映画感想 マッドマックス 怒りのデスロード
Amazonプライムで『マッドマックス 怒りのデスロード』が無料配信になっていたので、この機会に視聴しました。初視聴です。
感想はですね……2015年の大ヒット映画でもう全人類が見ていて知っていると思うけども・・・
頭のおかしい映画です。
「頭がおかしい映画」と言うしかないですね。いやいや、本当に参りました。ここまで狂った映画がこの時代に、いやこの世に存在するのかと、とんでもない衝撃を受けました。見終えた後、眠れなかったものね。映画自体が過激なドラッグみたいな映画です。
それでは、映画を見ながら思ったことを。
!ネタバレあり!
……もう全人類が見ているはずだから、ネタバレを気にする人もいないだろうけど。
マッドマックス 怒りのデスロード 予告編
映画の感想
冒頭。主人公マックスは全身白塗りのなんだかわからない連中に誘拐されてしまう(暗黒舞踏の愛好者……ではなさそうだ)。主人公が何者なのか、経緯とかそういう解説はなし。前作からおよそ30年も経っていて、マックスの素性や過去について知らないお客さんが一杯いるはずなのに、そんなのはお構いなし。余計なプロローグや迂遠な解説なしで、バシッといきなり映画がスタートしてしまう。この潔さが凄い。
途中、マックスの過去や娘の幻覚がしょっちゅう現れるけど、それについての解説はなし。しかもこの映画の最後までマックスは“過去の幻影”から解放されない。つまり主人公が映画を通じて成長や解放といったものに行き着かない。そもそもそういう目的に向かっていない映画、ということが次第にわかってくる。
マックスが連れてこられた場所、というのが相当に狂っていて、車が神となって崇められている世界。イモータン・ジョーと呼ばれる男を頂点とした、宗教的な世界だ。もはや天然のものが地上になく、かつて文明華やかりし頃に産み落とされ、残されていったものが崇める“御神体”の対象になっている。この発想の転換が凄い。現代的なエコロジカルな発想の真逆のところに着想を置いている。ウォー・ボーイたちが出撃するとき、ハンドルに向かって祈りを捧げている場面が印象的だし、ああいう習慣を作っておけば車を奪って逃走するやつも出ないしで合理的だ。
未来の世界ではなにより水と石油がもっとも貴重なもので、これを失うと生存すらできなくなってしまう。車がなければ移動があまりにも困難ということもあって、車は島で過ごしていた時代の船くらい貴重なものになっている。だから車自体が信仰の対象になってしまうし、水・油・車を制した人間が王になり、崇められる存在になってしまう。荒廃した人類は、近代的な知能を失って原始宗教に立ち戻るが、しかし崇める自然はなく、その時代の人々がすでに生み出せなくなった車(文明の器)が御神体になっていく。とんでもないディストピアだけど、しかし映像として見せられるとなんともいえない説得力が立ち上がってくる。
そんなイモータン・ジョーの周囲にいる男達はウォー・ボーイと呼ばれ、全身白塗りで目元を黒く、口元に皺を作っている。これは“死人”を意味しているのだろう。彼らがシンボルとしている、誘拐されてきた人たちが首に付けられる焼き印の形にも似ている。
映画の世界観全体が“あの世”で“地獄”で、その地獄を制しているイモータン・ジョーも目元を黒く塗って、あえて歯がむき出しに見えるマスクを付けて、その地獄を制した王のように振る舞っている。そのイモータン・ジョーの手下だから、ウォー・ボーイたちも死人っぽい化粧を顔に施している、ということだろう。
ところで、彼らはいったい何を食べているのだろうか? 農業をやっているように見えないし、そもそも作物が育ちそうな土地に見えない。後半、お婆ちゃんが植物の種を持っている場面が衝撃を持って迎えられている、ということは農業なんてもうやっていないのだろう。
劇中、虫やトカゲをためらいなく食べている場面がちらちらと描かれるから、基本的には昆虫食やトカゲなんかが食料源になっているのだろう。
