2019年春アニメ感想 さらざんまい
この記事は、もともとは2019年7月1日に掲載予定だったものです。事情はこちら→ご無沙汰しておりました。
みんな大好き、幾原邦彦によるオリジナルアニメだ。アニメーション制作はMAPPA。この組み合わせだけでも、期待感はかなり大きい。
さて本編だが……
東京・浅草。中学二年生の矢逆一稀、久慈悠、陣内燕太の三人は、カッパ王国第一王位継承者を名乗る謎の生命体ケッピと遭遇し、「尻子玉」を抜かれてカッパにされてしまう。人間の姿に戻るため、三人がクリアしなければならないミッションとは―?
と、公式サイトに書かれている。……なにがなにやら。
実際、かなり奇妙な世界観、奇妙な感性による作品である。敵はある1人の“欲望”を媒体に怪物を作り、人々の“欲望”をかき集める。一方の主人公サイドは、カッパ王子の導きによってカッパとなり、怪物の肛門に突撃して欲望の象徴である尻子玉を引っこ抜く。
……と説明されても、なんでカッパ? なんで尻子玉? といろいろ考えなければならない。
幾原邦彦監督作品の特徴は、描かれている全てのものが“象徴化”していることだ。背景を埋め尽くすモブキャラはみんな記号化された看板のようなものだし、あっちこっちに「ア」と書かれた交通標識のようなものが鏤められている。
おそらく幾原監督は実体としての、具象としてのドラマにほとんど興味を持っていない。それよりも、そこに散らされたピースが、最終段階に向けてピタリと当てはまることのみに関心を向けている。幾原監督にとって、ピースがあてはまることと、ドラマが最終局面に達することと同義なのだ。
表面上に描かれているものはどんどん象徴化していく傾向になるので、パッと見たとき何が描かれているのかよくわからないことがしばしばある。作り手が仕掛けた、「イクハラ暗号」と呼ぶべきものを一つ一つ読み解いていかないと、あっという間に置いてけぼりをくらってしまう。表面上の絵の柔らかさ、キャラクターの可愛らしさに騙されやすいが、幾原監督作品は一筋縄ではいかない。
(とはいっても、幾原監督も別に観ている側に「謎を仕掛けてやろう」とか、意地悪で作品を描いているのではないのだと思う。単に、感性の問題。“素”で作品を作ったら、こうなった、というだけの話だろう)
それで、こういうブログ記事で『さらざんまい』のイクハラ暗号を鮮やかに解説してくれるんだろう……と期待されるんじゃないかと思うが、それは無理。私も大半はわからない。
まず箱。Kappazonと書かれているが、どう見てもAmazonの箱だ。Amazonこそ現代の欲望。ボタンをポチッと押すだけで、お望みのものがいつでも何でも手に入る。
しかし、敵となるカパゾンビは奇妙な性質を見せる。本来、人がほしい物は「Amazonの箱」ではなく、「箱の中身」だ。しかし第1話の敵となるカパゾンビは「箱」そのものに執着してしまっている。
この傾向は第2話以降ずっと引き継がれる。第2話猫山毛吉は猫になりたいがために、大量の猫を集めて、その毛を集めていた。その本丸は、猫好きの女の子の膝に座ること……本丸はそこなのに、いつの間にか猫の毛のほうに傾倒するようになってしまった。
第3話は飛ばして(第3話は「キスを三枚に下ろす」というネタをやりたかっただけだろうから)、第4話蕎麦谷ゆで男は盗んだ残り湯で蕎麦を茹でていた。常連客の女性への愛と欲望が原型だが、その女性そのものよりも、残り湯のほうに傾倒してしまった。
フェチとは、本来欲望を向ける対象から、微妙にずれたものに対して異常な愛着を見せることである。例えばパンツフェチ。本丸はパンツの向こうであるはずなのに、「パンツ」という布きれに意識が留まって、そのうち本体そっちのけでパンツに夢中になってしまう。これがフェチだ。
カパゾンビたちはいずれも「本丸」が別にあるのに、その本丸から微妙に外れて、外れたものに愛と欲望を注ぎ始めた。哀れで不気味な存在達だ。まさしく、現代的な“歪んだ欲望”を象徴している。
