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映画感想 26世紀青年

この映画の視聴方法

 異例だけど、まずこの映画を視聴する方法について。
 というのも、この映画は日本で劇場公開されておらず、ビデオ販売もされていない。DVDを探そうとしても出てくるのはレンタル落ちDVDだけ(DVD販売はやっていたらしい?)。
 それではどうやって『26世紀青年』という作品を見るのかというと、現状はAmazon Prime Videoのみ。Netflixで探してみたけどなかった。他の配信サイトは探していない。探してみれば見つかるかも知れない。
 完全なる“掘り出し物映画”なので、見られる場所はかなり限定されてしまう。それでも視聴可能なのがいい時代だ。

あらすじ

26世紀青年 予告編

※ なんとYouTube探しても公式の予告編がありませんでした……。

 “掘り出し物映画”なので、おそらく存在すら知らなかった、という人がほとんだと思われるので、まずストーリー紹介から。


 まず映画には2組の夫婦が紹介される。
 1組目はIQの高い夫婦。映像はなにかのインタビュー番組風の画面。
「結婚したけれども、難しい時代だから、子供は諦めようか……」


 次なる夫婦は、IQの低い夫婦。
「また生まれちまった!」「何人目だ!」「アンタお隣の女ともヤッたの!」
 と次から次へと子供が生まれてくる。

 IQの高い夫婦からほとんど子供が生まれず、一方IQの低い夫婦からは次から次へと子供が生まれてきてしまう。そんなことをおよそ500年も続けてしまった結果――地上には馬鹿しかいなくなってしまった。

 そんな時代に主人公はコールドスリープで目覚める。主人公は軍に所属していたごく普通の男……どころか落ちこぼれだったが、馬鹿しかいなくなった未来では「天才だ! 天才だ!」ともてはやされてしまう。
 ところが26世紀の地球は色んな意味で“末期”に近付きつつあった。都市はゴミの山で埋もれ、食料もごく少量しかない。そんな末期を前にしているのに、地球人はあまりにも馬鹿になってしまったので、問題意識を持つことができず、自分たちが危機状態に置かれていることすら気付かず、しょーもないテレビ番組をえんえん見続けるだけだった。

 ……というあらすじを読んでもらえるとわかるように、『26世紀青年』はコメディ映画である。映画の内容も世にもしょーもないお話なのだが、しかし見ていると恐ろしいアイロニーが込められていることに気付く。映画の作者がこのアホらしい映画に込めた“風刺”とはいったいなんだったのか? それを読み解いて見るべき作品だろう。

あり得る未来 読み飛ばし推奨

 ここから映画とは関係ない「雑談」を始めるので、読み飛ばし推奨です。純粋な映画の感想を読みたい人は、次段落まで飛んでください。

 私はこの映画の存在を、とある映画雑誌の隅っこに小さく(2行くらいで)紹介されているのを見付けて「おや? これは??」と探して見たのが切っ掛けだった。
 内容はというと世にもしょーもないSF。地球上には馬鹿しかいなくなる……という絶望的なディストピア。しかし笑っている場合でもない。この映画で描かれていることは、わりと現実にあり得る話だ。

 私はこれまで様々なSFを見てきた。SFといえば科学的な根拠に基づいてシミュレーションされた世界や、あるいはアーティスティックな感性が反映された美意識溢れる世界や、はたまた奇想天外な冒険活劇を作る口実としてのSFであるとか、様々である。だが『26世紀青年』が描いてみせたのは地球上が馬鹿しかいなくなる、という絶望的な未来である。これはある意味で、どんなSFよりも“あり得る未来”を描いているのかも知れない。笑っている場合ではない恐ろしさが込められた作品だ。

 なぜあり得るのかというと、この日本での現状がまさにそれだからだ。日本は1990年代末期にバブルが崩壊して、以降ずっとデフレが続き、いまや「衰退途上国」とまで言われるようになった。成人して仕事についても、かつての終身雇用のような安心はない。大企業にさえ入れば安心……かと思いきや、歴史と伝統ある大企業が次々と傾く事態が起きている。働いても働いても給料は増えず。多くの夫婦が共働きだ。中には体が壊れるまで働かせるブラックな企業も多い。
 恋愛はしているけど、貯金ができないから結婚できない。結婚したけれども子供を作らない。そういう若い世代は非常に多くなった。というかデフレを30年も続けた我が国、そういう現状はすでに“若い世代”だけの問題ではなくなっている。国そのものの問題だ。だというのに政府はデフレの問題に対してなにひとつ解決に向けて動こうとはしない。それどころか、デフレがどんどん悪化するような愚策を取り続けている。
 『26世紀青年』の冒頭シーンにもあったように、IQの高い夫婦ほど「収入も少ないし、不安な情勢だから、子供は控えようか」と慎重考える。当然だ。
 そんな最中でも、迷わず子供を産める夫婦とはどういう夫婦だろうか? 日本ではある時期から、はっきりと「でき婚」が多くなった。“結婚して子供を出産する”という順序ではなく“子供ができたから結婚する”――つまり準備も充分ではない最中に子供を出産してしまうケースも多くなった。そうやって子供を産んでしまう夫婦とはどういう夫婦なのか?

