映画感想 画家と泥棒
まだこの作品を見ていない人に言っておくべきことは、この作品は「ドキュメンタリー映画」だ……ということ。
なぜこのように前置きをするのかというと、映画の視聴を終えた後、レビューを見たのだけど、かなり多くの人がこの作品を「ドキュメンタリー」ではなく「劇映画」だと勘違いしていたから。
それも正直なところ、無理からぬところ。私も観ている間、「これは本当にドキュメンタリーだろうか……」と疑問にすら思ったくらい。プロの評論家のレビューも見たけれど「これはモキュメンタリーじゃないのか?」と書いていたほど。
そう思ったのは、まず構図がバッチリ決まっていること。あまりにもバッチリな構図が多いので、カメラワークを指定して、俳優に演じてもらったかのように見えてしまう。それ以上に凄いのは、とてもドキュメンタリーとは思えない“劇的な瞬間”が撮れちゃってること。それこそ、生身の人間が「こんな表情しますか?」というくらいのものが。それをバッチリ決まったカメラワークで撮れちゃっているから、ますます「本当にドキュメンタリー?」ってなってしまう。
もともとの経緯を話すと、監督のベンジャミン・リーが2015年、とあるギャラリーから絵画が盗まれた……というニュースを見て事件に興味を持ち、関係者とコンタクトを取ってドキュメンタリーを作ろう、と思い立ったことから始まる。最初のプランでは、数日間関係者に貼り付いて、20分から30分ほどの短編ドキュメンタリーを撮るつもりだったそうだ。
ところがその数日の間に“映画の神様”が下りてきてしまった。いきなり凄い画が撮れちゃった。
これは短編映画に収まる内容ではない。劇映画になるぞ!
そうすると監督も燃えあがってくる。結局そのまま3年間におよぶ取材を続け、2時間の長編映画ができてしまった。
2020年1月23日にサンダンス映画祭でプレミア上映され、ワールドシネマドキュメンタリー審査員特別賞を受賞。そこから立て続けに香港映画祭ではゴールーデンファイヤーバード賞。ロンドン映画祭では観客賞。
映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは肯定評価が96%。平均点8.1。Metacriticではややスコアが落ちるが、100点満点中79点。いずれも高評価を獲得している。
それでは映画の前半部分のストーリーを見ていこう。
2015年。ノルウェー、オスロのギャラリーから2枚の油絵が盗まれた。画家はノルウェー在住のチェコ人アーティスト、バルボラ・キシルコワ。ハイパーリアル画を得意とする女流画家である。
強盗は白昼堂々と行われ、しかも犯行の様子は監視カメラで撮影されていたために、犯人はあっという間に逮捕される。犯人は2人組だったが、裁判に掛けられたのは主犯のカール・ベルティル・ヌールワン1人だけ。警察による捜査はそれで終了だった。
その公判中、画家のキシルコワは被告人席でずっとうなだれたままのベルティルを見て、不思議な予感に突き動かされ、話してみよう……と行動する。
「なぜ盗んだの?」そう尋ねると「綺麗だったから」――その答えに気持ちがほぐれたキシルコワは、その男を自宅へ招待することにする。「あなたを描かせて欲しい」と。
数日後、盗人ベルティルはキシルコワのアトリエにやってきて、会話を交わしながら、絵画のモデルとなった。間もなく絵が完成し、ベルティルを再び招待して絵を見せる。
するとベルティルは――衝撃を受けたように茫然とした顔をして、その後、滝のような涙を流すのだった。
それ以来、画家と泥棒は不思議な絆で結ばれ、何度も会うようになり、対話を繰り返し、お互いの家に行ったり来たりするような仲へになっていく。
ところがそんな日は突如終了する。ベルティルが盗んだ車で事故を起こしたのだった。
ここまでで前半30分。すでにあらすじがドキュメンタリーっぽくない。画家が自分の絵を盗んだ泥棒に興味を持って、「絵のモデルになって欲しい」と申し出るところからお話しが始まる。そこから画家と泥棒は親密な関係性になっていき……まるで小説のようなお話しになっていく。
