映画感想文 ミッション・インポッシブル6 フォールアウト
トム・クルーズ映画第3弾! 『ミッション・インポッシブル:フォールアウト』!! “今のところ”劇場公開されている作品の中では最新作、ということになる。タイトルの『フォールアウト』は「放射性降下物」という意味。
監督はクリストファー・マッカリー。シリーズで初めて前作から同じ監督が続投することになった。クリストファー・マッカリーはもともと脚本の名手なので、脚本も担当。
しかも本作のトム・クルーズの相手役を務めるのは、スーパーマンことヘンリー・ガヴィル! トム・クルーズ×ヘンリー・ガヴィルという組み合わせは嬉しい。
トム・クルーズほど身体能力の高いアクション俳優になってくると、「相手役」はなかなか難しくなってしまう。並の俳優ではトム・クルーズの身体能力では追いつかなくなるし、身体能力だけで採用しても「存在感」というところで見劣りしてしまう。正直なところ、『ミッション・インポッシブル』シリーズの悪役って毎回存在感が薄かった。トム・クルーズの相手役を張れるほどの俳優が出てきていないし、そういう身体能力と存在感を併せ持った俳優はそうそういない。というところで、トム・クルーズが白羽の矢を立てたのがヘンリー・ガヴィルだったのだろう。ヘンリー・ガヴィルの役どころが何で、どういった対決を見せるのか……というところも見所だ。
本作の評価は、Rotten Tomatoesでは批評家支持率97%、平均点は10点満点で8.37。「シリーズ最高傑作」とする声が多い。
でも実はAmazonのレビューでは少々荒れ気味……。どういうことかというと、タレント声優の起用(おかしな言葉)。ベテラン声優の中に混じる、素人同然の演技が許せない……という声が多数。確かにヘンリー・ガヴィルの吹き替えにDAIGOはないわな。吹き替えに有名なだけの素人を起用する……日本の映画市場にまとわりつく悪慣習の産物。なかなかなくらない困った産物だ。
そうはいっても、それでもAmazon評価は4.5と非常に高い。本作がどれだけ高く評価されているかが、これだけでもわかってくる。
ではいつものように本編を観てみよう。
冒頭のシーンはイーサン・ハントが隠れ家で眠っているところから始まる。かつての妻との結婚式の最中に核爆発が起きる……という不吉な夢から目を覚ますと、“本部からの指令”が届くのだった。
指令の内容は――
2年前にソロモン・レーンは逮捕されたが、彼の組織シンジケートは“神の使徒(アポストル)”を名乗り、活動を続行した。アポストルは最近ではカシミールで天然痘をばらまくテロを行った。カシミールはインド・中国・パキスタンと国境を接する国で、カシミールから病気が広まると、世界人口の3分の1が危険にさらされることになる。
このテロは防ぐことはできたが、アポストルは新しい雇い主を獲得し、新たな活動を画策している。その雇い主の名前はコード名ジョン・ラーク。ジョン・ラークは核兵器専門家デルブルックの失踪に関わり、世界秩序の破壊を予告する不吉な声明文(ちょっと恥ずかしい内容だ)を書いて送りつけてきた。
アポストルはロシアのミサイル基地から3コのプルトニウム・コアを盗んだ東欧マフィアと接触。このコアがあれば、核兵器専門家デルブルックならわずか72時間で3コの核爆発装置を作ることができる。
イーサン・ハントの任務は、このプルトニウム・コアがアポストルの手に渡ることの阻止!