 話を近代文明以前の時代に戻そう。近代文明以前というのは、子供のうちに死んでしまうケースが非常に多かった。そういった時代は、女は多く出産した。一般家庭の話のみならず、貴族階級や王族も出産は多かった。ところが多くの子供は育たずに死んでしまった。極端な話、10人産んで1人しか育たなかった……そういうケースもあった。
 こうした状況下で“育つ子”というのは“頭が良くて強い子”だった。賢くて体も丈夫だから、生き残ることができた。
 従来の自然淘汰の法則性だと、生き残る子供、生き残る世代というのは“賢くて強い子”であり、そういう一族であるはずだった。このあたりは映画『26世紀青年』でも指摘されている話である。強くて賢い一族が次世代を作るはずだから、未来はより良くなっていくはず……だった。
 ところが現代、そして未来の現状においては逆の現象が起きてしまう
 かつての時代では淘汰されるはずの“馬鹿で体も弱い子供”が生き残ってしまう。それくらい医療が発達した時代に来てしまったし、ヒューマニズムの概念が生まれてくる子供の取捨選択など許すはずがない。
 その上でIQの低い夫婦が子供を多く出産するような状況が数百年単位で続くとどうなるか――それをシミュレーションした世界観が『26世紀青年』である。
 この映画のような状況に陥る可能性がある国こそ、我が国、日本である。

 私も実は、以前から思い描いているディストピアの世界がある。それは『26世紀青年』が描いたような馬鹿しかいなくなる未来――これに近いものだった(だから「先を越された!!」というショックがちょっとある)。
 今から100年後の未来を想像してみよう。
 それくらいの時代になると、AIやらロボットが進化して、現代の仕事の多くを代わりにやってもらえるようになる。現代では「仕事が奪われる!」ということばかりクローズアップされるが、実際には「どうでもいいような仕事はしなくてもいい社会」が訪れるだろうと考えている。そういう仕事、よくよく考えてみれば世の中に一杯ある。なくなるのはそういう仕事だ。
 しかし国としては国民の生活を保障しなければならないし、社会としては消費者が必要だから、ベーシックインカムが導入されるはず。もし導入されなかったら、その時は政府が無能だった……という話で、そうなったら遠慮せず国会議事堂に火焔瓶を投げつければよろしい。

 こういう社会が来たとき、「仕事を失う人」というのは要するに「能力のない人」だ。特に才能もなく、知識もなく、技能もなく、おまけに努力もしない。「働く能力がない人」だから仕事を失うわけだ。しかし不安に感じる必要はない。ベーシックインカムがあるので、働かなくても国民なら一定水準の生活ができる。
 そうした時代に働く人、というのは要するに才能があり、知識があり、技能もあり、おまけに努力もする人だ。こういう一握りの人々が、多くの人の生活を支えるために、一生懸命身を粉にして働く。
 現代ではしゃかりき働いている人、というのは底辺・低賃金労働者というイメージだが、未来ではこれが逆転する。しゃかりき働いている人、というのは才能ある人、努力する人、能力ある人、に入れ替わる。“上級国民”が働き、“下級国民”が働かない。そういう逆転が起きる。
(意外な話ではない。中世では貴族階級が一番働き、労働階級は働かず怠けていた。怠け者だから労働階級だった……ともいえる。それが未来世界では違う構図で再現されるだけに過ぎない)
 それで私が思い描いている未来というのは、仕事を持っている人々が上級国民化して、そういう上級国民に対して、働くなった人々が恨みと妬みを持つ社会だ。ただ仕事を持っている、働いている、というだけで一般階級の人々から妬まれ、疎まれ、しまいには刺されることもある……そして上級国民を刺した一般人は英雄扱いされてしまう。