ノルウェー在住の女流画家キシルコワについて話をしよう。
最初に制作風景が描かれるが、それを見ただけでも実力のある画家だとわかる。なぜなら下書きほとんどなしでどんどん色を乗せていって、絵を完成させてしまっている。頭の中に完成画が見えているタイプだ。構想力と絵力の強い作家だ。
そんなキシルコワの絵が盗まれてしまった。盗まれたのはショウウインドウに掲げていた『クロエ&エマ』と『白鳥の歌』と題された2枚。2人の泥棒は白昼堂々と押し入っていって、絵画を盗み出していった。
この時、泥棒はナイフを使わず、板に打ち付けてあった釘を1本1本……全部で200本の釘を抜いて盗み去っている。ここが重要なポイントであり、奇妙なポイントだ。絵画強盗は額縁から外す手間を惜しんでナイフでキャンバスを切り取って持ち去る場合が多い。だから額縁の裏側になった部分数センチだけが残される。切り取ったら当然、価値は落ちるが、泥棒としては早く盗んで早く逃げたい、という心理があるからナイフでザックリ切り取って盗んでいく。
ところがこの事件では200本の釘を1本1本抜いて盗み出している。かなり丁寧な盗み方だが、ここが奇妙なポイントだ。事件当日、泥棒コンビはともに麻薬で「ラリっていた」と語っていて、自分がどうやってギャラリーに忍び込んで、どうやって盗んだのかわからない……という。「気がついたら目の前にあの絵があった」……と。
でも200本の釘を丁寧に抜いて持ち去ったという。私にはこれは証言の矛盾に聞こえる。
奇妙なポイントはまだある。絵画を盗み出して、その後、絵をどこに持ち去ったのかわからないという。これも麻薬でラリってたからだという。どこかに隠しているのか、それとも誰かに売ったのか……それすら憶えてないという。
ベルティルがこの話をするとき、やたらと感情的になるし、腕を上げて、椅子のフチをしっかり掴むような仕草をしている。自分を守ろうとしている動き、あるいはその場から逃げたい、という感情が行動に出ている。本当に知らないのか……私は限りなく怪しいと感じる。
もしもこれが「劇映画」だったら盗まれた絵画が最後には発見されて……! という展開になるかも知れないが、これはドキュメンタリー映画。映画的な定番の展開にならない。はじめにネタバレしておくと、盗まれた絵画は最後まで発見されない。少し引っ掛かりを残すが、そういうところもドキュメンタリーだから。
もう一つ奇妙なポイントは、女流画家キシルコワがまったくの無名作家だということ。実力はあるけれど、「売れている画家」ではない。そんな画家の絵をなぜ盗んだのか? 泥棒ベルティルは「綺麗だったから」、とまるでカミュの『異邦人』のような理由を話している。
事件の始まりから妙な雰囲気なのだが、裁判の最中、画家キシルコワは奇妙な行動を取る。被告人になっているベルティルのいる席へ行き、会話を始めたのだ。それで「綺麗だったから」という理由を聞いて、ふっと打ち解けるような雰囲気になり、家に招待してしまう。
泥棒を家に招いて、その泥棒の姿を絵にしようというのだった。
アトリエには絵を盗んだ泥棒と、それと向き合っている画家……。すでに「変な構図」だ。「どうなるんだ、これ」とドキドキしてしまう。妙な雰囲気が漂い始めてくる。泥棒は両腕に入れ墨の入ったヤク中で、何度も刑務所を出入りしているような極悪人だ。それに、女性がたった1人で向き合っている。緊張感が出ないはずはない。
間もなく絵画は完成して、ベルティルに見せることになるが……。ここ! このシーン。ベルティルが映画俳優でもあんな顔できないよ……というくらいの凄い顔をする。ここでいきなり「映画の神様」が下りて来ちゃった。このシーンは見てほしい。あまりにも見事な顔をしてしまうから、「ドキュメンタリーではなく劇映画」と思われてしまったポイントだ。
