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映画感想 クワイエット・プレイス2 破られた沈黙

 あの映画の続編!
 聴覚が異常なほど優れた怪物相手にいかに戦っていくか――2018年に発表された『クワイエット・プレイス』は世界興行収入3億ドルを稼ぎ出す大ヒット映画となり、当初は「第1作だけで終わり」の予定だったが、あまりに多くの支援に後押しされて続編が制作されることになった。それが『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』。……邦題に『パ-ト2』を付けなかったのは失敗かと……(原題はパート2がついている)。
 監督、脚本、制作総指揮はジョン・クラシンスキー。第1作目の主演で、一家の父親を演じた男性が企画から監督までを引き受けている。父親役は第1作目で死去してしまったために、第2作目では回想シーンに少し出てくるだけ。予定になかった2作目だったために、監督業に専念することとなった。
 第2作目の興行収入は、2021年12月18日公開で、初週のみで4754万ドル。前作よりもほんのちょっと落ちるが、コロナ禍の只中という事態を勘案すると充分な収益だといえる。映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは批評家支持率91%。平均点は10点満点中7.4点。前作が96%、平均点8.1点という絶大な高評価から少し落ちるが、充分すぎるほどの高評価を得ている。

 では本編ストーリーを見てみよう。


 1日目。
 街はいつもの様子だった。主人公リー・アボットは息子が出場する野球の観戦していた。
 いよいよ息子がバッターボックスに立った。落ち着け、しっかり狙っていけ……。と声援を送るが、息子の目線は遙かな上空へ……。
 球場にいる全員が空を見上げていた。雲を突き破って、何かが煙を吹き上げながら落下してくる様子が見えていた。
 あれはなんだ……。絶対ヤバいやつだぞ……。
 球場にいた全員が、無言で解散し、家路につくのだった。リー・アボットも子供たちを連れて家へ帰ろうとしたが――突如、奴が飛びついてきた。怪物だ。見たことのない、異様な姿の化け物だった。リーは息子を連れて、走って逃げ出すのだった。

 474日目。
 第1作目が終わった直後のこと。
 アボット家は一家の大黒柱を喪って、その家を離れようとしていた。山を一つ越えた向こうに、炎で合図を出している家があった。あそこなら助けてもらえるかも……。
 一家はその家を目指して歩いて行った。
 間もなくその建物へとやってくる。どうやら廃工場のようだ。人の気配はないが、入り口のところで火がくべてある。誰かいるというサインだ。
 一家は工場の敷地へ入っていくが……。トラップだ! 鳴子が騒々しく鳴り響く!
 奴が現れる。唸り声が聞こえた。 「走って!」イブリンが叫んだ。一家が走る。が、息子のマーカスが悲鳴を上げて倒れた。トラバサミだ。足をがっちり挟まれてしまった。
 そうこうしている間に、あの怪物が姿を現す。リーガンが怪物にハウリング音を聞かせて、その間にイヴリンがショットガンでトドメを刺す。
 1匹を仕留めたが、次が来る。一家は工場の中に逃げ込んだ。
 工場の中にいたのは1人だけ。一家の友人だったエメットだった。しかしエメットは長い籠城生活で家族の全員を喪っていたし、食料も水も尽きかけ。生き残ろうという意欲を失っていた。


 ここまでが25分。

 軽いツッコミどころだけど、アボット一家は全員裸足で生活しているし、移動する時も裸足。家の外から街までずーっとサラサラの砂をまいていて、その上を裸足で移動していた。あの怪物は足音にすら反応する。とことん気を遣いながらの生活だった。中盤、駅のシーンがあるが、プラットフォームにハイヒールがやたらと投げ捨てられている。ハイヒールは音が出てしまうから、真っ先に脱ぎ捨てられたのだ。
 とにかくも、怪物は音に異常なほど敏感。靴音もNG。……のはずだったのだけど、エメットは普通に靴を履いている。靴音、大丈夫だったのか! だったらアボット一家も靴履いててもよかったんじゃ……。ずっと裸足なのが気になる。地面の突起物を見る度に、怖くなってしまう。

