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映画感想文 ミッドサマー

ミッドサマー 予告編

 『ヘレディタリー』で長編映画デビューを果たしたアリ・アスター監督の2作目が本作『ミッドサマー』だ。アリ・アスターはホラー映画の監督なのだけど、作風かかなり独特。「いわゆる」なホラーではなく、完全にアリ・アスターでしかあり得ない独自性がある。
 というだけあって、なかなか読み解くのも難しく、本作『ミッドサマー』も2回視聴推奨作品。2回目視聴の時、いろんなものに気付ける仕組みになっている。
 例えば、前半、主人公ダニーの部屋には3枚の絵が飾られている。何か意味深だけど……しかし初見時にはわからない。2回目視聴の時に、あの絵画がこれから起きることの予告、ダニーに降りかかる運命を示している絵画だとわかる(ダニーが自分の運命を自ら予告している……ともいえる)。
 私は時間がないので1回視聴しかしていないから、こうやって感想文を書こうとして映画の内容を思い出して、そこで「ああ、そういうことだったのか」と気付くところが多い。

 大雑把なあらすじは、主人公ダニーの妹がある日、自殺してしまう。しかも両親を道連れにしての無理心中だった。
 悲嘆に暮れるダニーに、ボーイフレンドのクリスチャンはスウェーデン旅行を計画する。クリスチャンの大学の友人であるペレがスウェーデンのホルガ出身で、その古里に招待してくれたのだ。同じく大学の友人であるジョシュはスウェーデンに古来から残るルーン文字の研究をやっていて、そうした仲間達と一緒の旅行にダニーを誘ったのだった……。
 しかし行き着いた村には、おぞましい習慣があって、ダニー達はじわじわと村に飲み込まれていくのだった。

 スウェーデンの古き良き伝統的な村に残る、忌まわしきある習俗がこの作品のホラー的な味付けとなっている。
 しかし、“何か”が起きるのは映画が始まって1時間ほど経ってから。そこまではじわじわと伏線を積み上げていく構成になっている。

 その一つが、ホルガの近くまでやって来たときに、ドラッグを勧められるシーン。あのドラッグで、ダニーは地面に生える草と自分の肉体が一体になったような錯覚を味わう。あれはなんなのかというと、“洗脳”の第1歩。また自然と一体化したような錯覚は、村の習慣と繋がり始めていることを示唆している。
 村に入ってからも幻覚作用をもたらす飲み物を何度も飲み、そのうちにも村の奇怪な習慣に気付き、帰ろうと思うけど実際には帰らない。なぜならどんどん洗脳されちゃってるから、行動を起こそうという意欲がどんどん後退していってしまっている。

 村に入る前に、一回ドラッグを飲む、というのもポイントで、これから向かう先はある種の「異世界」なので、正気の状態ではそこに辿り着くことはできない。
 どういうことかというと、古くから残る「異世界探訪記」……こういうのは現代の「異世界物」に限らず昔からありますのよ……は必ずあるプロセスを経ないと行き着けないことになっている。それは“迷う”ことである。
 でも現代はスマートフォンなんぞがあるから、なかなか「道に迷って行き着く」というシチュエーションは作りづらい。そこでドラッグで一回「あっちの世界」に行き、実はそのまま戻ってきていないのだ……という説明ができるようになっている。

 スウェーデンが舞台で白夜だから、ずっと昼のシーンが続く。これがドラッグによってじわじわと洗脳され、幻想の世界を漂っている風合いがすごく出ている。村の光景が一見して美しいのも、より桃源郷的イメージを深めている。ダニー達はある種の「異世界」に迷い込んでいて、そこからもう出られない……そういう構図だ。
 この美しさが、おぞましさとの対比となっていて、より作品が持っている気風を深めていて良い。
 おそらくあの村の美しさは、ドラッグによって作られたもので、ドラッグなしで入ったら……きっとただひたすらに暗く陰鬱な光景を目にしたのではないかと。しかしドラッグのおかげで、村の陰鬱さが隠されてしまう。

 さて、「この村は何かおかしいぞ」と気付くのは、映画が始まってから1時間ほど経ってから。村では72歳になったお爺ちゃんお婆ちゃんは自ら身投げする習慣があり、それをみんなで見守るのだった。
 これは村の成員を確実に一定に保つため、彼らなりの手段だった。村で72歳になると自ら身を投げて命を捨て、その代わりに外から招き入れた客人と村の女がセックスし、子種を宿す。これを厳格に守ることで、村の人数を一定に保っていた。これがこの村なりの「生き残り」戦略だった。

 古い習慣を持った民族にはしばしばあることで、例えば狩猟採取民族のアチェ族は老人は若者達に殺されていたし、村の足手まといになると判定された子供たちも殺されていた。こうやって一族の成員を一定に保っていた。アチェ族にとって一族の仲間を殺すことは普通のことで、時に自分の父親も自分の息子も殺すことがあったのだが、それで「良心」が痛むこともなければ「罪の意識」に苦しむこともなかった。殺される老人も、それが一族にとって当然のことと受け入れていた。
 日本にも昔は「姥捨て」の習慣があったから、意外なことではない。
 映画はおぞましい習慣として描いているが、人口を一定に保つ手段としてはそれなりに有効だ。人口が増えすぎると食糧問題が起きるし、社会からあぶれてくる人間が出て、そこから犯罪に手を染める人が出てくる。村を平和的に恒久的に運営しようと思ったら、その村にとって相応しい人口に調整するのも一つの手でもある。平和的なコミュニティを作るための理想的な行為をしているともいえる……ただ、それは個の幸福に反するという葛藤を抱えるけど。「コミュニティの幸福」と、「個の幸福」は両立しないのだ。