 そうすると困るのは一般階層の人々ではないか? 上級国民が働いているのは一般階層の人々のためではないのか? そう、未来ではそういうことも一般階層の人々は理解できなくなる。考えることができなくなる。想像するだけの知能がない。だから働くことができない。
 これは意外なことでもなんでもなく、現代はナントカウイルスが流行している最中、物流に関わっている仕事をしている人に対して「ウイルスを持ち込むな!」と差別する人々も結構いたとか(ごく一部だと思われるが)。そういう物流が運んでいるものとはみんなの日用品や食料だ。もしも物流の仕事をやっている人を差別して攻撃しまくって、それでヘソ曲げちゃって「お前らの地域には運んでやらない!」みたいな状態になったら、困るのは自分たちだ。そういう想像力ができない人――つまり自分たちが普段消費している“物”や“食料”がどこから運び込まれているか考えたことがない人、がいま当たり前のようにいる。
 自分たちの社会がどのように成り立っているのか知らず、考えたこともない。米や肉や魚がどのように食卓まで運ばれてくるのかわからない。でも蛇口をひねると水が出てくるのは当たり前――そういう世界観が“当たり前”。社会の構造をまったく理解していない人たちがいる。子供みたいに喚いて文句言っても、“与えてもらえる”ことを当然だと思っている人々がいる。
 現代は社会構造が複雑化していき、その内実を理解している人が少なくなったし、どころか考える人も少なくなったが、未来ではより構造が複雑化していく。しかもロボットやAIが代わりに働いてくれるようになるので、それぞれがどのように運営されているか目にする機会すらなくなっていく。すると人々もなぜ蛇口をひねると水が出るのか、など考えなくなる。

 これが私が少し前から描いている未来像。ある種のディストピアだ。
 生活そのものはベーシックインカムによって保証されているけど、心の平安はなく、常に誰かを妬み、攻撃していないと精神の拠り所のない人々で満たされる社会。おかしな話ではなく、今でも成功者を妬み、攻撃することを拠り所にしている人は一杯一杯いる。

 そうした時代に私たちは一歩一歩近付きつつある。その現象の予兆として一つ見るべきは、変な名前の子供が増えた……という事実だ。
 「我が子に変な名前を付けよう!」というキャンペーンを打ち出したのは、電通だ。電通が子供雑誌と共謀してこのキャンペーンを打ち出し、その影響を受けて変な名前を付けた子供が一杯増えた。その当初は変な名前の子供を馬鹿にして、ネットでは「DQNネーム」と呼ばれていた。しかし電通は黙っておらず、「DQNネームじゃなくてキラキラネームと呼ぼう」と世にも頭の悪そうなネーミングを提唱し、驚くことに現在「キラキラネーム」という呼び名は定着してしまった。
 いくら広告会社のキャンペーンとはいえ、その口車に乗って我が子に変な名前を付けちゃうような親とはどういうタイプか……想像するとわかるだろう。IQの低い親だ。また「クリエイティブな感性を持たない大人」という推測もできる。なぜなら「不慣れな者ほど奇をてらう」という言葉があるように、創作の経験がないから奇妙な名前を付けてしまう。普段からクリエイティブな活動をしていれば、かえって変な名前は付けない。
 私の住んでいる地域ではかつて、赤ちゃんが生まれると回覧板で写真と名前が回ってきたものだ。それで生まれてきた赤ちゃんの名前が「アーサー」とか「ジュリエット」とかそういう名前だったから、さすがの私もクラクラきた。もちろんヤンキーが考えそうな漢字を当てて「アーサー」と無理矢理読ませていた。
 アーサーって……ここは本当に日本か?
 あんなものはキラキラネームじゃない。なにがキラキラだ。DQNネームという呼称に戻すべきじゃないだろうか。

 現代人はあたかも自分たち一人一人が優れた能力を持っているかのように錯覚しているところがある。新しいスマートフォンを持っていると、自分の能力がアップデートされたかのように錯覚してしまう。でも優れているのは「道具」であって、自分ではない。ここを勘違いする人が確実に増えている。
 これが未来になっていけばもっと深刻になっていくだろう。政治の問題もAIにお任せすればいいし、個人の悩み事もスマートフォンに「どうすればいいの?」と話しかければ全て一瞬で解決してくれる。未来では一人一人が深く考える必要がなくなる。ある一面では「悩み事のなくなるハッピーな未来」だが、ある一面では人間が物事を考える必要がなくなる世界ともいえる。
 未来の人々はAIに問題を解決してもらって、なのに「自分で考えた」みたいに錯覚していくことだろう。自分なのかAIなのか、その境界も曖昧になってくる。自分の能力が本来どのようなものなのか、そういう発想を持つ人も減っていくことだろう。
 怖いのはそういう状況下から文明のカタストロフが起きたときだ。これはギリシア文明崩壊、ローマ文明崩壊と何度も我々人類が遭遇している事態だ。文明とは採掘・消費される“物”によって成り立ち、その採掘・消費できる“物”がなくなると文明はあっというまに崩壊する。