それでも充分なタンパク質を得られるとは思えない。すると考えられるのは人肉食(「人食い男爵」と呼ばれる男も出てくるしね)。奇形で育たなかった子供なんかが食用になるんじゃないだろうか。イモータン・ジョーの根城で、女達が太らされ、お乳を搾り取られている場面が出てくる(フォアグラのガチョウみたい)ので、人間がすでに家畜化している。地上の生き物がほぼ人間しかいない世界観だから、人間同士でやりくりしていくしかないのだろう。
そんなことを考えている間に、映画が始まって15分。映画がはじまってたった15分しか経っていないのに、もう次のシーンが展開してしまう(※)。シタデルの大隊長フュリオサが女達を奪って逃走してしまう。それに気付いたイモータン・ジョーが怒り狂って追跡する。主人公のマックスは“輸血袋”として連れて行かれる。
ここでも相変わらず説明がなにもない。フュリオサが逃走した理由……なんとなく察するけども……も説明がなく、一気呵成に怒濤のカーチェイスシーンに突撃していく。
※ 補足
アクション映画の構成を分解すると、「物語」「アクション」の2つのシチュエーションに分けられ、だいたい物語のパートが20~25分くらい進行してから5分ほどのアクションが挿入される。アクションに力が入っている映画は10分ほど続く。15分もアクションが続くような映画は、あまりない。これが通常のアクション映画の構成。一方の『マッドマックス』は15分物語で、アクションが15分。その物語パートもほとんどダイアローグがなく、状況や立場の説明なども一切なく、殴り合いなどの立ち回りで進行してしまうので、観る人によっては「ずーっとアクションシーンが続いている」というような印象になる。この構造が『マッドマックス』特有の視聴感覚を生み出していると考えられる。
そのカーチェイスシーン冒頭に、太鼓とギターを乗せたトラックが出てくる。太鼓を打ち鳴らしてギターをギュンギュンかきならして、よくよく考えれば(いや、考えるまでもなく)あんなものは必要ないはずなのに、これみよがしにズンドコズンドコと演奏し始めるのは、映画全体が“狂騒”を表現しているから。要するに「ねぶた祭」や「だんじり祭」だ。意味不明の改造車は“御神輿”。なんで貴重なものである車をあそこまでゴリゴリに盛っちゃうのかというと、御神輿だから。私たちが御神輿担いで「わっしょい! わっしょい!」と叫ぶ代わりに、彼らは改造車に乗って「V8! V8! V8!」と叫ぶ。頭のおかしい改造車を画面一杯に走らせて、派手にぶつかり合う様子は、「アクション映画」というより、もはや「お祭り」。でも『マッドマックス』に古い時代のお祭り曲的なものがもう存在しないから、その一つ前に生み出された電子楽器をギャンギャンかき鳴らす。彼らにとってエレキギターが私たち感覚でいう琴や尺八や龍笛みたいな扱いになってしまっている。
どうしてここで“お祭り”という発想が出てくるのかというと、『マッドマックス』という世界観自体がもはやこの世のものじゃないから。地獄、あるいはあの世。だからこれは映画自体がお祭りだ、という発想が出てくる。
映画『AKIRA』も同じく劇中に起きるできごとの解説はほとんどしてくれない映画で、監督は「映画全体がお祭り」と解説している。それで劇版にお祭りをモチーフにした音楽が一杯流れる。エンディング曲もお祭り曲だし。そう考えると『マッドマックス』に一番似ている映画は、映画史全体を俯瞰してみると『AKIRA』なのかも知れない。
それでこのカーチェイスシーンが本当にどうかしている。気が狂っている。あれをほとんどノーCGでやったというから、正気であるものが何一つ存在しない。全てが人間一人一人の体を張ったスタントやパフォーマンスで成り立っている。いったいどうやって安全確保して撮影されたのか、本当にわからない。何度も書くし何度でも書くが、本当に気が狂っている。