それ以来、画家キシルコワと泥棒ベルティルは“深い仲”になっていく。画家はその後もベルティルをアトリエに招待するし、泥棒はキシルコワを自宅に招待するし、お互いの過去、お互いの精神的なことを打ち明け合う関係性になっていく。
(ベルティルの家に招待される場面。ベルティルの家にはたくさんの美術品が飾られているのだけど……「盗品では?」と思うようなものも。大丈夫なのだろうか)
泥棒ベルティルが自身について語るところによると、幼少期はごく普通の家庭だったが、間もなく両親の離婚で片親になる。それでも学生時代は優秀な成績を収めるが、その後、人生観が崩れていく。盗みやドラッグにどっぷり浸かるようになっていく。
ベルティルはずっと孤独を感じていた。誰かに認められたい。愛されたい。しかしそれが得られないストレスに耐えきれず、ドラッグに手を出してしまう。ドラッグにのめり込んじゃう奴はだいたいワルじゃなく、「心の弱いやつ」だ。ベルティルは見た目はヤバそうな風貌だけど、心を打ち明けて話すようになるとナイーブな面がどんどん現れてくる。本当は哀しみや孤独に耐えきれず、ヤク中になっていたのだ。片親になり、心許せる友人や恋人を見いだせなかったことから、ベルティルの人生観は完全に狂っていく。
そんな時、キシルコワが自分を絵にしてくれた。ベルティルはショックで泣いてしまう。あの瞬間、ベルティルは自分が「認められた」という実感を得たのだった。絵画として残る……自分の存在が間違いなくそこにいて、しかもその姿が美しい。ずっと誰かに愛されたい、認められたいと思っていた。その思いが、突如叶ってしまい、ベルティルは泣いたのだった。人生で一番の衝撃だったのだろう。
一方、キシルコワも心の闇を抱えていた。一見すると順風な少女時代を過ごしていたが、不思議なくらい「死」に引き込まれる性質だった。墓地に行って、誰からも花を添えてもらえない墓石を見て、なんともいえない哀れさを感じてしまったり。初めて死体を見たときも、その無常観でたまらなくなってしまったり……。
キシルコワは感性が強すぎるタイプだ。だからなんでもないものに、感情移入してしまう。同情してしまうし、恐怖も感じる。その感性が、裁判所でうなだれていたベルティルに惹きつけられてしまったのだ。
キシルコワは自分が恐れを感じるような負のイメージを、あえて自分に取り入れて、絵画に表現して恐怖を克服しようとする。克服したら別の負のイメージを求め始めてしまう。そういう心理プロセスを無自覚にやっている画家だった。
だからこそベルティルはキシルコワにとってのミューズとなっていく。キシルコワはベルティルの佇まいに直感的になにかしら「負」を感じ取ったのだ。そして思った通り、ベルティルは「負」そのもののような存在だった。だからベルティルは芸術のミューズになっていく。キシルコワはベルティルという題材で創作意欲を燃やすようになっていく。
画家キシルコワと泥棒ベルティルは頻繁に会って抱き合ったり食事したりする関係になっていったが、そんな様子に不快感を持つようになったのがキシルコワの夫だった。キシルコワは既婚。ちゃんと夫のいる女性だ。夫の目線から見ると、体中に入れ墨の入ったヤク中の泥棒と妻が仲良くなっていく様子は、はっきり快いものではない。夫は性格穏やかなタイプだが、二人きりの時になると感情を露わにして、ベルティルとの関係を非難するのだった。
夫が妻と泥棒の関係に懸念を感じている理由がもう一つあった。キシルコワの前の恋人が暴力男だったこと。キシルコワは自分でも抗いがたく「負の存在」に自ら引き込まれやすい性質を持っている。それでどう考えても駄目男なのに、DV男との生活を送り続けていた(今でもそのDV男が用意したアトリエを使っている)。悲惨な状況にあえて自分の身をさらし、心理的に追い詰められるほどにキシルコワの作品は輝いてしまう。DV男と付き合っている間は、暴力を振るわれる自分自身を題材にして何度も絵を作っていたほどだ。人間としての性向なのか、画家としての性向なのか、そういう時の引き込まれていく力はおそろしく強いのだ。