バトルシーンは、ミュージカル風に描かれるが、これが猛烈に格好いい。幾原監督といえば格好いいBANKカット。それも、百回見ても廃れない凄さを持っている。幾原監督作品全体に共通しているものといえば、このBANKカットの格好良さ。
最近、『セーラームーン』はリメイクされたが、最近の技術で刷新されたのに関わらず、幾原監督がかつて手がけた『セーラームーン』にはまるで手が届いてなかった。20年近く時間が経っていても、まるで廃れていない。結局、幾原演出の凄さを再確認しただけだった。
今回も幾原監督のスタイルが全開。カッパのキャラクターは可愛いし、背景にかなり奇妙な歌が流れているのだが(「かわう~ソイヤッ!」)、しかし画を見ているととにかくも格好いい。毎回、エピソードのクライマックスで同じ動画が使われるが、何回見ても飽きない。相変わらず百回見ても廃れないものすごい演出で攻めてくる。
さて、謎の「ア」の標識だ。これはいったい何だろう……? 最初はよくわからず、しかし幾原監督のことだから何かのダジャレじゃないかと思ったが……(幾原監督といえばダジャレも特徴だ)。それで「ア」に当てはまるダジャレはなんだろう、としばらく考えていた。
とあるサイトで、「アはアナルのアではないか」と書かれているのを見た。なるほど。この作品、やたらと「アナル」――「尻の穴」が執拗に描写されている。
「尻子玉」を引っこ抜くためにアナルに突撃するし、主人公達がカッパに変化するときはカッパ王子の尻の穴から生まれてくる。バトルシーンのクライマックスは尻の穴に突撃していく(たいぶ象徴化されているが、肛門の下にばっちり金玉袋も描写されている。シーンによっては、お腹に施された模様が屹立した“竿”に見えることもある)。そういえば「ア」を囲う赤い円は、肛門っぽくも見えなくもない。今回の主人公は3人の少年であるし、たぶんにホモセクシャル的なイメージで描かれている。オープニングに出てくるスカイツリーが男根に見えるのは、「気のせい」ではなく実際にそういう意図によるものだろう。
しかし、もしかして他にも意図があるんじゃないか? と改めて第1話を振り返る。
第1話冒頭。浅草寺正面。
実はこのカットにはまだ「ア」の文字は出てきていない。最初の数カットには「ア」は出てこない。「ア」が出てくるのは、次のシーンからだ。
夜の街を1人で走っている矢逆一稀。弟・春河の声で「カズちゃーん」が聞こえる。ここで、「円」が描かれるイメージが現れる。この円のイメージは後の第6話の台詞「かずちゃんはまあるい円の真ん中にいるんだよ」と関連している。
おそらくはもともと街には「ア」はなかったが、この時に「ア」が一稀のイメージの中に生成されたのだろう。弟の事故と、そのトラウマが結果となって。
目を覚ます一稀。窓の外にはスカイツリー。
「ア」が街のあちこちに現れるのは実はその次のシーン。吾妻サラがテレビに登場してから、「ア」が街中に配置されるようになる。
第1話クライマックス、カパゾンビから尻子玉を抜いた後、頭のお皿に「ア」の文字と共に携帯電話の受信状況を示す記号のようなものが浮かび上がる。
ああ、そうか「アンテナ」の「ア」だ。「ア」の文字が映っている場所、とは単純に携帯電話のアンテナが立っている場所。「繋がっている」状態を示しているんだ。
で、第1話冒頭、春河の声が聞こえて、「ア」の標識が落下してくる。この瞬間、春河との繋がりが絶たれたのだ。おそらく後に明かされる、交通事故の場面を思い出しているのだろう。一稀はあの時、春河との繋がりが絶たれたと思い込んだ。その瞬間をフラッシュバックしているのだ。
最初のシーンに「ア」が出てこなかったのは、春河の事故によって一稀の体内に生成されたイメージであるから……だろうか? トラウマを抱えた少年が見ている幻覚のようなものかも知れない。
作中、スカイツリーがあちこちに登場してくるのは、あれが電波塔だから。現代人を電波で繋げるためのものだ。
で、この「ア」が反転して、かわうそサイドに、アンダーグランドのシーンに移る。
「ア」が反転するのは、最初は「ア」は交通標識を模しているわけだから、この場面は欲望が制限されている状態。それが反転するから、欲望がダダ漏れになる状態……というふうに考えていた。
