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ゲーム感想 ゼルダ無双 厄災の黙示録

結末に関する重大なネタバレがあります。

かなり辛辣めの酷評感想です。

作品紹介

『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』は任天堂より2017年発売された。発売前は現代のフォトリアルなグラフィックを誇示するゲーム郡に対してやや見劣りする、インパクトに欠ける、というふうに言われたものの、発売後はあまりにも完成されたゲーム性に世界中で大絶賛され、国内では「日本ゲーム大賞2017」作品部門大賞受賞、「ファミ通アワード2017」でゲーム・オブ・ザ・イヤー受賞、海外でも「The Game Awards 2017」でGame of The Year受賞、「IGN Best of 2017 Awards」でGame of the Year受賞……とあまりにもアワードの数が多すぎて、把握不能なほどの栄誉を勝ち得た。まさに「伝説」級の大傑作であり、もはやゲーム史を語る上で欠かせない名作となった。私個人的にとっても、『ブレスオブザワイルド』はゲーム人生における最高の1本に選びたい作品である。
 あれから3年……。『ブレスオブザワイルド』の続編が「無双」シリーズの1本として発売されることが予告された。それが本作『ゼルダ無双』である。しかも『ブレスオブザワイルド』において断片的に語られ、謎の多かった100年前の戦争を描くという。
 私も『ブレスオブザワイルド』でハイラルの山々を制覇し、その世界観にどっぷり浸かった身だ。その途上で多くの遺跡や遺物を目にしてきて、100年前に何が起きたか……いくつもの想像を巡らせてきた。公式的に100年前の物語を描くというのは、もはや歴史物を目撃する、というくらいの気持ちになってワクワクした。

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 実際にゲームを始めて見て、画面一杯に覆い尽くすボコブリンの大軍団と、それに立ち向かっていくリンクや英傑の戦いを見て、これこそまさに求めていたものだ……と興奮した。100年前の戦争がいかに過酷で壮大だったか。それを語るための文法として「無双」シリーズを選択したのは間違いなく大正解だった。
 100年後の戦いの時にはボコブリンもモリブリンも少しずつしかいなかった。それは多分、ゼルダ姫が身を粉にしてガノンを封じ込め続けているからだ。100年前の時代では押さえつけるものがないから大量に、次から次へと溢れ出してくる(これでもガノン復活前というのが恐ろしい!)。それを、リンクが一撃でなぎ払っていく。痛快だし、100年前の英傑がいかに優れた力を持っていたか。さらに100年の眠りでいかに衰えていたか……が見えてくる。
 単に「無双」シリーズに当てはめて作りました……というものではなく、100年前の戦争の壮大さと、英傑の豪傑さを表現するのに、相応しい表現になっている。リンクを操り、ハイラル平原を単騎で駆け抜けて目についたボコブリンの群れを薙ぎ払っている時、確かに私は100年前の大戦争を体験している、100年前の戦争のただ中にいる興奮を味わっていた。『ブレスオブザワイルド』の感動がありありと蘇ってきたし、『ブレスオブザワイルド』という名作を経験しているからこその感慨があった。

 100年前のまだ絢爛たる隆盛を誇っていたハイラルの城やその周辺に広がっていく町並みを見て、私は『ブレスオブザワイルド』での記憶と一つ一つ当てはめ、いちいち感動していた。100年後はこの辺りは建物の基礎だけしかのこっていなかったな……とか、この辺りは一面森になっていたなぁとか……。まるで歴史検証しているような気持ちで、私はハイラルの土地土地を巡り歩いた。この辺りの話は別記事「ハイラル散歩」で採り上げるとしよう。