 しかしホルガのような村は、未開民族時代よりも遙かに洗練された文化観を築いている。ホルガほど発展した村になると、感情の捉え方も多様になり、人を殺したり死んだりするという精神的ショックには耐えがたい。だからそれを緩和するために、いかにも仰々しい「儀式」の体にして、罪の意識や悲しみをやわらげようとしていた。
 もう一つのポイントは、ドラッグ。ダニー達は村に入ってから何度も幻覚作用をもたらす飲み物を飲まされる。あの飲み物を飲むことで、集団意識がより深く結びつき、集団での一体感が深まり、一つの目的意識に全員が結束していくようになる。
 例えば、お爺ちゃんお婆ちゃんが身投げをするシーン。お婆ちゃんは飛び降りて即死するが、お爺ちゃんは失敗して死ねず苦しむことになる。
 すると村にいる全員が大袈裟に悲しみはじめる。全員の感情がひと連なりに繋がっている感覚が、あの村の人達の中にあるのだ。「個」の意識がないのだ。だから奇怪な因習であるのに、村人同士に批判意識はなく、全員がたった一つの目的のために結束するようになる。

 ところで、不思議に感じるのは村の成員に女性が多いこと。女性が中心の社会となっている。女性が中心となっているから、表面的には村の様子は非常に穏やかだし、意匠も建築も非常に美しい。女性的感性が全体に張り巡らされて、だから映像も美しく、場面場面で切り取るとホラー映画だとはとても思えないような美しい光景ができあがっている。
 もちろん、その表面的な美しさと因習の忌まわしさのギャップが作品の見所なのだが。

ミッドサマー カット1

 村のメイクイーンを選ぶダンスシーン、2回俯瞰構図になるのだが、モニュメントを取り囲み、円になった女性達の姿が女性器の形になっている。ついでにモニュメントの形は、おそらく子宮を現している。
 そうした女性器を現したモニュメントの周りでグルグル回って、女王を選ぶ行為には、村で女性が主要な地位を持っていることを現している。
 表面的には女性の優美さが表現されているのだが、その裏で器官的な、おぞましげなイメージも表現し、この作品の性質が語られている。

 さて、ここからネタバレだ。

 クライマックスシーン、主人公ダニーはクリスチャンの死を前にして悲嘆に暮れるが、しかしその後、うっすらと微笑みを浮かべる。
 ここでアリ・アスター監督の前作『ヘレディタリー』を思い出す。『ヘレディタリー』の主人公アニーは精神的に不安定な一族の性質を受け継いで、夢遊病に苦しんでいた。やがてアニーの周囲で陰惨な事件が次々と起こるようになり、アニーはより精神的な錯乱を起こすようになっていくのだが、その最後、ふっとその顔から嘆きも迷いも消えてしまう。嘆きや迷いが限界に達し、“あちら側”、つまり悪魔の側に転落したのだ。そこからアニーに迷いや葛藤がなくなってしまう。
 実は『ミッドサマー』もこの構造を採用していて、ダニーはもともと精神的な疾患を抱えていた。それが妹と両親の死を前にして、より精神的な錯乱を起こすようになっていた。
 さらにホルガに行き着いてからありとあらゆる惨劇を目撃し、錯乱を深めていくのだが、その最後でふっと迷いや葛藤がなくなっていく。そこに至るまで、アニーは村のドラッグ入り飲料を毎日飲んでいたし、色んな局面で村の女達と深い共感を得ていた。最後の場面で、クリスチャンの死を前にして嘆き悲しむわけだが、ふっとダニーは村の女達と一体となっている感覚を味わう。これこそ、ダニーが本当に村の女達と“同じ”になった瞬間。これでダニーは、精神疾患や葛藤から解放されてしまうわけだ。むしろみんなと一体となっていることに、喜びを見いだしてしまう。
 映画の半ばで、老人と老女が身投げをした。村はその代わりで2人ぶんの魂を招き入れなければならない。そのうちの一つが、クリスチャンと村人のセックスで得たことになる。もう一つはダニー自身が村人の一人となること。これにはおそらく近親姦を避けるため、定期的に村の外から人を招き入れる習慣と結びついているのだと思う。
 ダニーが村人の一人になることで、村の儀式は完了するというわけだ。

 でも実はそんな村の結束もまやかしでしかない。火あぶりにされる直前、小屋に入っていた男は絶叫を上げる。あれはあの瞬間、我に返って「個」に戻ったからだ。ドラッグが作り出す「夢」が溶けると、途端に絶望が襲ってくるのだ。

 最後に映画の感想だが……正直なところ2回観ようという気にならなかった。というのも怖かった。面白くなかったわけでも出来が悪かったわけでもなく、ただただ怖かった。
 よくある映画のように、いかにも「怖いですよー」というシーンはかなり少ない。でも生理的にたまらなくなるシーンがいくつもあり、それで一回観よう……という気にならない。Netflixには『ミッドサマー』の完全版もあるのだが、そちらを観ようという気にならなかった。
 怖くて観たくない、というのはホラーとしては大正解なので、それゆえに私はこの作品をホラーとして特別な評価を下さなくてはならない。『ミッドサマー』は間違いなくホラーの秀作だった。


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