2019年7月19日 この日の出来事について。
これは2019年7月19日に書かれたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。
2019年7月19日 この日の出来事について。
この日、アニメ史上最悪の事件が起きた。
2019年7月18日午前10時。京都アニメーション第1スタジオで出火。現在までに33人が死亡。35人が重軽傷を負った……と報道されている(※)。
放火した青葉真司(41)は現場から逃走しようとしたところを、従業員によって取り押さえられた。
(※ 事件当初のニュース。これは7月19日に書かれたもの)
現在までの報道でわかっていることは、ここまでだ。
はじめに書いた通り、これはアニメ史はじまって以来の、最悪の事件だ。京都アニメーションはこの業界最大大手にして、流行の最先端を走り続けるアトップランナーでありながら、従業員数はわずか154名。超少数精鋭。アニメーター一人一人が一騎当千の実力を持つ天才ぞろい。単に「絵がうまい」というだけではそこに入ることすらできない。私のような人間には遠くから見て憧れるしかないような会社だ。
そんな精鋭のうち33人が、一度に失われた。これはもはや「国家の資産」が33人分失われたとか、それくらいの話だ。
京アニには世界的に名前が知られるような天才アニメーターが多数いる。私も個人的に尊敬するアニメーターがたくさんいる。犠牲になった方々の名前はまだ公表されていないが、あの人は無事だろうか、あの人は大丈夫だろうか、と不安で仕方がない。
放火した犯人――青葉真司は身柄が確保された瞬間「パクリやがって」と叫んだという。のちに、自作小説を京アニに盗作されたから、という動機を語った。
これを書いているのは事件が報道された最初の日で、なにもかもが明らかになったわけではないが、このあたりの話でピンと来るものがある。
これは漫画や小説の世界ではしばしば起こる話のようだ。
聞いた話だが、漫画家楳図かずおさんの仕事場に、突然男が入ってきて、
「俺の書いた作品をパクっただろ」
当然だが、楳図かずおさんは男のことを知らないし、何の話をしているのかもまったくわからない。
(人づてに「こんなことがあったらしい」と聞いた話なので、正確にいつ頃の話なのか、私は知らない。話者が話を盛っている部分もあると想像されるので、実際には編集部に押し掛けた……かも知れない)
似たような話は、アメリカ、スティーヴン・キングのところにも起きたらしい。その時の体験を面白く膨らませた作品が『秘密の窓、秘密の庭』だ。この作品は、『シークレッド・ウインドウ』というタイトルで映画化した。
『アバター』や『アナと雪の女王』のような世界的大ヒット作になると、「俺の作品をパクった」という人が数十人単位で現れ、訴訟問題に発展するケースが起きる。こういうニュースがあると「賠償金狙いの狂言だろう」と賢しらに分析する人は多いが、半分くらいが実際狂言だと思うが、中には「本気」でやっている人もいる。本気で「俺の作品をパクったに違いない」と思い込んでいるヤバい奴が中に混じっていると思ったほうがいい。
冷静な意見を言うと、『アバター』や『アナと雪の女王』のストーリーを作った人たちは、「パクられた」という人の作品について、存在自体知らないはずだ。だいたい、そういうのはネットの片隅とか、小さなコミュニティで作られた同人誌とかだ(「発表媒体は俺の脳内」……というケースもあるかもしれない)。そもそも業界トップで働くような人たちというのは、超忙しい。下手すると同時代に作られた有名作品、大ヒットした作品すらまったく知らないケースもかなりある。そんな忙しい人たちが、どこで発表されたかわからないような作品なんぞ知っているわけがない。
(私ですら、いま世の中で流行っていることとか、若い世代における「常識」なんぞ1つも知らない)
私の個人的な話をしよう。
私の学生時代、授業の課題である絵を描くことになった。課題絵はその日のうちに回収され、後に貼りだされることになった。
その貼りだされた作品を見ると――私とそっくりな絵がその中にあった。あまりにも私の絵に似ていたので、私は自分が描いた作品かとしばらく思い込んでいたほどだ。
パクられた?