さっそく、イーサン・ハントはベルリンで件の東欧マフィアと接触し、アポストルを偽ってプルトニウム・コアを買い取ろうとする。
しかし、そこに本物のアポストルが介入してきて、プルトニウム・コアはまんまと盗み出されてしまう。
その一方、デルブルックの確保には成功。デルブルックをうまく騙し、核爆発装置の図面を入手する。
しかし肝心のプルトニウム・コアは以前行方不明のまま。イーサン・ハントはプルトニウム・コアを奪われてしまった失敗を挽回しなければならない。
デルブルックの携帯電話を解析して、とある女と線が繋がった。女は表向きには慈善事業家だが、裏では“白蜘蛛(ホワイト・ウィドウ)”と呼ばれる武器密輸と資金洗浄の専門家。政界とのコネで身を守っている。
ホワイト・ウィドウは近々パリのグラン・パレでラークと接触し、プルトニウムを取引するらしい。
イーサン・ハントの次なる任務は、ラークになりすまし、ホワイト・ウィドウと接触して今度こそプルトニウム・コアを手に入れること。
だがそこにCIAのスローン長官が介入してくる。CIA長官はイーサン・ハントを信用しておらず、自分の部下であるウォーカー諜報員を監視に付けさせる。
イーサン・ハントはウォーカーとともに任務に就くことになり、パリへと潜入する……。
ここまでが冒頭25分。
なかなかものすごい情報量で、初見ですべて頭に入れて理解するのは難しいので、前提となるものは予習でもしておいたほうがいいかも知れない。
まず、お話は前作から続きになっている。ソロモン・レーンは物語の重要人物として再登場するし、ソロモン・レーンの犯罪組織シンジケートは「アポストル」と名前を変えて存続している。そのアポストルは核爆弾を使ったテロを画策している……アメリカは核爆弾好きねぇ……一度も被爆していないからこその気楽さなんだけど。シンジケートが存続しているのは、あの時の資金がたぶんどっかで引き出されて、活動費として使われているから……ということなんでしょう。
問題はアポストルの新しいボス、ジョン・ラークという人物について。ジョン・ラークが何者なのか? ……が本作のミステリー的な核となっている。
まず、最初のシーンから見てみよう。
冒頭の夢のシーンはさておくとして、そこから目覚めたイーサン・ハント。どこかの隠れ家のようだ。このシーンはちょっと変な描写で、半分が「イーサン・ハントの内面」であり、半分が「現実」という描き方。あの鉄骨剥き出しの、寒々とした空間は、イーサン・ハントの内面(あるいは精神世界)を示している。そこに送り込まれてくるのが、IMF本部からの指令。
孤独で空っぽな人生観に、昔好きだった女の夢を見ながら、その空っぽの空間を埋めるのは危険なミッションだけで……。というイーサン・ハントの「今」を示している。
その指令を受け取る時、変な言葉のやり取りがある。
「運命が戦士に囁く」
「嵐が来る」
「戦士の答えは?」
「私が嵐だ」
要するに、イーサン・ハントに間もなく「運命」が迫ってきますよ。大きな嵐が来るけど、その嵐が自分自身。イーサン・ハントが運命の中心地……ということ。
で、渡される本が『オデッセイア』。西洋の教養人がみんな読んでいる本だ(私は読んだことない)。『オデッセイア』の前半部分ではオデッセイアはトロイア戦争で戦死したと思われていて、その妻であるペネロペにはたくさんの求婚者がやってくる……という始まり方。
イーサン・ハントのかつての妻にも、求婚者がきていて……と、この辺りのお話は映画後半に関わってくる。『オデッセイア』で予見的に描いている。
その『オデッセイア』の中から指令が出てくるのだけど、イーサン・ハントはあまり真剣に見ていない。いや、真剣に見て入るけど、時々視線を逸らして、何か考え事をするような仕草を見せる。イーサン・ハントにも迷いが浮かんでいる……という姿が見えてくる。
ここから続いて、舞台はベルリン。
……だけど、描かれているのはどこかの地下。ベルリンらしい周囲の風景が見えてこない。『ミッション・インポッシブル』といえば、毎回それぞれの地域をヘリショットで見せるのがお約束だったのに、ちょっと不思議な感じ。
たぶん、まだ半分くらいイーサン・ハントの精神世界の中にいる……ということなのだろう。
このベルリンでのミッションで、イーサン・ハントは初歩的なミスを犯し、プルトニウム・コアを奪われてしまう。仲間を人質に取られて、プルトニウムを入れたアタッシュ・ケースから目を離してしまう……というこれまでにないような間抜けなミス。
この辺りでもイーサン・ハントの「迷い」が反映されている、ということなのでしょう。
ここから続いて、核兵器専門家デルブルックをいきなり逮捕した後、というシーンへと移る。お話が飛び飛びだし、ずっと密室だから、お話がちょっと把握しづらいような感じになっている。
この辺りは、私としては「前回のあらすじ」みたいな感じだな……と思って見ることにした。ほら『スターウォーズ』の冒頭で、ながーい説明文が出てくるでしょう。前作と今作の間にコレコレこういうことがあって……という説明。そういうところを描いているところだ……まだ本編は始まってないんだ。
