映画感想 ドクター・スリープ
まず始めに告白すべきことは、私は前作にあたる映画『シャイニング』を2度見ているが、その面白さを理解していない。これだけの有名な作品、名作と評される作品だから何かあるはずだ……と思って2回見たが、しかし作品から何も掴むことができなかった。
それから『シャイニング』の原作、さらに『ドクター・スリープ』の原作も読んでいない。『ドクター・スリープ』の映画を視聴するうえで『シャイニング』の原作を読んでいないことがどれだけ致命的であるかというと、本作『ドクター・スリープ』は映画の『シャイニング』、原作の『シャイニング』両方をフォローしつつ続編を制作している……と評されている作品だからだ。『ドクター・スリープ』という作品を語る上で、肝心の原作版『シャイニング』を読んでいない、というのはそれだけ作品に対する理解度が落ちるという意味だ。
有名な話だが映画『シャイニング』は原作と展開や結末が違っており、作者であるスティーブン・キングはスタンリー・キューブリックの映画版を酷評している。それで後にスティーブン・キングは自分自身でテレビ映画版として『シャイニング』を制作している。私はテレビ映画版も視聴したが……5時間くらいあったかな。しんどかった。
!ネタバレあり!
映画の感想 って、これ能力バトルものじゃないか!
ドクター・スリープ 本予告
映画の冒頭は、あのオーバールックホテルから生還したダニーとウェンディの母子の“その後”の物語から始まる。少年役がなかなかの美少年だ。母子にとってオーバールックホテルでの出来事は過去となり、平穏な日々を取り戻したかのように思えたが、ダニー少年はいまだにあの老婆の亡霊を見かけていた。
幽霊には2つのパターンがあり、「場所に紐付く」場合と、「人に取り憑く」場合がある。場所に紐付いた幽霊は、その場所から逃れたら以降姿を見かけることもなくなるが、人に取り憑くタイプの幽霊はどれだけ逃げても、逃げた先で出現してしまう。オーバールックホテルはその場所自体が超強力な磁場として機能していたが、幽霊のいくつは人に憑いて、別の場所で出現できるようである。
幽霊とは場所を移すことができる。元の場所によく似た場所を用意し、その場所で祈祷などを行えば幽霊を移すことができる。古くから神社の移設などはこの方法が使われていたし、各地に建てられた同系列神社もこの理屈を採用している。
幽霊は移動させられる。この理屈を用いて、昔の人は呪術や祈祷で幽霊を移したり、増やしたりしていた。
幽霊とは、信仰する人々とともに移動していく。例えばアイルランド人は泣き女の霊バンシーを信仰していたが、その彼らがアメリカへ移民していく最中、アメリカでも泣き女の霊が目撃されるようになった。
人に憑いてきてしまう霊とは、本人の意思とは無関係に、勝手に憑いてきてしまう霊のことだ。
憑いてきてしまった霊というのが、あの有名なバスタブの老婆の幽霊だ。映画『シャイニング』で237号室に登場した。
もともとは60歳の老婆で、若い愛人と宿泊していたが、その愛人が逃げ出してしまったために、老婆は絶望して睡眠薬を大量に飲んでバスタブの中で自殺した。それ以降、237号室のバスタブに出没するようになった……という。
『ドクター・スリープ』でこの老婆が登場するシーン、約束事のようにカーテンをゆっくり開けて姿を現す。なぜだかこの場面を見て笑えてしまった。ああいった場面は見慣れたものだから、もはや恐怖は感じない。「お婆ちゃん今日も笑顔だねぇ」みたいなシュールな笑いが浮かんでしまう。見た目が恐ろしく作られているが、毎度の約束事のようにカーテンを開ける場面から始まるし、よくよく見るとヨボヨボのお婆ちゃんだから脅威を感じない。
後半、アブラに「やってみな」と挑発されて引っ込むシーンもあり、なんだか「怖い」というか「愛らしく」感じられてしまう。
ダニー少年はディック・ハロランの助言を聞き、老婆の幽霊を箱の中に封印する。
ここまでが12分。前作を継承するプロローグだ。前作の後始末となる部分が描かれ、また後々の伏線となるフックが描かれている。
次に登場するのは、ダニー少年がオビワン・ケノービとなった後の姿である。ああ、違う。ダニーの能力は“フォース”ではなく“シャイニング”だ。どちらも似通った異能だから、ついつい間違えてしまった。
(ユアン・マクレガーの髭面を見るとどうしてもオビワンだと思ってしまう)
