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映画感想 ファンタスティック・ビースト3 ダンブルドアの秘密

 迷走の『ファンタスティック・ビースト』シリーズ復活なるか?

 前回から引き続き『ファンタスティック・ビースト』シリーズ3作目視聴。本作は2022年4月公開作品だから、ちょうど1年前の映画。『ファンタスティック・ビースト』シリーズは当初「3部作」の計画でスタートしたが、2016年「5部作」構成であることが改めて発表になり、しかもその全シリーズをデビッド・イェーツが監督することも併せて発表された。
 ただ問題なのは本作の評価。シリーズ3作目の世界興行収入は4億ドル。前作が6億5400万ドルで、これでもシリーズ最低の成績だったが、それを上回る最低成績を出してしまった。
 映画批評集積サイトRotten Tomatoesによる評価は肯定評価が46%、10点満点中5.4。前作が36%だったから、だいぶ持ち直したといえる。ちなみにMetacriticでは100点満点中47点。前作が52点。47点という評価はシリーズ最低の評価である。評価自体は取り戻したが、前作で去って行った観客を映画館に引き戻すことはできなかった。
 シリーズの存続は今作の評価と利益をどれだけ出せたかに関わってくる……という話だが、前作と今作の不評によって危険信号が出てしまっている。『ファンタスティック・ビースト』シリーズがこの後も続くかどうかは、まだなにも発表が出ていない。

 もう一つ、世間的にも大事件になったから知っている人も多いが、ジョニー・デップはグリンデルバルド役を降ろされている。理由はご存じの通り、元・妻のアンバー・ハードへの暴力が発覚したからだ。
 この一件についてもう周知のことだと思われるが、この離婚騒動は、裁判の過程でアンバー・ハード側の証言や証拠品がことごとく捏造であることが発覚し、DVそのものが「嘘の証言による捏造」と結論づけられた。
 ジョニー・デップの潔白が証明されたわけだが、この間にジョニー・デップの出演予定だった映画は全てキャンセル、企画も頓挫。コンプライアンスを重視する映画会社はアンバー・ハードの証言を信じて、業界的に「ジョニー・デップ外し」を推し進めていた(2020年、2021年は業界から干されていたので、ほぼ仕事はなし……だった)。
 そういう理由で本作のグリンデルバルドもマッツ・ミケルセンが代役を演じることとなったわけだが……ジョニー・デップは申し訳ないが、グリンデルバルド役はマッツ・ミケルセンのほうがハマってた。悪役としての存在感、セクシーさはマッツ・ミケルセンのほうが出ている。演者が変わったのは怪我の功名だった。
 ただ、魔法世界を舞台にしているのだから、「魔法で姿を変えた」……みたいな設定を作っていてもよかったのに。グリンデルバルドは魔法世界であまりにも顔が知られすぎているから、姿を変えた……という設定を足しても、この世界観であれば通用しただろうに。あまりにも違う人物に変わっているのに、さも前からいましたけど……みたいに表現するのもどうかと。

 では、本編のあらすじを。


 1932年。ニュートは中国の桂林を訪ねていた。桂林の山深いところに、未来を見通すことのできる魔法生物・麒麟が生息していたからだ。その新しい命が生み出されるとき、魔法界も新たな指導者が現れるときだという……。ニュートはその麒麟の出産を察知し、桂林にやってきていた。
 ニュートが山奥へと入っていくと、麒麟はまさしく出産の最中……。ニュートは出産を手伝い、新しく生まれてきた子供を抱き上げる。
 そこにグリンデルバルドの手先がやって来た。魔法使い達は母麒麟を殺し、麒麟の子供を奪おうとする。ニュートは魔法使い達と戦うが、敗北し、子供も奪われてしまう。
 落胆して母親麒麟の側に戻るニュートだが、そこにもう1匹の麒麟を見付ける。生まれてきたのは双子だったのだ。ニュートは麒麟の子供を引き受けて、桂林を去って行く。

 その後ニュートは兄・テセウスを連れてホグワーツの近くにある宿へ向かう。そこでダンブルドアと会う。
 ダンブルドアは《血の誓い》のためにグリンデルバルドと戦えない……ということを明かす。かつてダンブルドアとグリンデルバルドとは恋仲だった。その時、お互いを裏切らないように、と《血の誓い》を結んだのだった。その魔力によってお互いに戦うことができないのだという。
 グリンデルバルドは世界を崩壊させようとしている。しかしダンブルドアはグリンデルバルドと《血の誓い》ゆえに「戦う」という意思すら持つことができない。だからテセウスに改めて協力して欲しい……と要請する。

