映画感想 座頭市物語
つい先日、『天才 勝新太郎』という本を読んで、勝新太郎伝説があまりにも面白かったので、この機会にもう一度勝新太郎作品を観てみようか……ということでまずは1962年最初の『座頭市』だ。
初代『座頭市』はもう何十年も前に一度観た記憶がある。その当時も『座頭市』シリーズを何本か視聴したのだけど、それも十年以上経っているから、忘れているだろう……。そう思っての視聴だったが、意外に覚えているもので、次に来るシーンも次に来る台詞だいたい記憶していた。自分の記憶をなぞるような視聴だった。忘れていると思っていても、案外覚えているものなんだな……。
まずは『座頭市』という作品が生まれた経緯から話を始めよう。
映画プロデューサー・保寺生郎が新しい映画のアイデアを求めて、作家・子母沢寛の家を訪ねていた。その時、子母沢の随筆集『ふところ手帖』の中の一編に目を留める。その物語は江戸時代に活躍した房総地方の侠客である飯岡助五郎を取材するために千葉県佐原氏を訪ねた際に、飯岡にまつわる話の一つとして古老が話したお話だったそうだ。その男は盲目でありながら侠客で、名を「座頭の市」といったそうだ。「ふところ手帖」の中の小さな一編だったが、そこから盲目でありながら居合いの達人である、ヤクザの『座頭市』のアイデアが生まれた。
『座頭市』役に勝新太郎が抜擢されたのは、1960年に公開された『不知火検校』の存在が大きかった。『不知火検校』という映画の中で、勝新太郎は盲目でありながら悪事を重ね、出世していくが最後には転落していく悲劇の男を体当たりで演じた。プロデューサーの頭にそのイメージが残っていたから、『座頭市』に選ばれたわけである。
『座頭市』の主演に選ばれた勝新太郎は、この役を徹底的に打ち込んだ。作中の勝新太郎を見ての通り、ほぼ全編にわたって目を閉じたまま演技をしている。居合いのシーンも目を閉じたまま。しかもカットをぜんぜん割らないワンショットの長回し。ごまかしの効かない撮り方で超スピードの居合いを披露してみせた。
どのように役作りに臨んだのかというと、自宅に弟子達を集め、目をつむったまま自分を襲わせる……という練習を何度も繰り返したという。これで目を閉じたまま、音と空気の流れだけで相手を捉えられるようになったそうだ。
しかし実は『座頭市』は映画会社から特に期待されていない映画だった。1962年にして白黒だったし、予算も低かった。映画のオープニングを観ると勝新太郎はヒロインの万里昌代と併記。普通、看板スターになると単独で名前が出るものだが、併記。勝新太郎が当時、まださほど期待されていなかった俳優だということがわかる。
1作目の配収は5000万円程度で、さほどの利益を上げたというわけでもなく。なんとか続編の制作にGOサインが出るくらいの、ギリギリ合格ラインだった……そうだ。
ただ、業界内では大絶賛だったし、みんな話題にした。盲目の剣士という今までにない役柄を作り上げたし、居合いシーンは目をつむっているとは思えないくらい正確な立ち回りでしかも超スピード。勝新太郎しかできないキャラクターの誕生ということで評価は高かった。
さて、本編のお話に入ろう。
座頭市は下総飯岡の貸元・助五郎の家へ訪ねていく。座頭市と助五郎は旅先で知り合った仲で、その時に意気投合し、下総国に立ち寄ったときにはぜひ訪ねてくれ……という約束があり、その約束に従って座頭市はやってきたのだった。
やってきて早々に、助五郎の子分達の乱暴な振る舞いにすっかり気分が冷めた座頭市は、助五郎に会わず去って行こうとするが、そこに帰ってきた助五郎に引き留められ、しばらく逗留することになる。
翌日、座頭市は近くのため池へ釣りに出かけて、そこで一人の剣士と出会う。平手造酒。笹川の所に逗留しているという、江戸からやってきた剣士だ。座頭市は釣りをしながら歓談した後、平手造酒が内臓を患っていることを見抜く。
次第に街は、飯岡と笹川という二組のヤクザが抗争を続けている状況がわかってきて、助五郎は間もなくやってくる戦争に備えて、座頭市を手駒にするつもりで逗留させていたことがわかる。溜め池で会ったあの剣士・平手造酒は笹川が雇った用心棒だった。座頭市は戦争の駒にされるなんて真っ平ごめんだ、と助五郎のもとを去ろうとしたが、しかしお金を渡されて、とどまるように言いくるめられてしまう……。