 しかし残念ながら、『ゼルダ無双』の物語を追いかけていくうちに、次第に感激は失望へと変えられていくことになる。その理由を、少しずつ語ろう。

はじめての無双体験 雑なプレイを許容するゲーム

 実は「無双」シリーズをちゃんとプレイするのはこれが初めての体験。『ドラクエヒーローズ』体験版の経験はあるのだけど、それきり。きちんと最初から最後までを通してプレイするのは、『ゼルダ無双』が初めてだ。
 ただ、『ゼルダ無双 厄災の黙示録』は「無双」シリーズの中でもかなり特異な一本だ。『無双』シリーズはこれまでいろんなIPを借りて作られてきた。前出の『ドラクエヒーローズ』もそれだし、『ガンダム無双』『ワンピース無双』『ファイアーエムブレム無双』……。実は『ゼルダ無双』は『ハイラルオールスターズ』というタイトルですでに一度作られている。
 「無双」シリーズは多く作られているが、基本的には「外伝」「番外編」的な作りで、「ファン向けサービス作品」という位置づけで作られている。本編ストーリーに絡むことはなく、もう少し気楽なポジションでゲームを楽しむことができる。そういう作品だった。
 『ゼルダ無双』の特異なところはそういった「番外編」ではなく、「スピンオフ」でもなく、公式なナンバリングタイトルの一つとして制作されている。『ブレスオブザワイルド』の重要な歴史である「100年前に何が起きたか」が改めてきちんと語られる作品だ。『ブレスオブザワイルド』の歴史を語る手段として「無双」シリーズの文法を借りて制作されている……そういう作品である。

 無双初心者の私は、最初にコンボリストを見て、「面倒くさそうだな……」と正直なところ思った。ほとんどがYとXだけの組み合わせだが、夢中になってYを連打している最中にXボタンを押す。それで狙ったとおりの技は出せないんじゃないか……と。R/L/ZLにもそれぞれ役割が与えられて、こなれるのは大変そうだな……と思っていた。
 が、やってみると実に簡単だった。『バーチャファイター』方式で所定のボタンを所定のタイミングで正確に先行入力するのではなく、キャラの動きを見てあるタイミングでXボタンを押せば良いだけだった。

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 リンクの場合は剣戟の最中、こうやってジャンプをする瞬間があるので、このタイミングでXボタンを押せば昇竜拳が入る。着地のタイミングでXボタンを押せば回転斬りに変わる。所定のタイミングでYボタンを連打して……というのではなく好みの速度でボタンを連打し、絵が動いているタイミングでXボタンを押せばいい。「好みの速度で」なので、ボタンの連打は早くても遅くても、絵のタイミングと合っていれば成立するように作られている。
 他のキャラクターでも切っ掛けとなる絵/動きが出てくるので、そこでXボタンを押せば良い、という設計になっている。
 なんだ。楽だ。簡単だ。
 しかも攻撃判定が異様に大きく、後ろから殴りかかられても、こっちが勝ってしまう。集団に囲まれて、ほんのちょっとした石に躓いて爽快なコンボが中断される……ということもほとんどない。何もかもがこっちの思うまま……一方的に攻撃をし続けられる。

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 『ゼルダ無双』には「ゼルダシリーズ」のお約束的な仕掛けも少しある。例えばエリアの敵を倒せばファンファーレが鳴り宝箱が空く仕掛け。ああいった場面でもエリア内の敵全てを倒す必要はなく、たぶん7割くらいかな……を撃退すれば宝箱が開いてくれる。

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 『ブレスオブザワイルド』では苦戦させられたコウモリの一群も、別に弓矢で対応する必要もなく、適当に剣を振り回していれば撃退できてしまう。弓矢も当たり判定が非常に大きく、かなり適当なエイムで次々と打ち落とせてしまう。

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 『ブレスオブザワイルド』ではバクダンを一つ一つ、丁寧に投げていた記憶があるのだが、『ゼルダ無双』では雑に、そして豪快にバクダンを投げつける。それでボコブリンの拠点となっている巨大髑髏や簡易櫓も破壊できてしまう。これも雑に遊べる特徴だし、なにより痛快だ。