大人になったダニーはいまだに幻覚を見るし、自身の能力を隠すために酒浸りの日々を過ごしていた。アルコール中毒はダニーの父親も陥っていた状態で、その息子であるダニーも同じ状態に陥っていた。
それはさておき、ダニーの物語と並行して「トゥルー・ノット」と名乗る怪しい一団の姿が描かれる。ローズを筆頭とする異能力集団で、同じように異能を持つ少年少女を誘拐し、殺害する最中、その口から漏れる魂をすすって生きながらえる怪物達である。
そのやり方というのがなかなかおぞましく、さっと殺すのではなく、少しずつ苦痛を与えると口から少しずつ魂が漏れるので、それをすするというやり方を採っている。苦しませたほうがより濃い魂が出るから……という理屈だそうで、そのためにすぐには殺さず、少しずつ少しずつ苦しませ続けるという、被害者にとってはたまったものではない。
魂が口から抜けていく……という現象をどう捉えるべきだろう。
『金枝編』には次のように書かれている。
「人間神が年を取り、弱り、果ては死んでしまうことを防ぐことはできない。崇拝者たちはこの悲しい必然性に対して覚悟を決め、最善の努力をしてこれに向き合わなければならない。危険は恐るべきものである。つまり、自然の成り行きがこの人間神の生命にかかわっているのであれば、彼の力が徐々に弱まり、最後には死という消滅をむかえることには、どれほどの破局が予想されることだろうか? これらの危険を回避する方法はひとつしかない。人間神が力の衰える兆しを見せ始めたならばすぐに、殺すことである。そうして彼の魂は、迫り来る衰弱により多大な損傷を被るより早く、強壮な後継者に移しかえられなければならないのである」
(『金枝編 上 P302)
私たちはキリスト教の影響で「神とは不死である」ということを普遍的なものと思い込んでいるが、しかしあれはキリスト教だけの例外で、ほとんどの神は死ぬものである。
グリーンランド人たちはキリスト教徒がやってきたとき、キリスト教の神が死なないと聞き、驚き、「さぞ強力な神に違いない」と思ったという話が紹介されている。今や世界宗教となっていかにもスタンダードであるかのように振る舞っているキリスト教だが、世界中の宗教を俯瞰して見ると、異端も異端の宗教である。ほとんどの宗教において、神は死ぬものである。
しかしながら神が自然な状態で死ぬと危険であると古代人は考えていた。なぜなら老衰による自然死は、神の体内に温存された神聖な魂も同じように朽ち、肉体とともに死んでしまうと考えられていたからだ。だから信者達は神がまだ力を持っているうちに殺す、あるいは神が自ら自殺する。その次に神の口から漏れる魂を手に取り、次なる神候補者の男の口に移すのである。
アメリカ北西部のキャリアー・インディアン(※)、タキリ族は遺体が燃やされる時、司祭が両手の中に死者の魂を捉える仕草をして、次に候補者に向かって投げつける……という身振りをする。
※ 金枝編が描かれた時代感では「インディアン」という呼称が一般的であったため、こちらでもその呼称を採用した。現代では「ネイティブ・アメリカン」が正しい。
話を『ドクター・スリープ』に戻そう。
異能である“シャイニング”を持つ少年少女というのは、いわゆる“ギフト”……欧米では神から与えられし特別な能力と見なされていた。フィクションの世界ではギフトといえば大抵超能力やフォースのことになるが、現実世界でギフトといえば画才であるとか音楽の才能といった秀でた一芸や、あるいは美しく生まれることであるが……。『ドクター・スリープ』はよくあるフィクションと同じように、ギフトを異能の力と捉えられている。そしてそれは神から与えられし聖なる力で、これは古い時代では神として崇められる特別な子供にのみ与えられし能力であった。トゥルー・ノットたちはこの聖なる力をすすって不老不死の力を得ている。その辺の平凡な子供の魂では、不老不死を維持するだけの力はないわけだ。
古い時代では神から次なる神へと受け渡されていた聖なる魂を、トゥルー・ノットは強奪することによって大昔から生きながらえてきたのである。
またそういった能力の持ち主は子供に多い……というのも一つのポイントだ。「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」という言葉があるが、子供の頃に現れた才能は育っていく過程で色あせ、大人になる頃にはどこにでもいる平凡な大人になっている……ということがよくある。子供の頃、それもその能力がまだ克明な形として発現していない頃こそ、トゥルー・ノットたちにとっては一番のごちそうになるのだ。