いやいや、これを「ネタ被り」という。
それ以前の話として、課題絵はその日に出されて、その日に回収された。他の生徒がどんな絵を描いているか調べ、その中の1枚をパクるなんて不可能だ。
この時、私が理解したことは、2クラスだからだいたい70~80人くらいだから、それくらいの人数で共通の課題のものを作らせると、同じものを描く人は1組前後出る……ということだ。
今や漫画家、小説家になりたい人は何十万もいて、何百万というストーリーが日々量産されている。その中に類似する作品が一つとしてない……というわけはないだろう。ヒット映画と似たプロットのスートーリーが出てくるのは当たり前。
アニメでも映画でも、ヒット作になると「パクられた!」と大騒ぎする人が出てくるが、その作品に似た作品は、「我こそがオリジナルだ」と言う人の前に100本くらい存在している……と思ったほうがいい。
ネットの掲示板なんかを見ると、少々の類似点を探してきて、「これはこの作品のパクリに違いない!」という奇妙な“検証”をしている人がわりといる。見かけるたびにバカバカしいと思っている。ああいったものの多くが、「パクリ」と呼ぶには無理矢理すぎるし、中には「それは特定作品のパクリじゃなくて“よくある構図”だ」というものもある。これは単に、検証をやっている人たちの勉強不足だ。
あとパクリ疑惑をかける前に、その作家が前景となる作品を知っているかどうか、確認したのか? 本当に悪質なパクリというものはあるのだけど、ネットの「パクリ警察」たちがやっていることは、ほとんどが無意味だ。
ああいったものはジョークのネタくらいならいいけど、中には本気にする人たちもいる。それも結構な数で。で、本気にした人たちの何人かに一人が、勘違いと思い込みという正義感に駆られて、当事者に突撃する。
その時、「パクリ警察」の人たちは「俺たちは関係ない」と言って逃げてはならない。突撃した人と同じ罪を背負うくらいの覚悟は持っていてもらいたい。すでに事件は起きたわけだから。
私なんてチャンスに恵まれなかったタイプの人間だから、「いつかやろう」と思ってストックしていたアイデアが、いつの間にか他の誰かにやられてしまう……。そういう経験は100や200ではきかない。いや、クリエイターやっている人間はみんなそういう経験をしている。それで練っていたアイデアは人知れずそっと取り下げる。
モノ作りというのはそういうもののことだ。パクリ、パクられるじゃない。はっきり言えば、世に出ている作品の多くは「誰もが思いついていること」だ。「これは思いつかなかった」というものはほとんどない(私は心から驚いた……という作品にここ20年出会っていない。どんな作品も、想定内だからだ。ある程度の年齢になると、驚くような作品に出会えなくなるものなんだ)。要は「早いか・遅いか」の話だ。
あのヒットしている作品や、ブームになっている作品のアイデアとか、明らかに言って私の方が先に思いついていた。私ですら、そういうのは一杯ある。しかしやらせてもらうチャンスがことごとくなく、悔しい経験をしてきた。でもそれを言うと格好悪いから、表に出さずそっとしまっておく。物作りの半分は、そういう悔しい経験をすることだ。誰もが通る道だ。
現時点で、京都アニメーションには何千万円といった寄付金が集められていると聞く。そのこと自体は素晴らしいことだ。それこそ、「京アニ」の名前が世界中に轟き、誰からも愛されてきた証拠だ。
……でも駄目なんだ。お金があれば、燃えた建物を元通りにすることができる。しかし、才能は帰ってこない。
「欠員が33人でたのなら、そのぶん募集をかけて埋めればいいじゃない」と思う人はわりといるかもしれないが、それができる話ではない。京アニのアニメーターは「その辺の人」とははっきり違うし、だからといって「1~2年経験を積んだ人」というわけでもない。本当に貴重かつ稀少な人材ばかりが集まってできていた場所だった。何千万円というお金があっても、その才能を取り戻すことはできない。
それに、過去の多くの資料も失われたと聞く。天才たちが日々描いてきた実績が失われてしまった。「最新のテクノロジーで復元すればいいじゃない」という話ではない。天才が描いたものは、どんなテクノロジーでも復元できない。京アニの素晴らしい資産の数々は、永久に失われ、戻ってくることはないのだ。
これからメディアは4Kや8Kの高画質時代に入っていく。いろんな作品が未来の高画質に向けて、アップデートされていくだろう。しかし4Kの『ハルヒ』や8Kの『らき☆すた』を見る機会は永久に失われた。
放火した青葉真司は――万死に値する。
いや、ただ死ぬだけでは済まされない。1万回呪われてから死んでほしい。ありとあらゆる苦しみを背負った上で、惨めに死んでほしい。青葉真司に“人間の尊厳”などは必要ない。33人もの国の宝を奪った男を、決して許してはならない。
しかし……青葉真司を拷問にかけたところで、何も戻ってこない。何も意味がない。ただ気持ちがスッキリするだけだ。こんな無力感、他にあるか!