 本編の話に入る前に、作品について。
 神話や民話の世界には「タブー」というものがある。「見るなのタブー」「話すなのタブー」「食べるなのタブー」……パターンは様々だが、そのタブーを犯してしまったことにより、何かしらの祟りが下る……こういったタイプの物語パターンがある。
 見るなのタブーといえば『日本神話』ではイザナミがイザナギを追って黄泉の世界を訪れた時、見るなと言われたのにイザナギの姿を見てしまったことによって襲われてしまう。『ギリシャ神話』では冥界まで妻を探しに行ったオルフェウスは、「地上に戻るまで決して振り返るな」と言われていたが、しかし振り返ってしまったために妻を喪ってしまう。他にも、昔話の『鶴の恩返し』も「見るなのタブー」に分類されるお話である。
 食べるなのタブーは黄泉戸喫の物語などがそれ。話すなのタブーは『ファイトクラブ』が思い浮かぶが、他はちょっと思い出せない。禁忌にされていたことを話したことによって災難が降りかかるお話のパターンは、きっとたくさんあったはずだ。
 こうしたタブーのお話は古くから民話、神話の間で語られ、それが現代のエンタメの中に残り、特にホラー映画の中で色濃く残ることになる(ホラーは民族観が強く反映されやすいジャンルだ)。
 本作の場合は「音を出すなのタブー」。「音を出すな」……は色んな映画の中で「ある局面」で緊張感を高める為に少しずつ採用されていたタブーだったが、『クワイエット・プレイス』のように全体のテーマにすらなっている作品はこれが初めてのはず。なるほど、その手があったか、と感心するアイデアだ。

 それで、この作品に出てくる怪物だが、ちょっと変な存在なんだ。というのも、音を立てると“どこからともなく”突如現れる。いったいどこにいたんだ? 音を出して、その直後に現れるくらいだから、もしかしたら近くを歩いていたんじゃないか……一つ向こうの通りを歩いていたんじゃないか、という気がする。でも映画を観ていると、音を立てていない時は絶対に姿を現さない。
 アボット一家は、移動する時、大通りを堂々と歩いて進んでいたが、その最中で怪物に遭遇することはなかった。音を立てなければ遭遇することはない……というのは、逆に変な話だ。私だったら路地裏をコソコソと移動するけれど、アボット一家はそういう行動は取ってない。「音さえ立てなければ大丈夫」……という安心感が彼らにはあったのだ。
 それに、モンスターの行動も実はおかしい。モンスターは人に襲いかかるのだけど、その理由が特にない。もしも『エイリアン』だったら繁殖のために卵を産み付ける……という動機を持っている。『プレデター』は戦士だから、強そうな奴を見かけて、腕試しで挑戦している……という理由がある。『クワイエット・プレイス』の怪物には、人に襲いかかるだけの理由がない。
 これはなんなのかというと、あの怪物は“生物学的な存在”というより“オバケ”の類いだということ。音を立てたら出現するオバケ。タブーさえ犯さなければ出現することのない、オバケ的存在。現代的な“モンスターホラー”というよりも、古色蒼然とした怪談話的な存在のほうが近い。
 実は設定も変で、あの怪物が出現して、それから間もなくアメリカの社会が完全崩壊してしまっている。その過程で何が起きたのか。軍隊はどうしたのか? 政治も崩壊したのか? そうした説明はさっと省いて、とある一家のお話が始まっている。
 とりあえずシチュエーションありき。こういうシチュエーションがあって、さてどうするか……という作り方になっている。

