ドキュメンタリー紹介 ウィンター・オン・ファイヤー:ウクライナ自由への闘い
今回紹介するドキュメンタリーは、2013年から2014年にまたいで展開したウクライナでのとある「革命」を捉えた作品である。制作・発表は2015年。2013年末から2014年はじめにかけて、ウクライナで何が起きたか……その現場の生々しい様子を捉えたドキュメンタリーだ。
ウクライナは複雑な経緯を持つ国だ。かつてはあの大国の一部であったが、しかし「ウクライナ語」を話す民族は確かに存在していて、固有の歴史と文化を築いていた。「東西の境界」という地理上の問題から、古くからモンゴル帝国、ポーランド・リトアニア共和国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア・ツァーリ国など様々な脅威に晒され、支配を受け、分割されてきた。ウクライナの歴史を紐解けば、ただひらすらに「苦難」の連続の国である。
そのウクライナも1991年にソビエト連邦から独立し、ようやく国家としての主権が認められるようになる。
だがウクライナの平穏は短かった。2004年、親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領選に勝利。国民は「不正選挙だ」と声を上げて抗議し、デモを行った。これが「オレンジ革命」と呼ばれる。この時は再投票が行われ、選挙は逆転した。
平穏を取り戻せた……かと思えたが、2010年、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチは大統領選で勝利し、再び権力を握る。
2013年の秋、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチは「EU加盟」を国民に約束するが、その裏では密かにロシアとの関係強化を進めていた。
ウクライナの未来は不安定な状態に晒されていた。
「我々はEUとの統合の他に選択肢はあり得ない」
ヴィクトル・ヤヌコーヴィチはそう国民に語っていたが――これは嘘だった。
1日目
2013年11月21日
アザロフ首相は「誠に遺憾ながら、EUとの自由経済協定の締結に向けたプロセスを“停止”する」と発表。
国民は欺かれていたことを知る。ヴィクトル・ヤヌコーヴィチは最初からウクライナをEUに加えるつもりもなかったのだ。
この発表を受けて、とあるユーザーがFacebook上で「独立広場に集まろう!」と呼びかける。
ごく最初のうちは300人くらいしか広場に集まらなかった。
だがやがて地下鉄やバスからぞくぞくと人が集まってきた。その数はあっという間に何千人にも膨らんでいった。
普段は政治に興味もない若者たちが、一斉に広場に集まってきた。国旗を振り、「ウクライナはヨーロッパの一部だ!」と声を合わせながら行進する。熱気で高まっていて、集まってきている人々は、変化の兆しを感じていた。
9日目
2013年11月29日
ヴィクトル・ヤヌコーヴィチは広場に集まってきていた人達に向けて、再び「ウクライナのEU入り」を約束する。
しかし――EUとの交渉はあっけなく破談。ヴィクトル・ヤヌコーヴィチはやっぱりウクライナをEUに近付ける気はなかったのだ。
広場に集まってきた若者たちは数万人に膨れ上がっていた。ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の決定に、非難の声を上げる。
すると間もなく、広場を警察が包囲し始めた。ただの警察ではない。警察特殊部隊「ベルクト」だ。政府は集会の武力による攻撃を始めたのだった。
若者たちは抵抗せず、ベルクトを前に「国歌」を唄った。そんな若者たちに、ベルクトは容赦のない攻撃を加える。突撃して若者たちの列を崩壊させ、鉄の棍棒で殴った。
広場の平和的な集会は「騒乱」に変わった。若者たちは散り散りに逃げて、ベルクトがそれを追いかけて殴り続ける。この時の騒乱だけでも多くの負傷者を出す。
10日目
2013年11月30日
広場から逃げ出した人達は、聖ミハイル黄金ドーム修道院に集まった。