で、このシーンもまたしても「密室」。しかも「虚構空間」。やっぱりイーサン・ハントの内面描写みたいな感じになってしまっている。
このシーンで、核爆弾の図面だけはとりあえず入手しました、と。今回はとにかくお話の情報量が多いので、押さえておかなければならない前景が多く、前半の25分の間にこれを収めよう、とずいぶんみっちり詰まっている感が出ている。
このシーンのラストで、オープニングシーンに入る。映画が始まって16分。オープニングを入れて、「ここから本編始まりますよ」という区切りになっている。
舞台はドイツ、ラムシュタイン空軍基地。ようやくシーンが屋外へ出て、カメラもスーッと移動していく。「物語が始まった」という感じが出てくる。
でも、映画は始まったと思ったらまた解説から始まる。解説をしてくれるのは、新しいIMF長官ことアラン・ハンリー。前作、イーサン・ハントを解任させようとあれだけ躍起になっていたのに、もうすっかりイーサン・ハントの仲間。2年の間に何があったのやら……。
そこにやってくるのが、これまた新しいCIA長官(アラン・ハンリーの後釜だね)のエリカ・スローン。CIA長官はやっぱりIMFとイーサン・ハントに不信感を抱いていて、CIAスタッフを同行させたい、と申し出てくる。その同行させたい諜報員というのがスーパーマンことヘンリー・ガヴィル。イーサン・ハントとスーパーマンがコンビを組む、というだけでもドキドキするね。
で、このドイツ空軍基地からエアバスに乗り、フランス領空内へ侵入し、パラシュートで目的地へと侵入する。
……なんのために? 普通に車なり列車なりでフランスに行けばいいじゃんか。
でも、これが映画としてのショーの部分。「普通に車や列車でフランスに入った……というんじゃつまんないでしょ」と。常識的すぎて。だから空からパラシュートで派手派手しく侵入シーンを描く。「映像として面白ければ正解」なのだ。映像としてつまんなかったら不正解……が映画の世界なので、そういう意味でパラシュートでの侵入は正解。(スパイ活動としては不正解。あんな証拠残しまくりな潜入はない。でもそんな常識を言ったら映画として面白くなくなる)
ところで、私はこのシーン、CGだと思い込んでいたのだけど……どうやら本物だったようで。あまりにもカメラがスムーズなので、ガチ撮影っていうのに驚きなんだけど。しかも落下しつつ、相当に危ない芝居も入るし。よくぞあそこまでやりきったなぁ……。
パリのグラン・パレに侵入し、ここでジョン・ラークを探すフェーズに入る。かくしてジョン・ラークはトイレにいたわけだが……。
本作も出資には中国企業が関わってきて、スポンサーへの配慮、ということでジョン・ラークは中華系。唐突なカンフーバトルが始まるわけだが、まあ味付けとして悪くない。普通の西洋人同士の殴り合いだったら、平凡な格闘シーンができあがっていたところ。むしろ唐突なカンフーアクションのおかげで、際立つシーンになっている。
このジョン・ラークを眠らせて、その覆面を作り、ジョン・ラークになりすましてホワイト・ウィドウと接触する予定だったが、しかし殴り合いの末に殺してしまうことになり……。
ジョン・ラークとホワイト・ウィドウは初対面のはずだ。誰もジョン・ラークの顔を知らないはずだ……とイーサン・ハントは覆面なしでホワイト・ウィドウと接触することに。4作目でもやったやつだね。
イーサン・ハントとホワイト・ウィドウが会った時、こういう台詞のやり取りがある。
「あなたがジョン・ラークなの?」
「いや違う。偽名だ」
うまい台詞のやり取りだ。イーサン・ハントは嘘は言っていない。自分からジョン・ラークとは言ってないし、ジョン・ラークは「偽名」だと明言している。嘘は言ってないが、本当のことも言ってない。
で、ジョン・ラークはあらゆる殺し屋に狙われている。この時も、イーサン・ハントをジョン・ラークだと思った殺し屋たちが迫ってきていて……。
ここも上手いところで、イーサン・ハントは自分ではなく「君が狙われている」と忠告する。よくよく映像を確かめると、殺し屋たちはイーサン・ハントを殺しにかかっている。でもイーサン・ハントはまんまと「殺し屋たちはホワイト・ウィドウを殺しに来ている」と思わせ、それを守るフリをして殺し屋たちを倒し、信用を得ることに成功する。
イーサン・ハントはホワイト・ウィドウのアジトに招かれ、計画を聞かされる。ホワイト・ウィドウたちがプルトニウム・コアを持っているわけではない。あくまで「仲介屋」。プルトニウム・コアはお金ではなく、ある人物と引き換えだという。その人物が――ソロモン・レーン。
ソロモン・レーンは近々、パリ市内を移送される。その途中で妨害し、拉致するという作戦だった。
しかし、その作戦通りに進めると、罪のない一般警官を殺すことになる。イーサン・ハントはどうする……?
一方その頃、ウォーカー諜報員はCIA長官に、「イーサン・ハントこそジョン・ラークだ」と嘘の報告をする。「これが証拠品です」とスマートフォンを手渡す。ジョン・ラーク殺害現場のトイレで手に入れたもの……というが、ひび割れが入っていない。ニセモノだ。ウォーカー諜報員の目的とは……?