 イギリスでパン屋の仕事に戻っていたジェイコブを引き戻し、名門魔法族ユスフ・カーマ、闇祓いの教師ユーラリー・ヒックス、助手バンディ・ブロードエーカーを仲間に引き入れて、列車の中で合流する。
 これからグリンデルバルドと戦わねばならないが、彼は未来予知の能力を持っている。こちらがすることを、グリンデルバルドはすべて察知する。だから行き当たりばったりの波状攻撃……という作戦を展開させることに。作戦の全体像を誰も知らない。
 ダンブルドアからそれぞれにマジックアイテムが配られるが、それらがどんな効力を持っているか、知らされていない。ジェイコブにはスネーク・ウッドと呼ばれる杖を。テセウスにはネクタイ。バンディにはなにかが書かれたメモ……。
 列車は間もなくベルリンへと入っていく。一同はそれぞれの目的を持って別れるのだった。


 ここまでのお話しで前半34分。

 まずはこのお話。

 サブタイトルが「ダンブルドアの秘密」となっているが、最初に明かされるのが、ダンブルドアが同性愛者だったこと。グリンデルバルドと恋仲だった。この設定は、最近の「ポリティカル・コネクトネス」によって付け足された……と思い込んでいる人が多いが、ダンブルドアの同性愛設定は初期の頃からあった。
 もう何年も前になるが、原作者J・K・ローリングに密着取材したドキュメンタリーを見ていたのだが、その中でもはっきりと「ダンブルドアは同性愛者」と明言していた。
 すると最近のニュースなどを見て「J・K・ローリングは反LGBTではないのか?」と思う人もいるだろう。そのように報じているメディアもあるが、これも誤りで、J・K・ローリングは同性愛者に対しては別に反対の立場を取っていない。ただ「トランスジェンダーだけは絶対許さない」という立場なのだ。
 これにもどうやら明確な理由があるようだが、しかしメディアで報道される時は「バッシングの対象」として報じられるだけ。「トランスジェンダーは許されない」という発言だけが切り取られ、LGBT界隈の活動家から猛烈なバッシングが始まってしまい、誰も冷静な立場で「なぜ?」を問わない。
 まず「理由を尋ねる」が最初にあるべきじゃないのか……という気がするが、海外のマスメディアは誰もこれをやらない。それどころかJ・K・ローリングをメディアの世界から追放する……ということをやってしまい、とうとう謎のまま。理由を含めて闇に葬ってしまった。
 どんな理由があったとしても、そういう物事に対する「好きか・嫌いか」という話は「内心の自由」なので、それを「ポリコレに反するから許さない」……という感覚に陥っている今の時代もどうかという気もするのだが……。炎上しそうだから、これくらいにしておこう。

 「ダンブルドアの秘密」が示しているのはもちろんアルバス・ダンブルドアだけではなく、ダンブルドア家そのものにも絡んできている。それはこの後のお話し。

 前作が1927年で今作が1932年なので、5年の歳月が流れている。そういうわけで、登場人物達の容姿が少し変わっている。

 こちらが『ファンタスティック・ビースト』2作目のクイニー。

 こちらが本作のクイニー。髪の色はシルバーに近くなり、衣装は黒系統。前作よりもメイクも衣装もバッチリ決まっている。あと、なんでこんなに目を開いてるんだろう……。
 不思議なことに、エンタメの世界では「悪の組織」の側になると衣装もメイクもバッチリ決めてくるようになる。悪には「セクシー」のイメージがあって、もともと正義の側にいる人も、悪に染まるとなぜか格好よく、あるいはセクシーになる。悪い奴ほど、その界隈でカリスマにならねばならない。