こうした理屈を持った上で、トゥルー・ノットたちの不老不死設定に説得力が与えられている。「神を殺す」「魂を移す」という、現代人にとっては大昔の忘れられた習慣……と考えられがちだが、しかしフィクションの中にはこうやって古代人の思想は生きながらえ、一つの説得力ある設定として息づいている。これも、私たち文明人の背後に、底流として古代人の意識がある……ということの証明だろう。
そのトゥルー・ノットたちはどうやって異能力を持っている子供を見つけ出すのか? 異能力者達は無意識に無線通信のように交信しており、トゥルー・ノットはその電波のようなものをキャッチして、特定しているようだ(この能力をコントロールできるようになると、テレパシーでの会話ができるようになるようだ)。ただ、それもネットの時代、ノイズが多くて特定が難しくなっているようだが。
異能力者同士は交信ができる。こういうところから、ダニーともう一人の主人公であるアブラが出会う切っ掛けとなる。
ここから異能力バトルが始まります
……と、ここまでお話が進んだところで、おや? これってつまり能力バトルものじゃないか? と気付く。
うん、そう。実は『ドクター・スリープ』は能力バトルものである。最初のほうは確かにホラーとして展開していたが、やがて能力バトル物としての本性が現れる。
始まってから1時間15分ほどのところで、はっきりと“異能力バトルシーン”が描かれる。ローズがアブラの意識の中に潜り込み、しかしそれは罠でアブラはローズを出し抜き、ローズの深層意識の中に潜り込んで記録ファイルを盗み出してしまう。
この辺りは完全なる能力バトル物の展開だ。電脳を介さない『GHOST IN THE SHELL』的なシーンともいえる。これが『ドクター・スリープ』における異能バトルの描き方だ。
余談。
アブラの部屋のシーン、これみよがしにあるアニメキャラクターのフィギュアが登場してくる。『RWBY』のエメラルド・サストライだ。扉側の壁には『RWBY』のメインキャラクター4人が勢揃いしているポスターが貼られ、反対側の窓側の壁にはエメラルド・サストライの単独イラストポスターが飾られている。
アブラは学校などのコミュニティから完全に孤立している子供で、「孤立している子供は例外なくギーク(オタク)である」というよくありがちな記号的設定が採用されている。あまり効果的な設定とは思えないが、でも時代が違えばアイドルのポスターなんかが貼ってあるところを、アニメキャラクターのポスターが貼ってある……というところが現代っ子的なのかも知れない。
そこで『RWBY』の中の黒人少女キャラクターを持ってくる辺り、なかなか「通」な設定と言えなくもないが。
アブラがローズの意識内にダイブするシーン、アブラは身元を隠すために青いウィッグを付けている。これもアニメコスプレといえばそうなのかも知れない。どうせならもっとエメラルド・サストライに寄せればよかったのにな……という気もするが、しかしそれをやっちゃうと映画から浮いちゃうのか。権利問題にもなりそうだし。
その後も異能力バトルとしての展開が続くわけだが、しかし映画表面に表れるフレーバーは相変わらずホラーのまま……。というここにちょっと違和感を覚え始める。
よくよく考えれば『IT』もフレーバーはホラーだが、実はジュブナイルもの。こういう描き方がスティーブン・キング特有のものなのかも知れない。(スティーブン・キング作品をあまり知らないので、どうなのかよくわからないが)
ホラーを偽装した異能力バトル……という描き方自体はそう悪くない。映画にはムードが大事で、そのムードのトーンをホラーに寄せた……というやり方も悪くない。むしろ好きなほうだ。なのになぜ引っ掛かりを感じるのか、というとシーン一つ一つの見せ方が「いかにもなホラー映画的なもの」に終始してしまい、単調さを感じてしまったことだ。音楽の使い方も、よくあるホラー的な「バン!」や弦楽器をひっかく音が頻発する。こういった音楽ばかり使うせいで、ここはもっとメロディを聴かせる場面じゃないか……というシーンの大半が無音で表現されてしまう。これが映画全体を殺風景なものにしてしまっている。ラストのオーバールックホテルが登場するシーンはさすがに音楽がキーとなったが、こうした音楽で見せるシーンをもっと作っても良かったのに……とは感じる。
映画の結末と感想
映画のラストはローズをあのオーバールックホテルに招待する。