 他にもルピーやアイテムを蒐集するために、その近くをウロウロする必要もない。あっちから勝手に飛んできてくれる。こちら側が煩わされる要素がとことん排除されて作られている。
 とにかくも、楽で簡単に遊べる。誰でも痛快に無双を体験できて、誰でも英雄の一人として大活躍できる。そう感じられるように、作る側はきちんと丁寧に設計されている。
 なるほどこれが「無双シリーズ」秘伝の旨味なのか……とゲームを進めてひたすらに感心。
 遊ぶ側はどんなに雑にボタンを連打していても快楽を引き出せるが、作る側はそういう遊びができるようにきちんと作り上げている。設計がきっちりしているからこそ、遊ぶ側が安心して遊べる。変な遊び方をしても、奇妙な現象やバグも特に起きない。きっちりした基礎があるから、「無双」シリーズは次々と作られ、どんなIPを当てはめても上手くいく。初めての「無双」体験でその神髄の一部を体験し、なるほど、これなら確かに長く続くシリーズになるわけだ、と理解できた。

細かい話

 ここから少し細かい話を掘り下げていこう。

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 周りの様子を見ていると、兵士達もきちんと戦っている。ボコブリン達と1対1で、丁寧に剣を交えながら戦っている。『ゼルダ無双』でのリンクたちは100対1くらいの数を一度に相手をしているが、兵士達は1対1。
 ボコブリンはこのゲームで見ると有象無象の雑魚に見えるが、一般兵士クラスの視点で見ると、雑魚とはいえそれなりに厄介な存在。それが大軍勢をつくって攻めてきている。だから緊急事態、というわけだ。
(100年前の時代はゼルダ姫の封印もなく、もしかしたらただのボコブリンでもかなり強かった可能性もある。ボコブリンと1対1で戦っている兵士の中でも、押し負けている姿が描かれている。100年後の時代はゼルダ姫が厄災ガノンを押さえ込んでいたため、ボコブリンは数も少なくなっていたが、力も弱くなっていた可能性がある)
 兵士とボコブリンが1対1で戦うあの様子を見て思うのは、ああ『ブレスオブザワイルド』の時の私たちの戦い方だ……ということ。100年後のリンクは、あの兵士達と同じくらい衰えていたんだな……。
 そう思うと、100年後の、何もかもを失って、全て1から取り戻しの戦いをやっていた、ということに気付かされ、そこから『ブレスオブザワイルド』の物語が補強される感じがあった。

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 ゲームの進行中、左下には様々の台詞が表示される。これは目の前で進行している事件とは別のところで交わされている会話も表示される。それが世界観全体を見るとちょっと整合性に欠けると思われるところがあるのだが……それは後でもう一度取り上げるとして。
 ここの台詞、生音声(ボイス)でやってほしかった。というのも、プレイ中はかなり忙しく、目の前の大群相手と戦っているわけで、見落としてしまうんだよね……。2度目のプレイでようやく気付いた台詞ややりとりもあった……というくらい。
 目の前の状況が忙しいのに、そんな最中で左下隅に表示されている台詞を読め……というのはちょっと無理がないだろうか。ボイスでやってくれたら、プレイヤーの負担も少し減ったんだけどなぁ……。

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 『ゼルダ無双』において、新たに登場したキャラクターであるインパ……あ、いや『ブレスオブザワイルド』にもきちんと老婆の姿で登場したが。
 『ブレスオブザワイルド』では記憶すらも喪っていたリンクが、方々を巡り歩き、かつての痕跡を見付け、そこでハッと自分の記憶を取り戻す……という構成だった。
 しかし、可哀想なことに、その最中に若きインパが思い出されることはなかった。『ゼルダ無双』には『ブレスオブザワイルド』と重なるシーンがいくつかあるのに、リンクが思い出すのはゼルダ姫だけであって、インパは……。
 そう考えると、インパは可哀想な人である。
 リンクにとって、よほど印象に残らなかった人物のようだ。

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 拠点を制圧した後、何もせず立っているだけの兵士……。
 一見すると怠慢に見えるが、「拠点制圧」は大事なお仕事。『ファイヤーエムブレム』でも砦を制圧して、そこにユニットを残して進軍することもあり、それを立体的な映像で描くと、こういう光景になるのだろう。
 たぶん、リンクも「お前もここで待機だ!」みたいに指示が出されていたのではないかと推測するのだが、しかし一騎当千の実力をすでに持っていたリンクからしてみれば、「そういうわけにはいかない! あっちが手薄になっている! 行かなくちゃ!」と独走して、あっちこっちで無双を繰り広げて……みたいな物語があったのだと私は想像している。