今の時代……つまりCG映像を経過した時代、ロケで生のまま撮られた映像はもうCGに勝てないのではないか? 多くの人がそう思っていたし、私もそう考えていた。車のアクション映画といえば『ワイルドスピード』なんかがあるけど、あちらはガンガンCGを使いまくっている。だってただの車を使ったアクションなんてもう見飽きてるし、撮影方法についても手が尽くされた状態だ。CGを使って映像を盛っていかないと、過去作よりも凄い・進化した映像なんて撮れるはずがない。
ところが、『マッドマックス』はノーCGで過去のどんな映画のカーチェイスシーンとも似ておらず、かつどんなカーチェイスシーンよりも力強いアクションを作ってしまった。どんなCG使いまくり映画よりも凄まじい、狂気じみた映画を作ってしまった。映画や映像を作っている人たちから見れば、『マッドマックス』のショックはもっと大きかったはずだ。
私は映画を見ながら、1カット1カット止めて見たくなってしまった。……まあしなかったんだけど。というのも1カットもダメカットがない。どのシーンも油断も隙もない狂気が画面に漲っていて、だというのに0.5秒で次のカットに移ってしまう。あまりにももったいない。でも体張って命張って撮ったカットを次から次へとガンガンと出てくるから、この映画特有の贅沢さが出てくる。贅沢に消費しまくる映像に「これが映画だよ」という映画監督の声が聞こえてきそうになった。
そんな気が狂ったカーチェイスシーンの最中にも、きちんと物語が進行している。アクションの邪魔をせず、ご都合主義を感じさせず、物語を展開させていく手腕は流石。
“輸血袋”として連れてこられ、車の先頭にくくりつけられたマックスは、戦闘の混沌状態の最中抜けだし、自分を連れてきたウォー・ボーイを殴り倒して、さらにフュリオサが運転するトラックに突撃特攻しようとしていたウォー・ボーイ(ニュークス)を押しとどめて、命からがら、絶体絶命状況からの脱走に成功する。
私は常々「エンターテインメントとはいかに脱出するか」と語ってきているが、『マッドマックス』冒頭15分から30分のアクションシーンは極上のエンターテインメントだった。全ての要件が完全に、鮮やかで豪快に合わさった完璧なものだった。
狂気じみた砂嵐が去って、マックスがフュリオサのトラックの側へやってくると、そこにいたのは美女5人。そこまでイカレた白塗りの男と奇形しか出てこなかった映画に突然の美女。放射能汚染が進行してしまった世界の中に出てくる美女だから、相当に特別な存在なのだろう。
『マッドマックス』全体が死と地獄の世界として描かれているなかだから、美女を天使的存在として浮いた存在にするため、過剰なくらい美女を揃えてきている。これから向かう先にある(と、思われている)天国的な世界の象徴であり、天界の使者という立場として描かれている(ノーブラで乳首の形が浮き上がっているのがいいよね)。
そんな美女たちの登場シーンが、貞操帯を外す場面だから、彼女たちの立場がどういったものだったのかを物語っている(あれはイモータン・ジョー以外の男が抜け駆けをしないようにするためのもの)。
美女の中の一人、スプレンディド(だったと思う)が出産間近。私はこれを見ながら、「ははぁ、さては最後に赤ちゃんを出産して、「これが私たちの希望!」みたいな感じに映画を終えるつもりだな」とか考えていた。
ところが、スプレンディドは映画の途上で死んでしまうし、お腹の赤ちゃんも死んでしまう。「赤ちゃんを出産して希望的なラスト!」なんていう手ぬるいハッピーエンドはこの映画にはないわけだ。
途中、弾薬について「死の種」と表現する場面があり、イモータン・ジョーに種を植え付けられている女もある意味「死の種」を体に撃ち込まれている……という状況だ。しかもお腹のなかにいたのは男児。この映画で男性はほとんどの場合“忌まわしい存在”として描かれている。天界の美女という立場で登場していたけれども、すでに死の象徴たるイモータン・ジョーによって穢され不浄の存在になっていた。だからスプレンディドは最初から死すべき存在、赤ちゃんも希望の象徴ではなかった。