という引っ掛かりを作ったところで、50分。前半パート終了となる。
ここからパリでのアクションシーンに入っていく。
まあ……よくも許可が取れたものだな……。パリのカーチェイスシーンの前例はないわけではないけど、規制がかなり厳しいんじゃないだろうか。それを、あれだけの大規模で展開させていく……許可を取るだけでも結構な交渉があったんじゃないだろうか。
凱旋門周囲のロータリーをノーヘルバイクで逆走していくシーンがあったのだけど、あんなシーンを撮るにはあの周辺を撮影で封鎖させなければならないはずで……。『ラッシュアワー』という映画でも凱旋門前の通りが出てくるシーンがあったのだけど、明らかに合成だった。凱旋門周辺を封鎖して、よくあれだけの規模の撮影ができたものだな……。それができるから『ミッション・インポッシブル』という映画が特別なんだ、ということなのだろう。(映画制作者の中に諜報員でもいるのか?)
パリ市内でのバイクチェイス、カーチェイスはすべてトム・クルーズ本人によるスタント。本当に見事だった。スタントマンとしても一流のテクニックだ。
このバイクチェイスシーンは、ほぼきっかり1時間ほどのところで終了。
ここからちょっと引っ掛かりのあるシーンで……ソロモン・レーンを車に乗せて連れて行こうとしたところで、パリの婦警に発見される。どうしてこんなシーンを描いたかというと、イーサン・ハントの「正義のヒーロー」としての面を描写するため。でも、その切っ掛けがあまりにも間抜けで……。シャッター開ける前に、ソロモン・レーンをまず車に乗せるべきだろう。
で、そのソロモン・レーンをなぜか助手席に座らせる。あんな覆面&拘束具を付けた男を乗せて運転していたら、すぐにでも警官に止められる。荷台にでも放り込んでおくべきでしょう。
どうしてわざわざソロモン・レーンを助手席に座らせたのか、というとイルサに狙撃させるため。映画的な目的を露骨に見せすぎている。多くのシーンはうまく描いているのに、ここだけなんで変な隙を作っているのだろう?
さて、ここまででだいたい前半パートが終了。中盤パートで「意外な真実」が明らかにされ、終盤パートへと入っていく構成になっている。中盤パートに明かされる「真実」がなんなのかは、見てのお楽しみ。
前作に続いて、またまた登場のイルサ。イルサだけど、イーサン・ハントはたびたびかつての妻・ジュリア・ミードの姿を夢に見るのだけど、髪型がイルサと一緒にしている。イルサとジュリアの姿がわざと被るように描いている。イーサン・ハントの意識の中で2人の女性の姿がダブっている様子を描いている。
イーサン・ハントはイルサがミッションの現場にいるのを見て「引退しろよ!」と厳しく言う。なぜそう言うのかというと、イルサの身を案じているから。厳しく言って、任務から追い出そうとしていた。しかしイルサはイルサで、引退できない理由を抱えていて……。
イーサン・ハントの中で、だんだんイルサの姿の向こうに、ジュリアが残像のように見え始めている。イルサとジュリアは鏡面の存在として描かれている。果たしてイーサンはどちらを選ぶのか……? 夢の中のジュリアか、現実のイルサか……。
その一方で、イーサン・ハントは「ジョン・ラーク疑惑」を掛けられていく。イーサン・ハントとジョン・ラークの姿がダブっていく。冒頭で、「私が嵐だ」と答える場面がある。その冒頭でイーサン・ハントはあえて「実像の曖昧な人間」として描かれている。
イーサン・ハントはジョン・ラークではないわけだが、常に嵐の中心地で移動している。作品の中で「国に尽くしてきたのに、国に裏切られた者がどうなるか……」と語られる。いつかイーサン・ハントがジョン・ラークになるかもしれない……。その危うさが、「裏テーマ」として描かれていく。
もしもミッションに失敗したら、結果的にイーサン・ハント自身が「嵐」の中心だったということになり、「イーサン・ハント=ジョン・ラーク」が成立してしまうことになる。
最終的に「僕こそイーサン・ハントだ!」という自立と覚醒のために、戦いを選んでいく。
本作には……いや、ハリウッド映画にはよくあることだけど、本作にも「本筋と関係ないアクション」と「関係のあるアクション」の2通りがある。
本筋と関係ないアクションは、前半のシーンではパラシュートでパリへ侵入するシーン。第4作目のドバイタワーに登るシーンと同じく、本筋と関係がない。