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 少しわかりづらい画面だが……。
 目の前に背の低い壁があり、その向こうに1段下がった広場がある……という場面。そこにボコブリン達の一団がいて、そこに向けてバクダンを投げようとしている……という状況だ。
 私はバクダンが壁を飛び越すことを期待してこうやって放り投げたのだが……しかしそこに“見えない壁”があり、その見えない壁にぶつかって爆発してしまった。
 これが『ゼルダ無双』と『ブレスオブザワイルド』の違うところ。『ブレスオブザワイルド』はプレイヤーが思いついたありとあらゆることは可能で、ありとあらゆる場所に行くことができた。思いがけないところからバクダンを放り投げて、どう考えても公式の解き方ではない方法でパズルを解くことができた。
 一方『ゼルダ無双』はカチッとしたルールがあり、そのルールの中で遊ぶという仕組みになっている。バクダンを投げられる場所も、「思いがけない場所から投げられる」のではなく、投げられる場所も決められている。
 こういった場面の他に、ちょっとした角のところも通過できず、そこでバクダンが爆発してしまう、ということもあった。
 『ゼルダ無双』は『ブレスオブザワイルド』で使われたアセットと同じものが使われ、地形データもそのまま使った上で世界観を作り直しているが、ゲーム制作としてビルドがそもそもまるっきり違う……ということがここでわかる。

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 宙に浮かぶ箱。
 種も仕掛けもございません。バグでもございません。
 どうしてこうなるかというと、物理計算が入っていないから。下の箱だけを壊すと、こうなる。
 こういうところでも『ブレスオブザワイルド』と違う構成で成り立っているゲームだということがわかる。

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 今回も強敵として登場ライネル。『ゼルダ無双』におけるライネルも強敵は強敵だが、『ブレスオブザワイルド』の頃と較べると格段に倒しやすい相手となっている。わりと雑なプレイでも体力を削れるし、ウィークポイントを削るのもさほど難しくはない。リンクが強かった時代では、ライネルは必ずしも絶望的な強敵ではなかったようだ。

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 『ブレスオブザワイルド』での回想シーンで、ライネルがものすごい軍団を率いているシーンがいくつもあり、当時はあの映像におののいたものだが、『ゼルダ無双』ではそれが再現されている。ライネルの軍団があり得るものとして描かれているし、それがゲームとして成立するようにも描かれている。
 神獣戦では巨大な神獣に対し、ライネルたちが容赦のない攻撃を仕掛けてくる。神獣戦でも、ライネルがいかに強敵であったか……がわかる。

 モンスターへのイメージといえば、最近の人たちはモンスターも天然自然の動物のひとつと考える傾向があり、同情の余地のある“生命体”あるいは“種”、さらに進んで愛玩物のように愛でる対象であると考えられるようになってきている。
(「モンスターを殺すなんてかわいそう」とかいう妙な意見が非常に多い。モンスターに殺された人間がどれだけいると思っているのやら……)
 しかし私はこの考え方に真っ向から反対する。モンスター達は天然自然の種ではない。悪しき意思によって産み落とされた怪物であり、だから人間に対して容赦のない敵意を向けてくる。
 そう考えを作る根拠の一つに、モンスター達には“恐怖”の意識がない。生物であれば恐怖を感じると生命保存の本能に従って逃走する。しかしモンスターはこの本能が欠如しているから、どんな状況下に陥っても“恐怖”することなく、人間に対して牙を剥いて襲いかかってくる。
 『ブレスオブザワイルド』はこういうところもきちんと描いているから、気に入っている部分でもある。

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 『ゼルダ無双』はステージごとに区切られる構成。その間にある物語は「語り」のみで省略された。今回はそういうコンセプトのゲーム……というのはわかっているのだけど、ちょっと寂しい。『ブレスオブザワイルド』はその間で体験する様々な事柄が魅力的だったのだが……。まあ、それは今回はコンセプトが違うから、ということで受け入れることにしよう。