(映画のカットシーンにオッパイぽろりシーンがあるので、監督は「映倫なんぞ知ったこっちゃねぇ!」という映画を作るつもりだったんだろうね。さすがにそれはできなかったみたいだけど)
マックスは女達に向かって、銃を突きつけ、水とトラックを奪おうとする。
普通の映画では、主人公は正義漢として、とりあえず追われている美女を助けようとする(『ルパン3世』とかね)。が、『マッドマックス』ではそうはしない。この映画において一貫して正義の立場にいたのはフュリオサ。マックスはこのなんだかわからない、気が狂った状況にいきなり放り込まれたある種の被害者だから、この状況から逃げることしか考えていない。
でもよくよく考えてみればマックスの立場はそう。マックスはいきなり誘拐されて、訳のわからない改造車の先頭にくくりつけられて、一歩間違えれば死ぬという状況から奇跡的に脱出できて……という立場だから、フュリオサの事情なんて知らないし(マックスはここで初めてフュリオサと接するわけだから、どういう立場の人なのかわからないはず)、普通に考えれば「とにかく逃げたい」と考えるのが当たり前の心情だ。トラックと水を奪おうとするマックスの行動におかしなものは何一つない。
だからフュリオサと同行し、協力することは“成り行き”に過ぎないし、逃亡するのにそちらのほうが都合がよかった……というだけに過ぎない、という描かれ方になる。
ここの描き方もやはり見事で、ダイアローグで都合良く展開させたりはしない。ほとんど台詞なし。肉体でぶつかり合って、状況の転遷で“仕方なく共謀”する立場に変化していく姿を描いている。この“仕方なく”というところがポイントで、そういう状況にいかに落とし込むか。登場人物に喋らすと言い訳っぽくなり、嘘くさくなる。物語の変化は“仕方なく”でいかに陥らせるかで見せた方がよい。「○○したかった」お話よりも「○○しなければならなかった」の形式にしたほうが力が出る。それを『マッドマックス』はきちっと表現して見せている。『マッドマックス』のように台詞のない映画は、あらかじめ設定でそのように進行せざるを得ない形に作っておくほうがよく、実際その通りに作っている。
(と書いていてふと気付いたが、マックスの台詞って全て足してもウォー・ボーイのニュークスよりも少なかったんじゃないだろうか……)
マックス&フュリオサ一行は峡谷へ。背後をイモータン・ジョーが追跡し、さらに「人食い男爵」「武器将軍」が合流してくる。
(ザ・シネマ版は「武器将軍」が「弾丸農家」になっている。いいネーミングだ)
峡谷の入り口で、モトクロスバイクに乗った男達イワオニ族がフュリオサ運転するトラックを見下ろす。ここの構図がまんま『駅馬車』。突然に『駅馬車』オマージュが挿入される。でもこの時代の馬はすでに絶滅してしまっているので、その代わりに出てくるのがモトクロスバイク。
いろいろあって、フュリオサは今度はイワオニ族に襲われるわけだが、このモトクロスバイクの動きがまた見事。バイクだというのに生物的な動きを感じさせる。機械に乗っているとは感じさせない。馬の代わりにバイクなわけだけど、ある意味でそれらしい、いやそれ以上の躍動感を表現している。トラックの下に滑り込んで、そのまま乗り込んでくるのは本当、とんでもない曲芸。やはりノーCGだと思うが、いったいどんな技なのか。
峡谷を切り抜けると、映画の時間はようやく夜に。暗いブルーと照明のオレンジの色が美しかった。
そんな最中でも追跡してくる「弾丸農家」こと「武器将軍」。「武器将軍」と「人食い男爵」はあまり掘り下げられなかったのがちょっと惜しい。イモータン・ジョーの根城シタデルは冒頭15分かけて、コミュニティのいびつさをたっぷり表現していったのに対し、「武器将軍」と「人食い男爵」は登場した次にはもう死んでしまう。映画の構成上そうならざるを得ないのだけど、どうにももったいない。
(人食い男爵、乳首のところ破けていて、チェーンで繋がっているのが笑えてしまう。お前は『変態仮面』のキャラクターか!)