しかし「ア」が繋がりの象徴であると考えた場合、反転した世界は「繋がりが絶たれた状態」のことだ。カパゾンビとなってしまう人たちは、歪んだ欲望の末に人の道を外れてしまう。
バトルシーンのラストで、チェーンのように連なったお皿(欲望が隠された尻の連なり)の列から、カパゾンビとなった人がペンッと弾き出されてしまう。
弾き出されて、その後、何かに引っ掛けられて消滅する。……これは第6話に出てくるシュレッダーをシンボル化したものだろう。
欲望を持つことで無理やり社会と繋がっていたが、尻子玉(欲望)を引っこ抜かれたことでとうとう本当の死者となってしまし、社会との連なりから排除されてしまう(そもそも彼らは“本体”に対する愛を失っていた。“虚ろ”を愛するようになった哀れな人達である)。
またカッパ状態になっている時は、普通の人からは見えない状態になる。人々との関係が断たれたアンダーグラウンドの世界に入るから、「ア」が反転するのだ。
それで「アナルのア」説もわりと合っているんだと思う。なぜならこの作品は執拗にお尻の穴を強調する。カッパになった一稀たちが出てくるのは、カッパ王子の尻の穴からだし、カパゾンビの肛門に突撃するとき、記号化された一稀たちの絵がどう見てもアナルビーズ。アナルが意識されていないわけがない。
「アナルのア」であり、「アンテナのア」。どちらでも解釈できるように、あるいは他にも読み取る余地が出るようにあえて「ア」という記号のみを置いたのだろう。
吾妻さらが出演しているテレビ。出ているのは「“ア”サクササラテレビ」。
立て札にはたくさんの言葉が書かれているが、ここに当てはまるのは何だろう? 「世界の“ア”を叫ぶ」には「愛」だろう。
「アナル」であり、「アンテナ」であり、「アサクサ」であり、「アイ」であり……。
それはそれとしても、作中に出てくるカッパが可愛い。よくよく考えると、この作品はかなりえげつないお話を展開している。描写もアナルやら女装やら盗みやら殺人やら……いろんなタブーを堂々と乗り越えてくる。それをカッパというキャラクターでうまく中和してくれている。あのカッパのキャラクターグッズがあったら欲しいと思うくらい。可愛いカッパキャラが出ていなかったら、作品がグロすぎて見るに堪えなかったのではないか……と。
余談だが、作中のアイドルである吾妻サラ。とても可愛い。『さらざんまい』はどちらかといえば少年が主役で、たぶんにホモセクシャル的な傾向を持っている。そのなかにいて、存在感を持っている美少女。
幾原邦彦といえばヒロイン。幾原邦彦が描くヒロインは、こちらも何年経っても廃れない存在感を持つ。
今回のヒロイン、吾妻サラは独特。なにしろ頭にお皿を置いているヒロイン。そうそういるものではない。不思議で奇妙な踊りに、妙な歌。おっとりとしすぎて浮き世離れした言葉や、振る舞い方。なんとも独特。奇妙さ全開の不思議なキャラクターだが、しかしものすごく可愛い。長く愛されるキャラクターになりそうだ。
それで、なんでカッパVSかわうそなのか……これがよくわからなかった。なんでこのモチーフだったんだろう? カッパかわいいけど。
カッパは尻子玉を取るもの。それに水のイメージは欲望の浄化のイメージだとわかる。……しかしその敵になぜかわうそなのだろう……。
頭のお皿に「ア」の文字が浮かび上がるとき、その人間が密かに抱いている欲望も繋がってしまう。
女装に男色に、殺人……。女装と男色の次が殺人で、急に非現実的な気がして謎の安心感があったが、実は一番深刻だ。なのに女装と男色が強烈すぎて、殺人が薄味に見える不思議。
(陣内燕太の欲望漏洩シーン、一稀のユニフォームでハスハスするが、あの場面、燕太は絶対にパンツを下ろしていたはずだ)(描写にある種の“寸止め”が入っているのは、一稀と春河の関係性もそうだろう。なにしろ、女装兄とショタの近親相姦だ。そのままズバリを描くとまずい)
『さらざんまい』は現代人の歪みきった欲望を描いた作品だ。かつての人が持っていた欲望は、もっと直線的だったように思える。直線的に「金・女・権力」だったように思える。