 クリーデンスは……おっと垢抜けたね。悪の組織はファッションセンスを磨く場としていいかも知れない。

 舞台は1932年のドイツ。国際魔法使い連盟の最大権力者である「上級魔法使い」も交代の時が迫っていた。候補者は2人。リウ・タオか、ヴィセンシア・サントスか。現リーダーであるアントン・フォーゲルは「平和的な権力の移行こそ、文明の証である」と語るが……。
 1932年のドイツ。そこにグリンデルバルドという魔法界のテロリストがリーダー候補者として割り込んできて、しかも熱狂的に迎えられる……。言うまでもなく、ヒトラー率いる「ナチス党」がモチーフになっている。1932年といえばドイツでナチス党が飛躍的に議席数を獲得した年で、その当時はドイツ国民もヒトラーの本性を見抜けず、熱狂的に支持していた。現実のナチス政権樹立と話を重ね合わせている。

 そもそもグリンデルバルドは何をしたいのか? どうしてグリンデルバルドはこんなに熱狂的に支持されているのか?
 グリンデルバルドはこれまでのお話しの中で、マグルへの差別的視線、魔法族の優位性について語ってきた。今回の冒頭でも、ダンブルドアとの対話の中で「匂うだろ、この悪臭。こんな獣たちのために同胞を裏切るのか」と語っている。魔法使い達の中には、「どうして自分たち魔法使いのほうが優れているのに、隠れていなければならないんだ」という考えを持つ者もいて、そういう人たちがグリンデルバルドに共鳴している。
 背景に何があるのか……たぶん「魔女狩り」だろう。日本は魔女や魔術に対する忌避感がなくてこのあたりのテーマは見落としやすいが、ヨーロッパにはかつて魔女狩りというものがあって、魔法使いが弾圧の対象だった。現代でもその片鱗は残っていて、カトリック教会は『ハリー・ポッター』シリーズを好ましく思っていない。
 日本は魔女の迫害の歴史なんてないから、カジュアルにアニメの中で女の子が魔力を行使する作品が放送されていたりする。これは西洋人から見ると奇異な光景で、例えば『セーラームーン』について、一般マスコミなどは「海外でもセーラームーンは人気」という陽の当たったところばかり取り上げるが、実は一方で「魔女賛美のアニメをやっているのはけしからん!」という意見もあって、「親からセーラームーンは見てはいけない」と言われた子供たちも結構いた。
 魔女や魔術に対する不信感は西洋世界に潜在的に残っていて、それが現代においても「魔法使いの存在は人間社会に知られてはいかん!」……ハリー・ポッターが活躍する20世紀頃になるとそこまで魔術に対する恐怖感は薄れているのだけど、「習慣」として残ってしまったんだろう。
 そういう背景があるから、魔法界は規律を重んじるようになり、「平和的な権力の移行こそ、文明の証である」と語っていたのだろう。
 現実世界で真っ当な仕事に就けず、魔法世界でも下っ端……そういう自己の「プライドを奪われた」と感じているような人は、その状況を強力に変えてくれそうな指導者が現れると、熱烈に支持しやすくなる。ちょうど1930年代のドイツは先の戦争で敗北し、しかも経済破綻を起こし「民族としてのプライド」を奪われていたと感じていた頃で、そういう時代だからヒトラーという狂人を熱烈に支持してしまった。「ヒトラーなら強いドイツを取り戻してくれる!」……そう信じられていた。
 魔法使い達のそういう立場と、現実のドイツを重ね合わせて描かれている。

 さてダンブルドアについてだ。
 学生時代の頃、ダンブルドアは実はグリンデルバルドと同じく過激思想を持っていた。この理由についてだけど……たぶんダンブルドアが同性愛者だったからじゃないかな。
 というのもこの時代、同性愛は国によっては「法律違反」。発覚したら逮捕されるし、矯正として入院させられる場合もあった。同性愛は「精神異常の一種」と見られ、“治療”可能だと思われていた。
 ダンブルドアは同性愛が違法……という時代の認識を変えたいと思ったのではないか。そこでグリンデルバルドと共鳴していたのではないか。台詞の中にもこうある。
「君に賛同した理由は……君を愛していたからだ」
 ダンブルドアはグリンデルバルドに恋していた。でも同性愛は違法の世界なので、この恋が実らないから、グリンデルバルドの思想に共鳴していたのではないか。
 ……というこの部分は特に作中でも言及されていないので、私の想像に過ぎないが。