 ヨーロッパの中世時代はローマ帝国崩壊によって引き起こされたが、人々は鉄器とか青銅とかではなく、石器から文明をやり直す羽目に陥った。文明華やかりし頃に蓄積されてきた知識や技術は、文明崩壊後の世界ではなに一つ役に立たなかったのだ。
 現代の学者が一致して語っていることは、次なるカタストロフはギリシアやローマといった一部地域だけではなく、地球規模で起きる。その時の対策を、私たちは何もしていない。もしもそんなカタストロフが来たとき、そんな時代を生き抜くための知恵も力も私たちは身につけていない。何の役に立たない知識や技能ばかり身につけてしまっているのが現代人だ。
 文明カタストロフの話は極端であるにしても、ロボットやAI技術が発展した未来、「なんで勉強する必要があるの?」というこれに答えを見つけられない人々は増えていくだろう。機械が便利すぎて「もう勉強する必要も体を鍛える必要もない」と努力を放棄してしまう。こうして自分たちの能力や感性が衰えていっていることに気付かない。なぜならサポートしてくれるロボットが優秀すぎるからだ。こういうのが個人の問題ではなく、地域や社会、さらには国家単位で起きていく。

 SFの描かれがちな未来像にははっきり2系統あり、現代のような消費社会が数百年後も続き、相変わらず文明世界の中を謳歌し続ける無邪気な未来像。もう一つは天然資源が枯渇して新しい物を作り出すことができず、過去に作られた物を再利用してどうにかこうにか人類が生き延びている……という未来像。最近視聴映画の中では『マッドマックス』や『ブレードランナー2049』が後者にあたる。
 実は『26世紀青年』が描いた未来も後者にあたり、人類文明が末期の末期にさしかかっているのだけど、人類が馬鹿になりすぎて、その自覚を持てない、その予兆に気付かない……という怖さが描かれた世界観だ。
 高度すぎる機械文明の恩恵で自分たちが頭がよくなったという勘違いを続ける現代人。未来ではさらにAIが発達しすぎて勉強も鍛える必要もなく、働く必要もなくなり、それでいて仕事を持っている人を妬む(なぜ妬むのか自分でも心象がわからないまま)ようになっていく。
 そうしたなか訪れる文明カタストロフは、さぞかし恐ろしいことだろう。

 現代は幸いなのか不幸なのか……いや、はっきり不幸の結果なのだが、情勢が不安すぎて若者世代は一生懸命勉強する、という選択肢を採っている。なにしろ我が国は大手企業に入ることができても、経営悪化で大量リストラの対象にされかねないような状況だ。不安だから勉強し、鍛える。就活のために勉強し、鍛える……そうせざるを得ないような状況にある。そのおかげなのか、学力自体はそこそこの高さをキープできている。今の日本を見ると、知性のカタストロフが起きそうな予兆はない。
 しかしだからといって、「衰退途上国」の現状を放置してもダメだ。「衰退途上国状態にしておけば、若者は不安になって勉強するようになるぞ」とか考えてはダメだ。
 『26世紀青年』で描かれたように、情勢不安の状態が続くと、IQが高い夫婦よりもIQの低い夫婦のほうが多く子供を産むという状況に陥りやすくなる。しかも現代は医療が発達しているので、かつての時代では育たなかったような“馬鹿で体の弱い”子供でも生き延びてしまう。IQ低い勢が確実に増える怖さが背景にあることを忘れてはならない。

映画感想

 読み飛ばしできた人はまたお会いしましたね。ここまで全部読んできた人はご苦労さん。  ここから普通の映画感想を始めます。

 『26世紀青年』を映画として見ると、はっきりいってたいして面白くもなければ、出来のいい映画でもない。3流C級映画だ
 未来の映像だが、陳腐でできの悪いCGの合成……というか単にマット画の合成だけで済ませている。だから画面が動きがない。奥行き感のまったくない映像が出てくる。
 群衆シーンがいくつか出てくるが、この群衆も人間をコピペで増やしているだけ。それも、パッと見ですぐにわかるような、あからさまな合成だ。
 要するに、どのシーンを見ても注目すべきものは何一つない。ただただ技術の低い映画だ。「映画の感想」といっても特に感想として書くべきものがない……というくらいの駄作映画だ。