一晩夜通しで走り抜けて、フュリオサはようやく目的地に。フュリオサも誘拐されてきた被害者。シタデルで生き抜いて出世して信頼を得て、その上でチャンスを掴んで脱走して、およそ7000日という時間を経てついに同郷の人々と巡り会うことになる。
しかしフュリオサの希望はすでに失われていた。“緑の地”は汚染され、崩壊していた。
「緑の地に到達する」という目標に向かって物語が進行していたのに、その目標はすでにこの地から消え去っていた。この事実を知り、落胆するフュリオサ。こういう場面を見ても、映画の主人公が実はフュリオサであることが伝わってくる。フュリオサの挑戦、葛藤、落胆……そしてそこから乗り越えて成長と解放が描かれていく。最後の最後で実は「フュリオサ英雄譚」の映画だとわかるわけだけど、こういうところで英雄の心情がしっかり描かれている。
しかもこういう場面がアクション映画の最中にあって“停滞”の場とは感じさせない。こういった映画の場合、物語は“説明パート”に陥りがち、退屈になりがちだけど、ドラマとしての力強さを失わず、かつサクッと短く収めている。物語パートが無駄に長いアクション映画はだいた退屈だからね……。
マックスは何なのかというと、可哀想な被害者。一方的に誘拐されて巻き込まれただけの人だからね……。
でもマックスはここで、この映画中唯一というべき仕事をする。それはむしろ逆走して、シタデルの砦を占領してしまおう、というもの。この先どこまで進んでも緑(楽園、あるいは約束の地)などに行き着くことはない。だったら水と食料がある砦を目指して奪い取ってやろう、と。
進んでも地獄、戻っても地獄……。どうせ同じ地獄が待ち構えているなら、少しでも希望ある地獄のほうへ突き進んでやろう。と、この映画らしい、男気溢れる発想の大逆転を提案する。
またここでマックスの立場も変わる。これまでマックスは「仕方なく同行していた」という立場に過ぎず、フュリオサたちを助けようというよりかは、自分が助かるために助けていた……という感じだった。それがこの場面を経て、フュリオサのために戦おう、という意識の転換を描いている。
いよいよ映画のクライマックス。「頭のおかしいチェイスシーン」の第2幕が展開する。今度は「棒高跳び」が登場してくるわけだが、この棒高跳び男の悪魔的雰囲気がなんともいえない。頭上からぬっと迫ってきて、女達を掴んで去って行く。かつての民話で描かれていたような、子供を誘拐していく悪魔を連想させる。それでいて、相変わらず危険なスタントの連発。あんな猛スピードで滑走している最中、安定しない長い棒をゆらゆらさせてタイミングを合わせるのは相当覚悟を決めてないとできないだろう。
映画もクライマックスなので、基本的には前半のアクションのリファレンスなのだけど、ドラマが乗っていて、それぞれのシーンの重さが違ってきている。かつてウォー・ボーイだったが改心し、美女達に命を捧げるニュークス。イモータン・ジョーとの宿命対決に向き合うフュリオサ。第1幕と違って八面六臂の大活劇を繰り広げるマックス。燃えあがるシーンの連続だ。
そのラストは大クラッシュ! イカレた改造車の一群を思いっきり破壊する。これはアレだ。ロッカーがライブを終えた後、楽器を破壊するパフォーマンスと一緒だ。ここまで作り上げたものを最後の最後で派手にぶっ壊して、その上で「さあ映画は終わり! 帰って寝ろ!」の宣言をしている。見ている側としても、どこで終わりなのか、気持ちの切り替わりが付けられるので良い。
最後の戦いで、フュリオサは瀕死の重傷を負う。これは「生まれ変わり」を意味するシーンだ。フュリオサはイモータン・ジョーを裏切って逃亡した立場だけど、でも地獄にどっぷり浸かっていた人間だ。その肉体も魂も不浄で穢れている。
そこで一回死んで、別の人間に生まれ変わろうとしている。「地獄の使者という立場のフュリオサ」はここで一回死亡し、高潔な「英雄たるフュリオサ」として転生する。この次のシーンに向けた橋渡しとして、生まれ変わりは必要なプロセスだった。
ここでマックスは映画中2度目のお仕事(唯一と言いながら2回目)。“天使”としてフュリオサの転生を手助けし、促す。フュリオサは英雄にならねばならない人間なので、最終的には自力で這い上がらなければならないが、マックスの補助を借りて、見事転生を果たしてみせる。
その次がラストシーン。イモータン・ジョーの死が宣言され、フュリオサは革命をもたらした英雄・救世主として人々から崇められる。イモータン・ジョーの退廃的な忌まわしい信仰から、希望的なフュリオサ王の治世への転換を描いて終わる。
『マッドマックス 怒りのデスロード』はある意味での神話物語だ。フュリオサは女達を奪ってイモータン・ジョーの怒りを買い、追跡を受けるわけだが、これは「火を盗んで逃走したプロメテウス」のようなお話。そのプロメテウスことフュリオサが逃走し、その後逆転して古い神を打倒して新たな統治を作るわけだから、『マッドマックス』は全体が神話の構造になっている。さらに映画自体が“お祭り的狂騒”で満たされているわけだから、これはもう完全に神話物語。荒廃したディストピアSFと思わせて、実は神話だった、というのが『マッドマックス 怒りのデスロード』だ。
その最後を見届けて、マックスは人知れず去って行く。『椿三十郎』のオマージュだ。マックスは『椿三十郎』ほど正義の立場にはいなかったけれども。破滅寸前のコミュニティを救い、希望的な未来への道筋を作り、その上で去って行く。『椿三十郎』オマージュだけど、これ以上ない「かっこいい男の去り方」である。『マッドマックス 怒りのデスロード』の主人公はあくまでフュリオサでマックスはその見届け人くらいの存在でしかなかったわけだけど、こういうところで主人公の立場をきちんと確保している。
噂に聞いていた『マッドマックス』。予想以上のトンデモ映画だった。
予告編を見ていたときは、正直なところ、そこまで惹かれる作品ではなかった。なにしろ頭のおかしい改造車ばかりが出てきて、これでアクションする……と言われてもピンと来ていなかった。しかもノーCGで、というのは聞いていた。
でも今の時代にノーCGの車スタントなんて、大した映像作れないんじゃない? ……とか思っていた。ええ、殴っていいですよ。予告編だとそれくらいしか予想できなかったんですもの。
実際映像は想像を遙かに越えるものだった。想像していたものとぜんぜん違っていた。全てにおいてイカレている。狂気の映像が次々と流れていく。作った奴は馬鹿なのか天才なのか、よくわからない。私はこの映画を夜の12時に見終えたけど、その後眠れなくなった。眠れるわけがない!