ソロモン・レーンを確保するシーン、トラックで突撃し、身柄を確保し逃亡する……というところまでは本筋と関係がある。しかしその後のバイクチェイスシーンは実は必要がない。バイクチェイスシーンが挿入されたのは、イーサン・ハントが「バイクのエンジンがなかなかかからなかった」という間抜けな失敗をやらかして描かれたもの。本当は必要なかったが、「パリでのチェイスシーン」を描くために無理矢理に理由を作って描かれたシーンだ。バイクチェイスシーンの後のカーチェイスシーンも、かなり無理矢理に理由が作られて描かれている(まずソロモン・レーンをもっと安全なところに隠しておけ……と)。
ついでにスパイアクションの中では、不思議なガジェットが一杯出てくるが、アクションシーンになるとこれらのガジェットが登場しなくなる。「スパイアクション」と「アクション」ははっきりと「別モノ」として作られている。
本作に限らず、『ミッション・インポッシブル』シリーズは物語の本筋とは関係ないところでアクションで膨らまされた作品だ。でもその本筋と関係ないアクションが最高に面白い……というのが特徴である。第4作目のドバイタワーをよじ登る場面も本筋とは関係ないが最高に面白かった。本作のバイクチェイスシーンも、本筋とは関係ないが、シーンとしては最高。というか、本筋だけだと実はさほど面白くない……というのが『ミッション・インポッシブル』の本当のところだったりする。
でも逆に言うと、その「本筋と関係ない」ところが『ミッション・インポッシブル』の「面白さの核」とも言える。関係ないところこそが「本筋」である、と。
『ミッション・インポッシブル』からスタントアクションを取ったら何が残るのか……。スパイアクションのストーリーが残るけれど、こっちはほとんど説明台詞ばかりで、本作のように登場人物が複雑になってくると何が何だかわからなくなってしまう。『ミッション・インポッシブル』にとって物語は、アクションを見せるための添え物でしかない。
といってもその添え物がつまらなかったら、釣り合いが取れない。極上のアクションを正当化させるだけの「重厚さ」と「物語」がなければならない。そこで世界を脅かすテロリストがどうのこうの……という話になっていく。そのテロリストの主張だけど、どうにも納得がいかない。第4作目の核戦争支持者の意見も、本作の放射能を拡散させようとしているテロリストも、正当性があるとは思えない。「いや、どう考えても良くはならんだろ」……というものばかり。
いや、そうじゃなくて、大事なのは1点だけ。「風呂敷の大きさ」。それだけ大きな風呂敷がなければ、「パリの上空からパラシュートで侵入する」とか「パリ市内でバイクチェイス」といった活劇が浮いてしまう。「何やってんだ、この人たち」という観客の気持ちを冷まさないだけの、真実味と風呂敷の大きさが必要になる(冷静に考えればだいぶ変なことやっている)。脚本はそこはきちんと押さえている。そこはさすがに脚本の名手といったところ。
『ミッション・インポッシブル』に対する批判でよくあるのは、主人公は結局はイーサン・ハントじゃなくて、トム・クルーズじゃないか。トム・クルーズがすごいスタントを見せたいがためだけに作られている映画じゃないか……。
それで大正解。トム・クルーズがいかに素晴らしい身体能力を持っているか、存在感を持っているか、情熱を持っているか……。それを表現するために『ミッション・インポッシブル』は作られている。トム・クルーズは1人の俳優だけど、しかしその身に抑えきれない情熱を持っている。その発露する場としてこの映画がある。
でもそれでいいじゃないか。映画は面白いし、スタントシーンはどれも素晴らしい。トム・クルーズはどんなスタントマンよりも優れたパフォーマンスを映画の中で示している。これができるということは、やはりスターとしての存在感があるから。そうした意欲を発露する場所として、この映画があって、それが面白いものになっているならば、なんだっていい。「映画は面白ければ正解」なのだから。
まとめると、「トム・クルーズ最高!」ってこと。『ミッション・インポッシブル』はそれでいいじゃないか。トム・クルーズの個人的な映画であったとしても、面白いからそれでいいんだ。そういう(実はヘンな)映画が映画史の中で1本くらいあってもいい。
次回作『ミッション・インポッシブル7』についてだけど、実はすでに撮影が完了して、ポストプロダクションも完了している……とか。しかも2021年の時点で。劇場公開可能な状態になっているが、しかし例のなんとかウイルス蔓延の影響で延期につぐ延期。2022年3月現在もまだ公開されていない。
どうも2023年まで公開されないとか……。鉄壁のイーサン・ハントでも、ウイルスには勝てなかったか(映画の中では天然痘の蔓延は直前に阻止できていたのに)。