ここまでが前半36分くらい。
当時としては低予算映画ということだが、実際に観てみると低予算映画という感じはぜんぜんしない。セットはよく作り込まれている。セットの中に水路が引かれていて、小舟が通り抜けたりしている。この時代はまだ時代劇映画が多く作られていた頃で、映画会社側にセットや衣装のストックが山ほどあり、こういった映画でも「ありもの」のものでもそこそこのクオリティを維持して作れた時代だ。
それにやはり撮り方が格好いい。上は冒頭の、ヤクザ達がひしめき合って博打をやっている場面だが、密集する男達の頭だけで、奥と手前にかけての空間が表現されている。そんなフレームの左隅に、座頭市が中庭の光を浴びて座っている。その場所にある、ゆるめの邪悪さと、そこから外れている座頭市の存在感が出ている。
だいたい映画全編を見ても、こんなふうに「決まっている」カットだらけなのだ。日本映画界の練度がもっとも高い頃だから、「低予算映画」でもこの程度のものは作れたわけだ。
上の画像は何でもない日常のショットの一つだけど、妙に生々しい。この時代はスタッフも役者も時代劇を撮り慣れていて、何でもないショットでもみんな心得ていた。
ただ、改めて視聴してみて、難点も見えてきた。
まず、お話の展開がやたらと緩慢。その中に、見せ場となるシーンがなかなか出てこない。映画の前半から、座頭市はどうやら居合いの達人らしい……という話は出てくるが、その実際のものとして披露されるシーンがぜんぜん出てこない。
はじまって35分になって、ようやくロウソクを真っ二つに切り落とすシーンが出てくる。
確かにこのシーンの剣捌きは見事だが、インパクトがあるかというとやや微妙だ。
実際に座頭市による斬り合いシーンが描かれるのは、始まって50分経ってからようやく。
セット撮影のシーンだが、真っ暗闇の中、笹川の追っ手に囲まれて、座頭市は提灯の光を消し、「これでお前さん達と五分だ。見当付けて斬ってきな」と台詞が格好いい。
キャプションを撮るためになんコマか止めて見たが、勝新太郎の手元に剣が映っておらず、その後方に、アニメ用語で言うところの“オバケ”が残像として残っていた。あんな現象がアニメならいざ知らず、実写でできるのを初めて見た。当然ながら、この斬り合いもワンショットの長回し。勝新太郎は目を閉じたまま殺陣をやりきった。
でも見せ場となる居合いシーンの登場が、やや遅すぎだ。
もう一つの引っ掛かりが、出てくる登場人物達がどうも簡単に座頭市に好意を持つようになっていくこと。敵方剣士である平手造酒や、ヒロインのおたね。平手造酒は座頭市が剣士だと察するわけだが、この辺りの察し方が台詞説明ばかりで、映像できちんと示されていない。同じ剣士としての好意を持たれて、最後には「病で倒れるくらいならおぬしの剣で……」という決意は格好良くはあるけども、感動させるための無理矢理な展開に感じてしまう。
ヒロインのおたねは一度座頭市に助けられた恩義があるとはいえ、簡単に落ちすぎ。ほとんどハーレムものアニメ並にあっけなく陥落してしまう。さすがに強引だし不自然に感じた。
全体を通して見ても、区切りとなるところに見せ場となるシーンがなく、一応状況は進展しているものの、その手応えが感じにくく、それで結果的に進行が緩慢に感じられてしまう。
見方を変えれば、全体的に抑制が効いていて、一組の剣士の悲劇を描いた作品として観ることもできるが。そういう見方をしても、全体が落ち着きすぎて、退屈に感じられてしまう。
これも当時の映画作りの感覚だったのかな……。それとも、こういうところが、低予算映画ゆえの弱さだったのだろうか。
『座頭市』を演じるまで勝新太郎はずっとくすぶり続けていた。主演をやっても作品がヒットすることもなく、映画会社からも観客からも注目されることもない。地味で目立たない俳優だった。それが『座頭市』を演じてからは状況が劇的に変わっていく。勝新太郎が演じる役は、勝新太郎しか演じることができない。それは間もなく人々に注目され、愛されるキャラクターへと成長していく。『座頭市』は勝新太郎が自分自身の中から“唯一無二”なものを見付けた瞬間の映画だった。その記念碑的なものを確かめるために、この作品を確かめてみるのも良いだろう。
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