 その怪物のデザインだけど、これが非常に優秀。まず怪物は、皮膚が非常に硬くて、ショットガンで撃ってもはじき返してしまう。近代兵器が通用しない。頭部全体が“耳”になっていて、音を聞く時は頭部全体のパーツが開いて、音がする方向に(集音するように)パーツを傾けていたりする。“聴覚が異常なほど優れている”という設定に合わせた生態になっている。
 この怪物には唯一の弱点があって、補聴器にマイクを近付けた時に発生するハウリングのような音を聞くと、ショック状態になって硬直する。頭のパーツがパッと開いて、この瞬間だけ武器での攻撃が通用する。聴覚が異常なほど鋭敏だからこそ、実はそこに弱点がある……というこの設定もうまい。
(“唯一”じゃなかったね。“泳げない”という弱点も、今作で判明する)
 人間の想像力は、実はさほど大したことがない。人間は古くから様々なモンスターを生み出してきたが、それは自然にすでにあるものを巨大化させたり、複数の動物を合体させてキメラにしたり……。よくよく考えると、そこまでイマジナリー豊かなモンスターなんてものは歴史を振り返ってもそんなに描いてきていなかった。
 人間は何かを想像する時、必ず足がかりとするものを必要とする。何もないところで、突如すばらしいひらめきに恵まれる……なんてことは絶対にない。
 もしも、なんの手がかりもなしの自身のひらめきだけに頼って「なにかすごいモンスターを創造しよう」……なんてやっても、良いものが生まれることは決してない。人間はそこまで想像力豊かではない。どこかで見たようなありきたりなものが生まれるだけ。例えば『バットマンVSスーパーマン』という映画には、ラストシーンに入ってある怪物が出現するのだけど、「どっかで見たなぁ……」という感じのデザインだった。なんの前提もおかずに、「とにかく強そうなモンスターだ!」でアイデアを練ろうとしても、そこで突然変異的なひらめきが出てくるわけはないのである。
 では、どうすれば「今までにないモンスター」を考案できるのか……というと、何かしらの「性質」「特徴」から考えて作ったほうがいい。
 例えば1979年に制作された『エイリアン』。この映画に出てくるモンスター・エイリアンは血液が酸になっていた。これは「何か凄そうな物を作るぜ!」という勢いから生まれたものではなく、「どうやったら拳銃をNGにできるか」を考えた結果だった。モンスターが出てきた? じゃあ銃をバンバン撃って倒せばいいよ……じゃなくて、銃を撃ってはならないようにしたい。そこで銃で撃つと酸性の血液が噴き出して、宇宙船に穴が開いてしまう。穴が開くと空気が漏れてしまう。そうするとエイリアンという化け物がいるのに、銃で撃って撃退ができない……という緊張感が生まれる。
(「血液が酸」という特徴と「宇宙船」というシチュエーション、どっちが先だったかはわからないのだが……。たぶん「血液は酸にしよう」の後に、「じゃあ宇宙船にしよう」というアイデアが生まれたんじゃないだろうか)
 まず前提から考えたほうがいい。『クワイエット・プレイス』の場合、まず「銃は通用しない」……じゃあ皮膚をやたらと硬くしよう。「音を立ててはならない」というシチュエーションにしたい……じゃあやたらと聴覚が高い設定にしよう。ではこのモンスターに襲われないために、どうするか。日常生活の中で、絶対に音を立てずに済ませられない、普遍的なものってなんだろう……そうだ出産だ! こういう前提を置いて、デザインを練り込むと、今まで誰も見たことがないモンスターができあがるし、それに付随したストーリーも自ずと生まれてくるものなのである。
 新しいものを作りたいのであれば、「前提」あるいは「設定」に何を置くか……から考えたほうがよく、『クワイエット・プレイス』はそこからしっかり練り込まれている。モンスター映画として正しく、きちんと作られた作品だ。

 『クワイエット・プレイス』の印象はクラシックだ。「最初のエイリアン」とか「最初のプレデター」を見た時の印象に近い。古き良きモンスター映画の風合いが本作に息づいている。
 その続編だけど、続編になるとハリウッドの悪習で、初期の制作メンバーが外され、利益追求主義でフランチャイズ化してしまう。それが本作『クワイエット・プレイス パート2』はどうかというと、完全なる「続きのお話」。「続編」というより「続き」。続編だからといってやたらと死ぬ人の数が増えたり、新種のモンスターが出現したり……ということもない。あのお話の「続き」がどうなるか……をきちんと描いた作品になっている。制作スタッフもほとんど前作から続投。脚本も監督も同じ人。
 これが嬉しいところで、ハリウッド的な因習に囚われていない、ごく当たり前の映画の作り方で続編を作ってくれている。最初の25分くらいでそれがわかる内容になっているので、安心して観ることができる。