 ではストーリーや個々の撮影に美点があるのか……というと何もない。
 撮影はいまどきのテレビドラマでもこんな低質なものはない、というくらい美意識の欠如した画面だ。ピントが合っていないカットもいくつかあり、そもそもカメラ技術が低い。カメラ技術が低いというか、もはや素人が回しているのか、というレベルのものだ。
 もしかしたらどこかにハッとするような瞬間が来るのか……というとそれもない。“美”なるものがどこにもない。そういう映画だ。

 しかしコメディ映画だから、笑えるシーンがどこかにあるんじゃないか……というとそれもない。どのギャグも極めてくだらない。低レベルすぎて笑えない。実際私はこの映画を見るとき、一度も笑わなかった。それくらい笑いの質も低い映画だ。

 こういうブログでこういう取り上げ方をしているから、なにかしら面白味や発見のある映画なのか――もしかしたらそういう期待を持つ人がいるかも知れないが、実際はそんな良さは何一つない。普通につまらない。ごく普通の駄作映画だ。あまり何かに期待して見るような映画ではない。

 ただ不思議なことに、私はこの映画をものすごく神妙な顔をしてじっと見ていた。コメディ映画だというのに一度も笑わず。
 というのも最初に書いたように、「これ、あり得る未来だぞ」という怖い予感がしたからだ。

 未来の映画館が出てくるのだが、ただケツのアップが続き、屁をこく場面だけが映し出される。未来人はそれを見て大笑い。これは未来の人々が“物語”を読む能力が完全に失っていることを意味している。
 未来で流行しているドラマに、ひたすら金玉を蹴られ続ける男のお話がある。ドラマの中で金玉を蹴られるのは「フリ」だ。実際ではない。実際は金玉に衝撃を受けないよう、様々な工夫がこらされているはずだ。
 しかし未来人はそのことがわからず、「あ、あのドラマに出ている人だ!」と近付いていって金玉を蹴り上げてしまう。金玉蹴られた俳優は股間を押さえてうずくまるのだが、この様子が本当に痛そうで……(さすがに可哀想だった)。

 これは未来の人々が映画やドラマがどのように撮影されているのか、ドラマ中の「フリ」でしかないことがもはやわからなくなっている、という意味だ。
 また未来の世界はやたらと汚い。お掃除ロボットが存在しているのだが、故障してしまってひたすら壁に激突し続けている。しかし未来の人々は掃除をしようとしない。なぜなら自分たちの住んでいる場所が汚い……ということにすら気づけないからだ。綺麗・汚いという感性も失ってしまっている。故障しているロボットがそこにあるのに、誰も修理しようとしない。おそらくは機械の修理なども誰もできなくなっているし、「修理しよう」という発想も持てなくなっているのだろう。
 出てくる登場人物も、現代人の我々から見るともはや白痴にしか見えない。病院の受付で、やってくる人の話を聞いて症状がなんであるか選ぶ場面、受付嬢には完全に表情がなく、押すべきボタンも簡略化されているのだけど、どれを押すのかわからず、ひたすら指が迷い続ける。未来人に考える能力がなく、もはや動物に近い存在になっている。
 そうした未来人の関心事はセックスだけ。セックスしか関心がないから、繁殖力だけはやたらと強く、しかも未来の世界は夫婦の概念はなく、「誰の子供か」ということも気にならなくなる。気にするだけの知能もないからだ。普段の会話でも下ネタしか出てこない。下ネタを言ってただただ笑っている……それが未来人の姿だ。
 知識や芸術感性もないから、環境を整えようという発想もなく、シンプルな物語しか理解することができず、しかもその物語がどのように作られているのかも考えることができない。

 これらが作り出す描写の数々は、笑いとしては薄ら寒い。まったくもって笑えない。つまらない。しかし見ていると次第に“怖さ”が浮き上がってくる。コメディというか、ある種の痛烈な“風刺”と感じ取ることができた。
 とある弁護士の部屋が出てくるが、ソファには便器が付いていて、ソファでウンチしながら食べて、目の前に置かれた大きなテレビでひたすら笑い続けるだけ。これが未来人の生活だ。もはや人間は食べてクソするだけの器官でしかなくなっている。「文明の発達によって人間が自ら家畜化する」みたいな話はよく聞くが、未来人の生活はそれ以下。食べてクソするだけの存在である。そしてその自覚すら持てなくなっている。それくらい知能が落ちてしまっている。この怖さ!