3月14日 書き足し 京アニのアニメーターたち
以上が事件当日2019年7月19日に書かれたもの。ここからが手書きノートに書いていたものをPCに書き起こしている本日、2020年3月14日に書かれたもの。
あの事件から半年以上が過ぎて、一応、気分は落ち着いた。いま当時書かれたものを見て、我ながらずいぶん憤慨していたものだと思う。いや、憤慨と言うか激怒していた。激怒していた上に、混乱もしていた。激怒して混乱するような事件だった。
今はどうかと言うと、気分は落ち着いたというか、無力感しかない。何をやっても、何を言っても、何も戻ってこない。語ることが無意味だ。
相変わらず思っているのは、青葉真司は死刑では手ぬるい。死刑は一番安楽な刑だから、拷問刑が妥当だと思っている。
でも青葉真司を拷問にかけたところで、何の意味がない。それで何か得られるならいいが、全くの無意味。いやもういっそ、青葉真司とかいう小物についてはどうでもいい。忘れてしまいたい。
気分を変えよう。
今回は私が個人的に好きだった京都アニメーションのアニメーターを紹介しようと思う。
西屋太志
もしも「京都アニメーションで一番好きな作品は?」と聞かれたら、私は迷わず『氷菓』と答える。京アニ作品の中ではひときわ地味。ファンタジー要素はないし、超人的なパワーを持ったキャラクターも登場しない。地味で重い作品。『けいおん!』や『中二病』のような派手で華やかな作品の陰になりがちで、存在自体知らいない人もわりといるかもしれない。でもこの作品が私は一番好きだ。
なぜかと聞かれると、千反田えるというキャラクターがいるから。もちろん『氷菓』が好きな理由は一杯一杯ある。ストーリーの良さや、緻密に描き込まれた舞台背景、静かな音楽……どれも秀逸。Netflixで配信されているから時々、どこかのエピソードをひろって見るが、どのエピソードを見ても見事。シーン一つ一つ、カット一つ一つが素晴らしい。
でもその中で何が一番いいかと聞かれると、千反田えるというヒロイン。他にも優れた要素は一杯あるが、そのすべてを差し置いても、千反田えるというキャラクターがいるからもう『氷菓』が一番だ、と答える。
もういっそ、千反田えるという女の子に、人間として恋をしているのだ……と言ってしまってもいい。千反田えるに対する私の愛は、pixivに投稿された絵を見ればなんとなくわかるのではないかと思う。とにかくも千反田えるという女の子が好き。「京アニの中で」という括りではなく、「すべてのアニメの中で」と括りを拡大しても、千反田えるが一番好きだ、と言えるくらい好き。
現実に千反田えるが存在するなら、何を差し置いても求婚しに行く……まあ所詮は二次元なんですけどね。
その千反田えるというキャラクターを絵に起こした人が西屋太志。
私は西屋太志というアニメーターを知ったのは『氷菓』からだが、あの作品以降、私にとって西屋太志は特別なアニメーターになった。ずっと尊敬するアニメーターだったし、ここだけの話、私の作品を西屋太志さんに描いてもらいたい……とすら思っていた。これは目標ですらあった。
西屋太志キャラクターの良さは、まずデッサンの正確さ。
キャラクターが横を向いた時の、手前の肩から、奥の肩までの奥行き感。これを表現するのはなかなか難しく、ぺたっとした絵を描いてしまう人が多いが、西屋太志が描くとしっかり肩・胸の存在感を描いてくれる。それだけか? と言われそうだが、これがしっかり書かれているというだけで、デッサンの良し悪しがわかる。
西屋太志といえば、代表作は『氷菓』よりも大ヒット作『Free!』のほうだろう。
私は『Free!』という作品はあまり好きではない。……女の子があまり出ないから。男にはほとんど興味がないから、あまり『Free!』という作品には愛情を込めて見ていなかった。
が、しかし注目しないわけには行かなかった。というのも、この作品、とにかく身体の捉え方がうまい。体の重量感もそうだし、『Free!』の特徴は手首と手のひらの描き方だと思うが、手首の骨のでっぱりと、手の甲に浮き出た骨。この描写が本当に見事。一般的には水着を着た少年たちの裸……ばかりが注目されたが、それを支えたのは正確なデッサン。そのデッサンを裏付ける技術。これがなければ、あの裸体のエロスは出てこなかった。