ここはどうやら『ドクター・スリープ』の原作になかったらしい部分だ。というのも『シャイニング』の原作ではボイラーの暴発でオーバールックホテルは爆破し、それでそこを巣喰っていた亡霊達も消滅してしまう……という結末だった。しかしスタンリー・キューブリックの劇場版『シャイニング』ではホテルは生存したまま。そこで映画『ドクター・スリープ』はスタンリー・キューブリックの劇場版と、スティーブン・キングの原作をうまくより合わせてクライマックスを作っている。
ただそのローズの打倒方法というのが、ダニーが頭の中に封印し続けたゴースト達を解放する……というもの。これはあまり鮮やかな感じがしない。おそらくそういう結末になるだろうな……というのは映画の中盤には気付いてしまう要素だ。
ローズとのバトルシーン、その途中でアブラがローズの脚をナイフで切り刻むシーンがあるが、なんだか行動パターンが間抜け。ホラーっぽいトッピングが上にかかっているからそれなりに見えるが、やっていることはかなり間抜けだ。脚を負傷させる、それでローズの行動力を鈍らせる……という後の展開に向けたものかというと、あまりそういうわけでもなかったし。
オーバルックホテルとダニーというドラマ作りに集中しすぎて、あまりバトルが精彩あるものにならなかった、というのがバランス感覚として惜しく感じられるところ。最終的にダニーはホテルもろとも死んでしまう結末だが、どうにもこれも予定調和な感じが見えてしまって、意外性や感動が薄い。キューブリックの後始末を片付けるのことに意識が集中してしまって、作品からエモーショナルな力が抜けてしまったように感じられる。
さて、結末はあのお婆ちゃんの亡霊だけが生き残ってアブラの前に姿を現すようになる。やっぱり映像を見ているとシュールな笑いがこみ上げてくるのだが……。アブラは冒頭のダニー少年と同じカメラワークで浴室に入り、ドアを閉める。映画中で説明されていないが、ここでダニーの秘儀をアブラが継承した……ということがわかる。冒頭の場面で、ディック・ハロランが「いつかお前も誰かに教えるんだ」という台詞があったが、その通りダニーはアブラに自身の技を教えていた……ということで映画が終わる。主人公がオビワンだから、ジェダイの秘儀を若きジェダイに継承した……みたいな結末だと私は読み取った。
あのホラー『シャイニング』の続編。そもそも「シャイニング」とは何だったのか? オーバールックホテルに住み着いていた幽霊達とは何だったのか? あの小説・映画のなかでは曖昧なままに終わっていた細々としたものを、改めて見直して設定を組み直した作品が『ドクター・スリープ』だが、色んな設定を克明にした結果、異能力バトルものになってしまった……という不思議な展開を見せることになった。確かに「シャイニングとはなんだったのか」を掘り下げるとそうならざるを得ない。もともと原作設定から能力バトル物になる兆候を持っていた作品だった。
オーバルックホテルの亡霊達も、要するにトゥルー・ノットたちと同じように、訪れた人を苦しめて、その口から漏れる神聖な魂をすすって生きながらえるモンスターだった……と理屈を与えた結果、亡霊的な恐ろしさが消えて、単に打倒すべきモンスターとしか感じられなくなってしまった。
なんだか原作者自ら、ホラー特有の“わからないからこそ”感じられる神秘を破壊してしまったような作品だった。能力バトル物としての新しい魅力もなくはないが、しかし舵取りとしてはそちらのほうへ全振りもされておらず、中途半端さが漂う。そうはいってもホラーの名作『シャイニング』をまったくの別物……能力バトル物のムードに切り替えてしまうと、前作との連なりが感じられない、というジレンマが生じてしまう。すると、この描き方が作品としての最適解だったのかな……という気がする。
(名作ホラー『リング』も、『らせん』で前作で構築されたホラー的な要素を破壊し、理屈が与えられてしまった。ホラーの1作目は幽霊の神秘性だけで終われるが、それを追求していく過程でホラー的な神秘はやがて色あせ、克明になり、単に打倒するだけのモンスターになってしまう……というのはホラーの宿命かも知れない)
ホラーに克明なシルエットを与えてしまえばホラーではなくなってしまう。『シャイニング』の色んな物に光を与えすぎて、その結果能力バトル物になってしまった『ドクター・スリープ』。別作品としての面白さは見えてきたものの、一方で中途半端さも見えてしまった、というところが惜しく感じられる。しかし作品の作りからしてそうならざるを得ない。そう考えると、創作とはつくづく難しいものだ……。