しかし平和な時代、物質に満たされた時代、飢えがなくなった時代、人々はどんな欲望を持つのか。人々は充分なモノを手にして、満たされて幸福なのか――いや、それは絶対にない。ほしい物はすぐそこにあるのに、実は“本当の欲しいモノ”は手に入らない。だから、みんな“代わり”のもので自分の気持ちをごまかし、いつしか欲望の対象が“代わり”であったはずのものに移ってしまう。何が欲望の本体だったのか、それもわからなくなる。現代人の欲望は、折れて歪んでいる。
お話がやたらと“性”に傾いているが、なぜなら“欲望”とは“性欲”だからだ。根源的な話をすると、好きになった女の子とセックスできなかったから、“想い”は歪んだ“欲望”に変質する。現代人は寝る場所にも食べる場所にも困らないが、セックスの相手だけが不足している。
セックスの話をし始めると、大抵の人は笑うか眉を潜めるかしてしまうが(ユーチューブで性の話題をすると、どんな内容であっても動画が削除される)、性的な人格として自立できていないこと、ここから来るコンプレクスは非常に大きい。どれくらい大きいかというと、実際アメリカではこれで銃乱射事件が起きているほどだ。笑っちゃいけない話だ。
(これから性の問題はもう一段階こじれるだろう。なぜなら教育でも社会でも、性を隠そう、性差を認識させないでおこう……という方向に進みつつあるからだ。今や、性別差によって生じる能力の差、みたいな話をすると「男女平等」を押し進める過激派から「性差別だ!!」と非難されてしまうので、事実であっても言えなくなってしまった。この流れは10年ほど続き、その時もう一回何かしらの問題が起きて、その時に社会は大慌てで変化しなければならないと気付くだろう)
現代人はみんな、人と、誰かと繋がりたい。軽い友達でいたいとかお喋りしたいとかではない。繋がることの究極的な形はセックスだ。だがその機会すらないからこそ、現代人は歪んでいる。創作の世界は、歪んだ欲望の坩堝と化している。
衣食住満ち足りて、性が欠けている。みんな虚構世界の代理の性を消費してごまかす。そのうちに欲望の実体を見失って、気づけば自身が“うつろ”になっている。誰もがカパゾンビ。
おそろしくドロドロとした現代の欲望を、幾原監督は優しくも可愛いイメージでオブラートに包みながら描写して見せている。
この作品における“愛”とは、おそらく相互的なもののことだ。“欲望”とは相手をモノ化する、相手の気持ちや感情を無視して、個人的に満たされるためだけに搾取する……という行為のことだろう。
だから“愛”をしっかり持っている者が救われる、という構造を持っている。きちんと人を愛し、繋がって社会とも連なっていくこと。
と、いう話が理想といえば理想。そんなふうに繋がり合えば間違いなく幸福だが、これこそ現代が抱える難しさ。これだけネットやらなんやらで繋がっていられるのに、心は繋がっていない。目の前の人の気持ちもわからない。他人の気持ちすら考えられない。いくらでも繋がれることができるのに、繋がろうとすらしない。現代人は冷たい。自分のことしか考えない。誰もが自分こそが世の中で一番賢いと思い込んで「俺が俺が俺が俺が俺が俺が」と主張し続ける。ネットの世界なんて、そういう「俺が」で溢れ返っている。それで、相手を欲望のモノ化する。
だから欲望を抱き、その欲望は次第に歪んでくる。
昨今の痛ましい事件を見聞きするたびに、きっと社会のと繋がりが完全に絶たれて、カパゾンビになってしまった人なのだろう……という気がする。社会との繋がりがあって、そこに幸福を感じていたら、人を殺して自分も死んでやろう……なんて考え至らないものだ。
幸福とは“欲望が満たされていること”ではなく、“愛”という連なりを持っている状態のことなんだろう。
そう考えると『さらざんまい』は現代人が抱える問題を諷刺し、諷刺しつつ柔らかく優しく描いた作品……そんなふうにも感じられる。この作品は幾原邦彦監督が今時の人たちに向けた、一番優しいメッセージなのかも知れない。『さらざんまい』のイクハラ暗号を全部読み解いていくと、そういうものが見えるんじゃないか……という気がする。