西屋太志といえばゆるやかに感じるエロスだ。
エロスといっても、あからさまにオッパイやお尻を強調するわけではない。もっとささやかで、何気ないもの。うなじであるとか、太ももであるとか……。女の子と接したときに、はっとさせられるような、あの感じ。思い出すと匂いが最初に浮かぶような、あの感じ。西屋太志キャラクターにはその感触を思い起こさせるものがある。この何でもないエロスの表現がたまらなく好きだった。
私の考える「魅力的なキャラクター」には「性的な魅力」は絶対必要だ。キャラクター論の話ではなく、魅力的な人間には性的魅力が絶対に付与されているものだ。アニメキャラクターだけではなく、実写の俳優だって同じだ。エロスではなく「色気」と呼ぼう。色気が感じられるからこそ、その俳優に惹かれるのだ。映画俳優だったらジョニー・デップやヴィゴ・モーテンセンといったオジサン俳優が大好きだが、ああいった俳優には間違いなく色気を感じる。だから魅力的だ。
(日本のおじさん俳優にはそういう色気を感じる人はいないな……。阿部寛だけは別格だけど)
西屋太志キャラクターはこれみよがしにオッパイを強調するとか、そういうのではない。それは「下品」というものだ。匂いを感じさせてくれること、が大事だ。
西屋太志作画のアニメーションと言えば『氷菓』のエンディングアニメーションを覚えている人はそれなりにいるかもしれない。あのエロスを全面化したようなアニメーション。もちろん、私は大好きだった。
エロスが全面化している……とはいったものの、しかし、別に千反田えると伊原摩耶花の二人がヌードになっているわけではない。言ってしまえば、単に二人が衣装を着て、大きなベッドの上でゴロゴロしているだけの映像だ。それが、とんでもなくエロかった。なんでもない視線や、うなじや、それらが動いて、肌に髪がまとわりつく瞬間とか――即物的なエロス! ではなくゆるやかに匂いを感じさせるエロス。気持ちで感じさせてくれるエロスだ。
あのエンディングアニメーションは京アニ社内でもあまり評判が良くなかったらしいが(京アニには女性が多いから)、私は手放しで評価したい。あれは最高だった! エロかったから良い、という意味ではなく、表現として見事だったから評価したい。
第2クールからエンディングアニメーションは明るく、健全なものに変わったが、あちらもあちらで可愛らしくて大好きだった。
西屋太志といえば相棒は山田尚子監督だ。
『聲の形』『リズと青い鳥』の劇場作品で、監督と作画監督という関係性でコンビを組んでいる。他にも『響け!ユーフォニアム』や『小林さんちのメイドラゴン』でも二人はコンビだった。
正直なところ、山田尚子監督、西屋太志作画監督コンビはいつから成立したものか知らない。でも気づけば、エンドクレジットなどを見て「ああ、またこの2人、コンビでやってるなぁ」と。気付けばずっとこの2人は、常に一緒のコンビになっていた。
山田尚子監督といえば、『けいおん!』『たまこまーけっと』の時は堀口悠紀子が相棒だった。だから『たまこまーけっと』以降、西屋太志とコンビを組むようになったのだろうか。
西屋太志といえば、どっしりとした男性も描けば、少女のゆるやかなエロスを愛情をこめて描くし、『メイドラゴン』のようなかわいいコメディも描ける(西屋が描いたトールはやっぱりちょっとエロかったよ)。なんでも自在にこなせるアニメーターだ。
山田尚子監督は初期の『けいおん!』『たまこまーけっと』のような明るい作品の後、次第に『聲の形』のような重いドラマ作を描くようになっていった作家だ。およそなんでも高いクオリティで描ける西屋太志のようなアニメーターを、人材で重宝したのはよくわかる。
でも、この2人の関係性は、私はよく知らない。どれだけの深さを持った関係性なのか知らない。(きっと作品の音声解説とかしらみつぶしに探せば何かわかるんじゃないかと思うが)
私が一番好きな作品を描いたアニメーターで、私が一番好きなキャラクターを描いたアニメーター。憧れと尊敬のアニメーターだった。いつか私の作品をこの人に描いてもらいたい。そうずっと思っていた人だった。私にとって、その目標が失われた。
池田晶子
京都アニメーションを代表するアニメーターといえば、池田晶子だろう。京アニ好きで、この名前を知らない者はいない。京アニの主砲、池田晶子だ。