 でも本当のところ、この映画がそういう風刺で作られた……とは思えない。そういう狙いや意図があったのか……というとおそらくなかっただろう。ただ単に「こういうコメディ映画があったら面白いだろう」と作られ、そして盛大に滑った……それだけのダメな映画でしかない。
 それを、私が勝手にいろいろ考えすぎて「これはコメディ映画を装った未来に対する警告だ! もはやホラー映画だぞ!」とか勝手に思い込んで、こうやってブログに書いているだけに過ぎない。テキトーに作られた物が、たまたま色んな物にはまって、奇跡的に「考えさせる映画」になっただけに過ぎない。

 もしかしたら今回こうやってブログで取り上げられたことによってこの作品に期待を持った人はいるかも知れない。あらかじめ警告しておこう。普通の駄作映画だ、と。いいところは何もない映画だ。
 この映画に出てくる未来人はとんでもない馬鹿になっているが、映画自体も同じくらいIQの低い映画として作られている。低レベルに作られすぎて、人によっては見るに堪えないかも知れない。
 でも見ているとじわじわと怖くなってしまう。というのも「どんなSFよりもあり得るかも知れないぞ、この未来」と考えさせるものもある。……といっても、そういう考えを促すような作りにすらなっていない。私としても普段話しにくいネタを、この映画の感想を語るという口実にして語っているに過ぎない。その以前から考えていたことが、この映画の色んなところにハマるものがあったから、こう語っただけに過ぎない。
(IQの低い夫婦が子供を増やす状況を作っている……なんて普通に言ったら炎上するだけだ。でも正直なところ、最近の児童虐待の現状を見るに、正体はこういうことじゃないのか……と薄々思っていた。言ったら炎上するから黙っていたけど)


 それでも興味がある方は、どうぞご覧ください。面白くなかったとしても、私は責任を持ちません。

 ちょっと思ったことがあるので補足。
 『26世紀青年』の劇中「アインシュタインも周りの人を馬鹿だと思っていたのかな?」という台詞がやたらと印象的だ。いわゆる天才は、周りの人がどのように見えているのだろう?

 思い当たるエピソードがある。
 アメリカに『モンティ・ホール』というゲームショー番組がある。この番組のとある問題について「話」を聞いたマリリン・ボス・サバントは「ドアを変更したほうが景品が当たる確率が2倍になる」と答えた。
 この一言がアメリカで大論争を巻き起こした。「マリリンは間違っている」「ドアを変更しても確率が変わるわけがない」と大論争というか、マリリンを誹謗中傷のする声で大騒ぎとなった。  詳しい話はWikipediaに記載されているので、そちらで読んで欲しい。

Wikipedia:モンティ・ホール問題

 この問題に答えたマリリンとはどういう女性なのか? マリリンはなんとIQ228で「もっともIQの高い女性」としてギネス登録されている超天才だ。そんなマリリンが「ドアを変更すべき」と答えたことが大きな問題になった。「あのマリリンが、あからさまな間違いを犯したぞ!」と。
 マリリンはこの問題について何度も説明を行った。もしもドアが100万だった場合を考えて……とか。
 このあたり、「作物に水をかけると育つ」という結論を示しても誰も理解してもらえない『26世紀青年』に通じるように思える。
 結局はこの論争、コンピューターでのシミュレーションを行った結果、マリリンが正しいことが証明された。マリリンを誹謗中傷しまくっていたアメリカ中の数学者が間違っていたのだ。マリリンは「話」を聞いただけで即座に「正解」を言い当てていた。マリリンが正しかったとわかったとき、アメリカ中の数学者の頭にはブーメランが突き刺さることとなった。
 天才はまわりと見ているものが違う。天才はかなり早い段階で「正解」に行く着くのだけど、周りが理解できないし、ついてこれない。それどころか、ついてこれない“権威ある人々”から理不尽な誹謗中傷を浴びせかけられることがしばしば起きてしまう。『モンティ・ホール』問題は、「天才は周りの無理解に苦しむ」という典型の例となった。
 こういった一件から思うのは「天才は周りが馬鹿だと思っているのか?」というより、「見えているものが違いすぎて、理解してもらえなくて苦労する」ということのほうだと思う。「言っていることが間違いなく正しいはずなのに、誰も理解してもらえない」……それは「孤独」のほうじゃないだろうか


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