画だ。いかに馬鹿馬鹿しくあり続けるのか。馬鹿馬鹿しくありながら、いかにして盛り上がるどころを作るのか。実写映画ではあるのだけど、試みとしてはアニメ映画に近いアプローチで作られている。
それで、本作は登場人物達は全員「凶悪犯罪者」……ということになっている。今回は前作に比べて、ずいぶん人情家が多いように思えるが(クレオ・カゾなんてぜんぜん犯罪者には見えない)。そんな犯罪者達がいかにミッションに立ち向かっていくのか……が本作の見所であるが。本作の場合、このミッションとの向き合い方で、“犯罪者らしさ”が表現されている。
というのも、彼らは一度たりともまともにミッションを成功させていない。全てにおいてトラブっている。島上陸作戦でチームAはなんの成果も出さずあっさり全滅。その間にデュボアたちチームBがこっそり島に上陸する……というずいぶん気の抜けた展開だ。
続いてフラッグ大佐救出任務を命ぜられる。これはそもそも任務自体に間違いがあったのだけど、森に潜伏している人たちを味方だと知らずに全滅させてしまう。それでもフラッグ大佐と合流できたので、作戦は成功といえば成功。
その後、ハーレイクイン救出作戦に移るが、救出作戦決行前に、ハーレイクインは自分から官邸から出てきてしまう。ここも笑いどころで、ハーレイクイン救出作戦で入念に準備し、さて侵入……というところでハーレイクインが「なにしてるの?」と出てくる。
スーサイド・スクワッドは実は1回たりとも、まともにミッションを成功させられていない。
ミッションにトラブルは付きもので、ジェームズ・ボンドもイーサン・ハントも当初の計画通りミッションを遂行させられたことは一度もない。トラブルが起きて、どのように対処し、成功に導くかでハラハラドキドキのエンタメが生まれる。この時、「どのように対処し、成功に導くか」でキャラクター感が出てくる。
イーサン・ハントの場合はミッションが危ういと思ったら自分が矢面に立ち、その場その場で機転を効かせて、成功に導いていく。イーサン・ハントの場合は、ミッションを成功させる過程で、自分の正義をいかに貫けるか……を大事にする。これをきちんと描くから、『ミッション・インポッシブル』ではイーサン・ハンドのヒーロー性が現れてくる。
『ザ・スーサイド・スクワッド』の場合、ミッション途上にあるもの全部破壊してしまう。全員殺してしまう。その結果として、達成できたからまあいいや……という具合だ。そこにこの作品らしいブラックユーモアがあるのだけど、そういういい加減さを表現することで、「雑な凶悪犯がミッションに当たったらこうなる」……という“らしさ”に繋がっている。
これが前作『スーサイド・スクワッド』で表現しきれなかったところ。ミッションに対する構え方で「凶悪犯らしさ」が表現できていなかった。前作はごく普通にミッションに成功したり失敗したりで、その過程でキャラクターは表現されていなかった。前作と今作の違いはまずここだ。
次に本作のドラマの中心はどこにあるのか。言うまでもなく、チームリーダー、ロバート・デュボアを軸としている。
デュボアには娘がいるのだが、その娘との関係性はよくない。それでも娘のためにミッションを引き受ける……という決意をする。
娘のために……という父としての想いがそこにあるのだけど、それは娘には届かない。娘との葛藤は永遠に解消されないまま。
デュボアはミッションの途上でクレオ・カゾと出会う。クレオ・カゾは父親と死別していて、父への想いを未だに捨て切れていない。娘への想いに葛藤を抱くデュボアと、父への想いを残したままのクレオ・カゾとの間に、疑似親子のような関係が築かれていく。
デュボア、クレオ・カゾという関係性を軸に、その周辺の人たち……という掘り下げ方をしている。デュボアとライバル関係になるピースメイカー。クレオ・カゾと友人関係になるナナウエ。デュボアとクレオを中心に物語を組み立てているから、どことなくまとまりが生まれているように感じられる。
これが前作になかったところで、前作『スーサイド・スクワッド』でも悪党それぞれのドラマというものはあったけれども、全てがバラバラで、それがクライマックスに向けたドラマとして高まらない感覚があった。本作『ザ・スーサイド・スクワッド』はデュボアとクレオという関係性を軸にした、というだけで全体の軸となるドラマが生まれている。