 さて、そろそろストーリーを見てみよう。
 最初の10分ほど、あの怪物が出現する切っ掛けがプロローグとして描かれる。これが第1作目の時に描けていたらなぁ……。
 野球場でみんな思うさま声を張り上げて「頑張れー!」と叫んでいたところ、ふと何かが飛来してくるのが見える。みんな無言になって球場から解散しはじめる。この辺りの描写がやたらとリアル。プロデューサーの1人にマイケル・ベイがいて、そのマイケル・ベイ監督だったら隕石落下の瞬間を捕らえて派手な画面構成にするところだけど、本作の場合、遠いところで落下の様子をただただ見ている。空気が破裂する音が、雷のように聞こえている。それを目撃して、全員が沈黙してしまうまでの展開が、やたらとリアル。
 この野球場の前の、薬局のシーンだが、テレビで何かが起きた様子を見ている。これは落ちてきたのは1カ所だけじゃない……ということだろう。あの隕石だけに怪物がいたのなら、街にやってくるまでもっと時間がかかるはずだし、それにまだ隕石は落下していない。

 とにかくも街に怪物達がやってきて、さあ大変だ!
 ……というところで474日後へ。監督のリー・アボットの出演はここまで。
 お話は第1作目の直後から始まる。しばらく家の周囲にいたアボット一家だったが、山を一つ越えた向こうに、合図となる炎を掲げている家があることに気付く。そこを目指して歩こう……ということになる。
 お母さんのイヴリン・アボットは、前作で足を派手に負傷したはずだが、包帯をちょっと巻いただけで平気で歩いている。ここは……スルーしましょう。
 サラサラの砂がまかれている範囲から出て……つまりアボット一家が400数日ずっといた場所から離れて、未知の場所へと向かっていく。
 やってくる場所は廃工場のようだけど……。ここで長男マーカスがトラバサミで足を挟まれてしまう。痛々しい。
 マーカスが足をやられる……ということはまず自由に動き回れなくなる。何かあった時に走って逃げられなくなる。それに、残される家族が女だけ。いざという時の男手がなくなる。さらに精神的にも、マーカスは足を負傷したことによって制約が生まれてしまう。アボット一家に不利な条件がいくつも重なっていく。

 ようやくやってきた工場で、出会ったのがエメット。プロローグの野球場のシーンで、リー・アボットの後ろに座って、話しかけてきたあの男だ。エメットは400日にわたる籠城の果てに妻も子供も亡くしていて、食料も水も尽きる寸前。生きる気力を失っていた。拠点となっているところのテーブルには、死んだ息子の絵が一杯。息子の死を乗り越えられていない様子が描かれている。
 そのエメットが、生まれたばかりの赤ちゃんの姿を見て、ハッとする。
 この状況下で赤ちゃんの存在は厄介だけど、未来への希望でもある。赤ちゃんを守り通せば、こんな状況下でも子孫を残せていける証明になる。それに、息子を喪ったエメットにとって、赤ちゃんの姿に息子の影を見てしまう。
 しかし、エメットの無気力状態はそれでも解消されないのだった。

 続きのストーリーを見ていこう。


 エメットと合流したアボット一家だったが、エメット一家はすでに全滅。水も食料も尽きかけ。どうにもならない状態だった。
 そんな最中、マーカスはラジオから音楽が流れてくるのを聞く。「ビヨンド・ザ・シー」だ。4ヶ月も前から何度も繰り返し流れていた……という。しかしアボット一家は低地に住んでいたからラジオの音を受信できず、音楽のことに気付かなかったのだ。
 その夜、長女リーガンはマーカスに、この音楽が流れてくる場所へ行こう、と提案する。放送局を調べると、その場所から一日ほど歩いた場所だ。頑張れば行ける。まだ音楽を流せるラジオ局へ行き、ハウリング音を一斉に流せば、みんなを助けられる……。
 しかしマーカスはリーガンの提案は「無茶だ」と乗らないのだった。
 翌日、リーガンはたった1人でラジオ局を目指して歩いて行く。リーガンが行ってしまったことに気付いて、イヴリンはエメットに「連れ帰ってきて。お願い」と懇願するのだった。
 リーガンを連れ戻しに行ったエメットは「今ならみんなを救える」という言葉に突き動かされ、同行することに。拠点に留まったイヴリンだったが、酸素ボンベの空気が尽きかけていることに気付いて、そこを離れて薬局へ行くことに。マーカスが赤ちゃんと二人きりになって拠点に留まるのだった……。


 ここまでが50分くらい。
 登場人物がそれぞれの場所へ分かれて、後半に向けた布石がこの段階で作られている。伏線提示もここまで。さて、ここからどうなる……が本作の見所となる。