それが夫の目線からすると不安で仕方ない。
キシルコワは少女時代から負の存在に引き込まれる質だった。負の感情や死といったものに引き込まれる。そういうものに引き込まれるとき、自分でも理性で抗うことはできないし、そういう人間の暗部に触れれば触れるほど、創作意欲が燃えてくる……というタイプの画家だ。
そういうところからキシルコワの絵画テーマが見えてくる。キシルコワの絵画は一見すると「ハイパーリアル画」だけど、実は描かれているものは観念的。ただ写真に写ったものを描いているだけではなく、そこに自分の心情が託されている。自分の暗部をそこに投影し、そのうえで自分の体内にある恐れを解消する。キシルコワの作品は、そういう儀式行為のようなものを多分に含むような作品だった。
というこの辺りは、ドキュメンタリーで語られていた部分ではなく、私の解釈。
だからヤク中でいかにも危なそうな人間であるベルティルに惹きつけられていく。こういう時のキシルコワは自分でも抗いがたい衝動に突き動かされてしまう。キシルコワとベルティルは“際どい関係”に入っていくのだけど、そういう関係性になっていくほどにキシルコワは創作意欲が燃えあがってくる。ベルティルを題材にした絵を描きたい……という衝動に突き動かされる。
すると夫は2人の関係に心落ち着かなくなっていく。キシルコワとベルティルが“一線”を越えてないのは確かだけど、それ以上に心情的に深く深く結びついていく。もういっそ「セックスの方がマシ」というくらいの“絆”を築き上げていく。
しかしキシルコワとベルティルの前に障害が立ち塞がる。
まずキシルコワだが、実力のある画家だが、売れるかどうかは別問題。アトリエの家賃を滞納しはじめる。あちこち売り込みに行くのだが、断られる。
なぜなのか、というと「暗い」から。なにしろ絵にはキシルコワの負の心情が投影されているわけだから、素人目にもその前に立つとなんとなく気持ち落ち着かなくなる。人間の暗部や暴力を記録した絵を自宅に飾りたい……少し「変わった人」ならそういう人もいるかも知れないが、一般人からすると近寄りがたい絵だ。
一方、ベルティルはドラッグを断ち切れず、更生施設に行くはずなのにその道中でドラッグを買ってしまい(普通に市場で売ってる!?)、それが切っ掛けで恋人と大喧嘩。そのまま恋人は姿を消してしまう。
自暴自棄になったベルティルは車を盗んで暴走し、事故を起こす。
穏やかではない展開だが、ドキュメンタリーを撮影している監督としては燃えあがってくる。というのもまたしても「映画の神様」が下りてきた。2人にとっては災難だけど、映画的にはあまりにも「おいしい場面」が撮れてしまっている。この後も「映画の神様」がバンバン下りてきて、ドキュメンタリーはとんでもない代物に変わっていく。
こういう画が意図せず撮れてしまったときって、いったいどんな気持ちになるのだろうか……。
映画のあらすじ紹介はここまで。
最終的に画家キシルコワと泥棒ベルティルはいかにして心の葛藤を乗り越えるか。画家と泥棒がどのように手を取り合って、目の前の問題と立ち向かうのか。その結末に、私は映画を観ていて思わず「ええ!」と声を上げてしまった。最後の最後まで「映画の神様」が下りてきたのだった。
泥棒ベルティルの荒廃した精神はキシルコワの絵のモデルになることによって救われていくし、キシルコワはベルティルの精神的暗部を絵にすることで救われていく……。この関係性が最後には2人の立場を救う……という精神的な物語に昇華していく。
これ本当にドキュメンタリーなの? そう尋ねたくなるのも仕方ないくらい、劇映画的。それでいて劇映画ではあり得ないような斜め上の展開がてんこ盛り。まさに「真実は小説よりも奇なり」を地で行くようなお話し。高評価も納得の上質ドキュメンタリーだ。
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