人が一杯で、身動きできないほどだった。誰かが食べ物を配ったり、防寒着を渡したりしていた。怪我人の手当てをしている人もいたし、法律相談をやっている人もいた。
政府は抗議運動を初期段階で潰そうとしていた。ベルクトを動員して攻撃すれば、若者たちは恐れをなして解散すると思っていた。だが逆効果だった。むしろ若者たちは政府に幻滅し、闘争心を燃やしていた。
11日目
2013年12月1日
解散させるはずが、むしろもっと多くの人々が集まってきた。ベルクトによる武力介入から2日後、独立広場には100万人の人々が集結していた。
「ヨーロッパには大切なものが2つある。それは自由と人間としての尊厳だ。この2つを人から奪うことは誰にもできない。我々は自由と権利のために戦う。ここに集まったみんなは、みんなそれぞれ違う意見を持ち、出身地もバラバラで話す言葉も違っている。でも自由と尊厳のために集まった。ウクライナよ、団結しよう!」
群衆は大統領府に向かって行進を始めた。誰も武器を持っていない。平和的な行進だった。
しかし――、
群衆の行進をベルクトが阻止した。
さらにベルクトは「扇動者」をデモ隊の中に潜入させていた。扇動者たちが暴れ回って、ベルクト達に攻撃させる口実を作るためだった。
平和的な行進は打ち砕かれ、ベルクトがなだれ込んできた。音響閃光弾を投げて、群衆が崩れたところに棍棒を持って突撃してくる。反抗しない人々を押し倒しては殴り倒していく。
12日目
2013年12月2日
群衆たちはキーウ市庁舎を占拠した。ベルクトに抵抗するため、拠点が必要だった。これまで平和に徹したデモだったが、群衆の側も一線を越えることになる。
デモ隊に協力する人はどんどん集まっていた。元軍人たちもデモ隊に加わり、若者たちを指導して、バリケード作りに協力する。誰もが国を憂いて率先的に行動していた。
キーウ市庁舎の床に置かれたヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の写真。誰かが置いたのか、それとも落ちたのか……。ここを通る人は、みんなこの写真を踏んで歩いて行った。
20日目
2013年12月10日
ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領はEUと米国の代表と会談。騒動に対する外交的な解決策を見出そうとしていた。
そんな最中、ベルクト達が群衆を解散させようと広場に集まってきた。ベルクトは武器を持たない一般市民達を攻撃する。群衆は攻撃せず、手を繋いで「人間の鎖」を作り、国歌を唄った。
広場が未曾有の大騒動に包まれるその時、教会の鐘が鳴った。
ミハイル修道院鳴鐘係イヴァン・シドル「私たちも覚悟を決めました。アハピト主教から許しをもらい、鐘を鳴らしました。2013年12月11日、政府は暴力で広場の人々を一掃しようとしています。ミハイル修道院も政府の暴挙を阻止する協力をします。前に当院の鐘が全て鳴ったのは、タタール人がキーウに侵入しようとした1240年以来でした」
ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領はロシアのプーチン大統領と会談し、ガスの値下げで合意する。相変わらずヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領はロシアへすり寄り続ける。EUとの距離は広がる一方だった。
41日目
2013年12月31日
解決の糸口は見つからないまま、集まった人々は広場で新年を迎えることになる。
57日目
2014年1月16日
政府は広場の群衆達と対話しようとはせず、新しい法律を作った。
新しい法律とは――バイクのヘルメットを被ることの禁止、5台以上の車列での移動を禁止、インターネットへのアクセス規制……等々。「独裁政治」を正当化させるために法律だった。
ヘルメット禁止。広場に人々は「鍋」を頭に被って、抗議を示す。
60日目
2014年1月19日
アウトマイダンのメンバー、セルゲイ・コバ「僕は君たちの仲間だ。ウクライナに尽くしてきた、アウトマイダンだ。皆で議会へ穏やかにデモ行進をしよう。そして議会の前で、できるだけ粘るんだ。賛成なら挙手を!」