『マッドマックス』の映像を見ながら、映画はかくあるべきだなぁ……としみじみ思った。想定通りの映像を作っちゃいけない。想像を下回る展開を描いちゃいけない。私たちの知っているもの、理解しているものの向こう側を描く。だからこそ映画は“アート”なのだ。想定以下の作品というのはアートじゃなくて“商業作品”。アートというのは前時代に描かれたものに対してカウンターを示さなければならず、完成度の高いカウンターこそをアートと呼ぶ。「カーチェイス」という手垢の付きまくった、もうこれ以上進化のしようがない……と思われていたモチーフでも、アイデア次第、見せ方次第でここまで新しく、狂気じみているように感じさせる映像を撮ることができる。しかもノーCGで!! これをなし得ることができる人を天才と呼ぶべきなのだ。
ただ、このクオリティのものがこれからカーチェイスの基本ラインになるかどうか……というのはよくわからない。なにしろ『マッドマックス』は映画史全体を見ても異端の映画。どのように語り残されていくのかわからない。「伝説のカルト映画」として残るのか、それとも次世代映画の「基準」となるのか。例えばスティーブン・スピルバーグの『ジュラシック・パーク』は次世代映画の「基準」になった。『マッドマックス』がそういうポジションに入るのかどうかは、よくわからない。
『マッドマックス』4作目の映画が撮影される……という話は実際の制作が始まる何年も前から聞いていた。しかしありとあらゆるトラブルに見舞われ、中断され延期され、なかなか撮影にGOサインが出ない。そのうちにも主演交代、ロケ地変更……普通の映画だと、ここまでトラブル続きの映画は良い映画にはならない。実際、最初の構想時には面白そう、ヒット確定の映画だったのに、撮影中の様々なトラブルの結果、駄作映画になってしまった映画を何本も見てきた。
ところが、だ。『マッドマックス 怒りのデスロード』はありとあらゆるトラブルを撥ね付けて、とんでもない傑作に仕上げて見せた。しかも監督ジョージ・ミラーは70歳!
おそらくは3作目が終了した後、ジョージ・ミラー監督の脳内で『マッドマックス』は終わらず、ずっと育って熟成して発酵し続けたのだろう。それが最高の味わいを持ったタイミングで映画として結実したのだ。
『マッドマックス』3作目からおよそ30年が過ぎていて、ほとんどのお客さんはマックスが何者かわからない……というのに映画中一切説明しない。このとんでもない潔さ! このあたりはジョージ・ミラー監督の脳内で「そういうのはもう終わったから」という感覚だったのだろう。監督の脳内で物語はずーっと動いていて、確かに断絶が30年あったけれども、監督の脳内では去年くらいの感覚だ。だから前回のあらすじなんかはもういらん! さっさと物語を始めるぞ! アクション始めるぞ! ……と。ぜんぶ私の想像だけど。
誰にも配慮しない。振り切って突き抜ける。そして豪快に振り切った挙げ句、狂気の映画が産み落とされてしまった。ジョージ・ミラー70歳だが、どんな若者よりもロックロールしている。真の表現者にして芸術家だ。
1つ惜しいな、と思うのは……映画館で観たかった、ってことかな。
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