どんな作品でも、ドラマを推進させるのは動力は物語だ。才能あるアーティストがいかに“すごい映像”を作ったところでも、それを支える“物語”がないと“すごい映像”でも“感動”させられることはない。
『ザ・スーサイド・スクワッド』の場合、ごく単純な父と娘という物語を中心に据えたことで、すっとスッキリとまとまった物語として成立している。
そこで引っ掛かるのはハーレイクイン。というのも、デュボアを中心とする物語の中に、どうしてもハーレイクインは絡んでこない。どこか“ゲスト”という感じ。いてもいなくても物語は成立する。ただ、ハーレイクインはキャラクターにスター性がありすぎるので、いたほうが華が出る。物語としての重要度……というより、どこか“人寄せパンダ”的な存在になってしまっている。
まあ、ハーレイクインはそれくらいの魅力があるのだから、そういう扱いでも良いといえばいいのだけど。
さて物語は後半、「怪獣映画」になってしまう。(「カイジュウ」って台詞にも出てくるしね)。
怪獣映画の作法(?)のひとつ、怪獣のサイズは舞台となっている建築のサイズに合わせること。建物のサイズを無視して巨大なものを出しちゃうと現実感が出ない。小さいと迫力不足。その世界観における、ちょっと高めの建築物から、頭が出るくらいがちょうどいい(ただし、その世界観における一番高い建築物より背が低い方が良い)。
で、本作に出てくる怪獣も、だいたいそれくらいのサイズ感。ちゃんと作法に則っている。
ただその撃退法が……。ネズミ万能過ぎじゃないか? 怪獣を倒すための伏線の用意ができていない。ちょっと蛇足感が出ちゃっているのが惜しい。
前作『スーサイド・スクワッド』をなかったことにして、中途半端な仕切り直しをした『ザ・スーサイド・スクワッド』。前作はどうしてもイメージがうっすらしている感じがあったが、今作になって「ああ、これこれ」という感じの“らしさ”が出てきた。ミッションの過程でキャラクターを表現していることと、全編に漂うブラックジョーク。もしも能力を持った悪党が作戦に行き当たったらこういうことになるんじゃない……というような描写になっている。
評価も前作と比較すると飛躍的に上がっている。いよいよ『スーサイド・スクワッド』が始まったか……という感じがある。
ところが興行収入を見ると……前作は最終的に7億4000万ドル稼いだのに対し、本作『ザ・スーサイド・スクワッド』は1億6000万ドル。なんと4.5分の1。
まずタイトルが『スーサイド・スクワッド』に対し『ザ・スーサイド・スクワッド』だからわかりにくい。続編ではなくリブートらしいのだけど、前作のキャラクターが続投している(そもそもタイトルが似ているので同じ作品かと思われてしまう。私はいま視聴した直後だからわかるが、1年後にはどっちがどっちなのかわからなくなっているだろう)。リブートなのに、「スーサイド・スクワッド」について観客が知っている前提で話が進む。この計画性のなさ。
マーベルユニバースはケヴィン・ファイギという有能なプロデューサーがいて、この人がシリーズ全体の大枠を決めて、それぞれの脚本家がそれぞれのストーリーを掘り下げていく……という形式を取っている。そういうわけでマーベル映画には全体に一体感が出ている。
DCはマーベルをライバル視し、「我が社でもDCユニバースを」と目標を立てるのだけど、全体を見ながら指揮できるプロデューサーがいない。
DC映画は個々のクリエイターが優れているから『ジョーカー』のような良作が生まれてくるのだけど、まっとうな統括者がいないから、目指していくところがない。DCヒーロー集結した『ジャスティス・リーグ』もなかったことにして、どうやら監督を変えてリブートするらしいし……もちろんワンダーウーマンやアクアマンというハマっているキャラクターは続投のようで……。それでいいのか、DC。
ジェームズ・ガン監督の『ザ・スーサイド・スクワッド』は批評的には大成功だったし実際面白かったが、興行的には微妙な作品となってしまった。果たしてこの作品からその“次”は生まれるのか……。ジェームズ・ガン監督のまま、続いてほしい気はするが……。
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