広場の群衆達は、再び議会を目指して行進を始める。
しかし、またしてもベルクトがその途上で妨害する。
「警察よ、聞いてくれ! 頼みがある! 君らはウクライナのために働いているんだろ。ヤヌコーヴィチのためじゃない。これは平和なデモだから、どうか道を開けて欲しい」
だが騒動が始まった。ゴム弾が撃ち込まれたし、音響閃光弾にはネジが取り付けてあった。ゴム弾の射撃の中に、実弾の射撃も混ぜてくる。ベルクトはもはや「鎮圧」ではなく、群衆の「射殺」を目的とするようになっていた。
実弾の射撃で自国民を撃つベルクト。
警察、ベルクト、ティテュシュキー全員が群衆を攻撃してきた。
ティテュシュキーはもとは刑務所に入っていた犯罪者達で、群衆鎮圧のために政府で金に雇われた人達だった。
63日目
2014年1月22日
とうとうフルシェフスキー通りで死人が出てしまった。
警察とベルクトも歯止めがかからなくなっていた。実銃は使うし、赤十字の拠点を襲い、医者すらも標的にした。
群衆も政府も警察も、もう引き返せない地点に来た。その瞬間だった。
90日目
2014年2月18日
建物屋上から狙撃しているベルクト。もはや堂々と実弾を使ってくる。
騒動はもはや「戦争」の状況を呈する。武器を持たない群衆に対して、警察やベルクトは実銃で攻撃してくる。人々はバリケードを作り、タイヤを燃やしてベルクトを遠ざけようとする。
92日目
2014年2月20日
「今日は議会で重要な決定がなされた。大統領選を12月に行うと言ったんだ。しかしヤヌコーヴィチが辞めるまで1年も待てない。明日の朝10時には辞任してもらいたい。僕の同僚は射殺された。彼は結婚していて、赤ん坊までいたんだぞ。それなのに“指導者”は殺人犯と握手か! 恥を知れ! 政治家達に市民の意思と知らせてやろう。僕らの防衛隊を代表して宣言をさせてもらう。明日午前10時までにヤヌコーヴィチが辞任しなければ、我々は武力攻撃を開始する!」
これまで民衆のデモは「平和的なデモ」に徹していた。暴力を受けても反抗しないできた。だがここに来てついに「反撃」を宣言する。
はたして大統領はどうするのか?
ところが――、
2014年2月22日。ヤヌコーヴィチがヘリコプターで逃亡。ロシアへ亡命した。
大統領逃亡によって、騒動は幕を閉じることになる。
93日間の闘いで、死者は125人。負傷者は1890人。行方不明者は65人にもなった。
この「マイダン革命」の数ヶ月後、ベルクトは永久に解体された。ウクライナ新政府はEU連合協定に署名した。こうして、ウクライナは「ヨーロッパ」の一つになった。
だが、実はウクラナイナは一枚岩ではない。ウクライナのなかにも「親ロシア派」と呼ばれる人達はいて、そういう人達との紛争は絶えず起きている。ロシアはその親ロシア派を支持して軍を送り、クリミアを併合した。親ロシア派勢力はウクライナ内部で拡大中だ……。
しかもウクライナは内部的にも苦難を抱えていた。失業、貧困、汚職……。現在、ヨーロッパで2番目に貧しい国と呼ばれている。こうした内部的困難の影響で、犯罪も多い。革命によって英雄的に自由と権利を獲得したからといって、国内の諸問題も同時に解決した……というわけではない。独立の先に「平和」や「秩序」を手にしなければならず、その目標はまだまだ遠かった。
2014年、ウクライナは苦難を乗り越えて「自由」と「権利」を獲得したが、2022年、再び苦難と向き合うことになる。NATO加盟へと活動を始めたところ、ロシアがウクライナへと侵攻した。独立へ向かって動こうとしたら、「裏ボス」が出てきた……そういう状況だ。
ロシアからしてみれば「子分が勝手なマネをするな」……といった感じだろうか。ロシアはソ連崩壊から30年たった今も、ウクライナを「属国」と見なしている。
現時点でもウクライナとロシア間の戦闘は終結の兆しは見せない。この戦争がどのような解決を見出すかは、まだわからない。
今回の戦争の「前景」としての2014年の革命。2022年の戦争を知る一つとして、ぜひお勧めしたいドキュメンタリーだ。