『犬夜叉』では作画監督を務め、『フルメタルパニックふもっふ』、そして間違いなく代表作である『涼宮ハルヒの憂鬱』。
池田晶子とは実は変遷の多いアニメーターだ。後期『ハルヒ』ではさんざん『けいおん!』に影響を受けた「けいおん顔」と揶揄されたが、その後の『響け!ユーフォニアム』ではあっさり是正。単に影響されやすいのか、自身の絵柄にさほどの興味がなかったのか。コロコロと印象が変わるアニメーターでもあった。
池田晶子の代表作といえば、間違いなく『涼宮ハルヒの憂鬱』だが、ここでは『響け!ユーフォニアム』の話をしたい。というのも、この作品における池田晶子の仕事ぶりというのが、ちょっと常軌を逸していたからだ。私はひそかに、『ユーフォ』のことを「池田無双アニメ」と呼んでいた。
『ユーフォニアム』は吹奏楽部を舞台としていて、吹奏楽という性質上、部員数が非常に多い。私はすべてを把握できていないが、50人以上いたそうだ。『ユーフォニアム』の凄さというのは、その50数人の全員に、ばっちりキャラクターデザインが入っていたことだ。
そんなにキャラクターがいたら、だいたい何人かはテキトーなキャラクターが入っていたりするものだ。50人と言わず、キャラクターが10人しか出てこないような作品でも、端っこのほうへ行くと、いい加減な、いかにもモブキャラです、みたいなキャラクターが描かれたりするものだ。
が、『ユーフォニアム』のキャラクターデザインはそうではなかった。一人一人がかなりしっかりキャラクターが作られている。見ているとメインキャラクターばかりではなく、常にその周りには10人とか20人のキャラクターが描かれているが、いい加減に描かれたようなキャラクターがいない。ちゃんとそれぞれが何かしらの役割を持っていそうな、いや実際“担当楽器”という役割を与えられて、少しずつ作品の中で活躍している。
キャラクターの質の高さは、放送中でも話題になっていて「キャラ名がわからないけど、このキャラが好き」というファンも多数生まれた。キャラ名がわからないから変なあだ名が付けられて、あだ名のまま愛されるキャラクターもたくさんいた。そういう現象が生まれるのは、キャラデザが良いからだ。
それで、キャラクターデザインされていたのは吹奏楽部の一同だけかと言うと、たぶん違う。というのも、時々黄前久美子のクラスが描かれるが、よくよく見るとちゃんと同じキャラクターが描かれている。
果たして黄前久美子のクラスメイトもまるごとキャラクターデザインされていたかどうかわからないが、たぶんある程度は池田晶子メイドのキャラクターが入っていたのではないかと想像している。
そうすると、この作品における池田晶子の仕事って、どんな量だったんだろう……。想像すると、なかなか恐ろしい。
『ユーフォニアム』という作品のクライマックスといえば、演奏シーンだ。長い練習シーンの末に、あの演奏シーンでなにもかもが浄化され、作品に神々しさが生まれる。
この時のキャラクター一人一人の顔! 演奏している姿! これが本当にどれも見事。
どうしてここで感動できるかと言うと、手抜きなキャラデザが一人としていないから。『ユーフォ』は本質的に「群像劇」であるから、モブキャラなど一人もおらず、実は一人一人が物語に介入していて、成長の物語があり、その成長があのクライマックスのシーンで一気に「感動」として立ち上がってくる。それぞれの物語なんて実はほとんどわからないが、クライマックスの顔を見ると、感じさせてくれるものがある。
どうしてそんな感慨をもたらしてくれるのかと言うと、繰り返すが「手抜きなキャラが一人もいないから」だ。
あれができるというのは、本当、恐ろしい才能のアニメーターです。
あの事件が起きる少し前、『響け!ユーフォニアム』のラストシリーズが制作されるという告知がでたばかりだった。紆余曲折はあったものの、弱小吹奏楽部は全国に行けるレベルとなり、黄前久美子はいつの間にか部長になっていた。1年生入学で始まった黄前久美子の物語は、いよいよ3年生へ。卒業のシーズンが描かれる。
その発表の直後だった。
『響け!ユーフォニアム』は作品の大きな要を失ったまま、制作に入ることになる。
西屋太志
1981~2019年7月19日 享年37歳
池田晶子
1975~2019年7月18日 享年44歳