 グリンデルバルドが勢力を伸ばそうとしている……。ニュートは魔法使い連盟の現指導者であるアントン・フォーゲルのところへ行き、「正しき道を選べ。楽な道を選ぶな」と忠告を伝える。
 フォーゲルはすぐに忠告がダンブルドアのものだと察し「彼が来ているのか」とやや緊張気味な声で言うが、次に「来ているわけないか」と声のトーンが大きくなっている。フォーゲルもダンブルドアが怖いのだ。しかし「いや、来ているわけないか」と考え直し、すると急に態度が大きくなっている。

 フォーゲルがすでにグリンデルバルドに買収されたか、あるいは思想に共鳴していたかわからないが、「楽な道」……つまりポピュリズム的な道を選ぶようになる。人々の反対を押し切って、時代のために「正しいこと」をするのではなく、一般大衆が望んでいるものに迎合しよう……それが間違っていたとしても。正しいことをして反発されるのはしんどい。フォーゲルはそういう意味で楽な道を選択してしまう。
 大多数の民衆が求めているのだから、その求めているものの通り政治を運営することは正しい……一見するとこれは正しく見えてしまう。しかし実は正しくない。民衆の視点では「見えていないもの」というものはたくさんある。そういうときに、しんどい思いをしてでも「民衆のため」に行動するのが指導者の在り方だ。「民衆迎合」は「安易な道」でしかない。
 ダンブルドアが近くにいたら、この人もどう行動したのかな……?

 ところでこのシーンの背景画が凄い。これは一介の美術スタッフが描いたようなものではないはずだ。たぶん名のある人がこのシーンのために書き下ろしたんじゃないかと思うが……。

 本編の解説はここまで。ここから今作の感想。
 前作は内容がグチャグチャだったので「え? どういうこと?」となったけど、今回のお話しはシンプルにまとまっている。登場人物は最初の30分ほどでほぼ登場していて、それ以降は「ダンブルドアチームVSグリンデルバルド軍団」という構図を追いかけて見ればいい。シンプルで見やすいストーリーだ。ここでわざわざ細かい解説など付ける必要のないくらいにシンプル。
 ただ……ちょっと長い。2時間20分。シーンの作りはいいし、ドラマにも抑揚があっていいのだけど、エピソードの密度に対し、微妙に長く感じる。といっても冗長というのではない。個々のシーンで微妙な間延びを感じる。この内容ならもう少し尺を刈り込んでもよかったのではないか……という気がする。
 『ハリー・ポッター』シリーズは後半にかけてどんでん返しがある場合が多い。「魔法世界」が題材になっていて、物語の展開にやや捻りがあるから、題材と物語構造が合っている。今作では未来予知ができる敵に対し、「誰も全貌がわからない」……という作戦で挑むのだけど……簡単にオチが予想できてしまう。「つまり、こういうことでしょ」と思ったとおりの結末で、なんとなく拍子抜け。未来予知ができるグリンデルバルドがなぜ見抜けなかったのか……と不思議に感じる。
 副題になっている「ダンブルドアの秘密」だが……今作にはダンブルドアが3人登場するのだけど、そこまで驚くような秘密が開示されるわけではない。ドラマもどこかとってつけたような感じというか……人を感動させるために無理矢理そういう展開にした、という感じが出てしまっている。ああいう結末に至るまでの理屈がつめられていない。理屈がないから、わざとらしいものに見えてしまう。

 前作の失敗はきちんと反映されている。エンタメとして見やすい映画になっている。画作りもいい。それなりにしっかり作られた映画だ。デビッド・イェーツ監督は相変わらずいい仕事をする。
 でも細かいところで「あれ?」という感じが残る。といっても、「致命的なミスを犯している」というものではない。もっと細かいところで「ん?」というのがチラホラ。それが積み重なって、やや微妙な後味になっている。個々のエピソードが最後にドラマを作る……という感じになっておらず、微妙な読後感。
 ここまでクオリティを引き上げてきたのだから、あともう一踏ん張りだ。惜しいところで最後の一段を踏み外した……そんな感じの映画だ。

 うるさい人が見るとこういう話になるが、普通に映画を観て楽しむ……というぶんには問題ない作品。人に聞かれたら「なかなかいい映画だったよ」とは答える。しかし前作の失敗を引きずってしまったのが惜しい。前作の失敗がなければ、普通にヒットした映画だったはずなのに……。


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とらつぐみ
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