 シチュエーション作りがやっぱり秀逸な作品で、山を登ってきた工場にやってきて、一家はラジオから「ビヨンド・ザ・シー」が流れてくるのを聞く。アボット一家の家は低地だから、ラジオの音を受信できなかった……これも後付け設定だけど、ちゃんと矛盾しないように作られている。

 「ビヨンド・ザ・シー」を聞いて、リーガンはマーカスに「行こう」と誘う。
 リーガンは自分が身につけていた補聴器で怪物を撃破できた……という成功体験がある。それがリーガンの意欲になっている。一方のマーカスは、父親が死んだ場面を目撃し、消極的に考える癖がついてしまっている。それ以前に、足を負傷していて外を出回ることはできない。マーカスには身体的、心情的にリーガンと一緒に行けない理由があった。
 エメットも一家を喪って悲しみに暮れている最中で、リーガンのように意欲的ではない。が、リーガンに「奥さんを救えなかった。けど、今ならみんなを救える」と諭され、ハッとする。妻と息子を喪ったけれども、リーガンとともに行動することで、弔いになるかも知れない……と気付かされる。ここでようやくエメットの感情も動き出す。

 一方、拠点に残ったイヴリン、マーカス、赤ちゃん。赤ちゃんが泣くたびに酸素ボンベを被せて箱の中に入れていたのだけど、その酸素ボンベが残りわずかしかないことに気付く。イブリンはマーカスを残して拠点を離れていくのだけど……。
 ここで伏線提示は終了。さあどうなる……というのが後半戦。ここからが最も楽しい展開が待ち受けている。

 本作の感想文はここまで。
 第1作目はアボット一家とその周辺しか描かれなかった。音を出したらその直後に出現する……というオバケがいるという状態で、お母さんが出産間近という状況……。家族総出で「音を出さずに出産」という無理ゲーに挑戦する……というのが第1作目。
 第2作目はそこから外の世界に出る。街もどうやら怪物によって壊滅したけれど、その外の世界はどうなっているのか。みんなはどうしているのか……。それを描いた2作目だけど、どうやら「フランチャイズ化」する気は一切なく、この最悪の状況が収束する切っ掛けまでが描かれている。
 感想文の途中にも書いたけれども、この映画はモンスター映画のクラシック。最初の『エイリアン』や最初の『プレデター』はこうだったよなぁ……というのを思い出させてくれる。ああいったシンプルな驚きや恐怖のあるモンスター映画は、もう作られないのかな、と思っていたところに、『クワイエット・プレイス』。古き良き懐かしき映画の現代アップデート版。
 その続編だけど、いわゆるな「続編映画」ではない。続編にありきたりな、とりあえず犠牲者一杯増やして、モンスターの新種を登場させて、大味な内容に……というのではなく、シンプルに「続きの話」。はっきりいえば、続編として「進化」した要素というものはない。飽くまでも「続きの話」。これが『エイリアン』や『プレデター』といった映画でやらなかったこと。色んな意味で、見ていて嬉しくなる1本だった。
 これもある種、ハリウッドが過去の失敗から学んできたことの結果なのかも知れない。素晴らしいアイデアに満たされた映画も、続編、その続編が作られるごとにどんどんつまらなくなっていく。まるですり切れたビデオを見るかのように、精彩さをなくしてくる。評判も興行収入も落ちていく。こんなだったら、続編なんか作られなければいいのに……。
(作品の権利というのは映画会社が持っている。だからその映画会社が利益追求のためだけに大ヒット映画の続編を作るのは当然。その時に、オリジナルを作ったスタッフは必ずしも必要ではない……というのが映画会社の考え方。会社経営やっている人間が「作り手」じゃないから起きてしまうジレンマだ。「経営者判断」だから、「大ヒットしたやつと同じやつ作れば、同じくらい儲かるだろう」……というふうに考えがちになってしまう。)  そういうハリウッドの歴史を振り返ってみると、『クワイエット・プレイス パート2』は理想的な続編。余計なことはせず、ただただ「続きの話」を描いてくれた。
 続編としての進化した部分は確かにない。でも、あの面白かった第1作目がきちんと継承されている、ということを確かめられたことが嬉しい。

 ところで、第2作目でこのシリーズは完結かな……。と思ったのだが、Wikipediaを確かめてみると第3作目が準備中らしく……。どんなお話になるのだろう?


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とらつぐみ
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