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 ムービーシーンを見ていて気付くことは、意外と長回しが多いこと。それも、単純にカメラを横へトラックしながら……というシーンが割と多い。
 これは……たぶんムービーシーンとゲームプレイ画面との乖離を作らないためじゃないかな……という気がする。
 ムービーシーンで普段のプレイシーンで見ることができないアクションや、細かいカット割りを作ると、より「いかにもムービーシーン」になり、見た目の印象だけではなく、気分的なところでも乖離を作ってしまう。
 よくあることだが、ムービーシーンになると普段のプレイでは絶対にできない超絶アクションを繰り広げ始める……ということがゲームではしばしばあり、そういうものを見るたびに「なんであの格好いいアクションを普段のゲームシーンでもできるようにしてくれないんだろう」という気分になるし、ゲーム場面でどんなに頑張っても結局のところ、ムービーシーンでの超アクションで解決されてしまっている、ということになって心情的にスッキリしないということになる(そんな超アクションができるなら、それでさっさとあのボスを倒しちゃえばよかったじゃないか……とか思う)。
 だからムービーシーンでもレンダリングムービーを使わず(ゼルダシリーズは伝統的にレンダリングムービーはほとんと使われてきていないが)、キャラクターもプレイシーンと同じものを、ムービーシーンだからと行って派手すぎるアクションも行わない。
 ……ということだったのかなぁ? とか考えながら見ていたけれども。

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 やはりクローズアップされたのがゼルダ姫の苦悩。着実に力をつけていくリンクに対して、力が目覚めないゼルダ姫。このシーンでのゼルダ姫は、リンクの背中と、リンクが背負っているマスターソードの柄を見ている。『ブレスオブザワイルド』でもゼルダ姫の苦悩は描かれてきたが、『ゼルダ無双』において改めてはっきりと深掘りされた。
 『ゼルダ無双』は実はゼルダ姫の苦悩と、そこから力を目覚めさせて戦いに立ち向かっていく過程を描いたの物語であるといえる。ゼルダ姫こそが真の主人公であって、プレイヤーたるリンクはそのお手伝いをしている立場に過ぎない。
 とはいえ、ゼルダ姫に負わされたものが大きく感じられるのが気になるところだ。私たちはゼルダ姫の活動や悩みを側で見ているから、「ちゃんと努力している」と同情して見ることができる。しかし遠くから見ている民衆は、ゼルダ姫を「無才の姫」と揶揄している。
 これはやはり言い伝えられていることとの現実との乖離から起きているのかなーという気がする。
 というのも、これまでのシリーズでもゼルダ姫の力が覚醒したのは、いつも最後の最後。ガノン戦の直前とか、あるいは最中とか、そういう時にやっと目覚める……ということが多かったように思える。
 リンクの力は変事が起きている間ずっと必要なものだが、ゼルダ姫は「ガノン封印」というたった一つの場面でしか必要とされない。だから厄災が復活してもいない段階で「目覚めてもいないなんて」と焦る必要も本来なかったはず……。
 でも言い伝えが100年前とか1000年前……厄災ガノンについては1万年前だから、このあたりの正しい経緯が伝わらず、「厄災ガノン復活前から力に覚醒しているのが当たり前」みたいに思われたのかな……。
 なんにしても、きちんと努力しているのに「無才の姫」と中傷されてしまったゼルダ姫が可哀想……。

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 厄災ガノン復活を前にして、あれだけしっかり準備をしていたはずなのに、なぜハイラル城は陥落したのか?
 話は簡単で、ガーディアンが一斉に乗っ取られてしまった。映画『パトレイバー1』でHOSによって暴走したレイバー達……を見た時のあの恐怖が蘇ってくる。
 厄災ガノン復活、ガーディアン乗っ取り……たったこれだけのことで一瞬にしてハイラル城は崩壊、伏魔殿へと変わってしまった。リンクとゼルダ姫は、そこから逃げることしかできなかった。
 ステージ前解説によると「ハイラル城を囲むように現れた5本の古代柱から厄災ガノンに乗っ取られた無数のガーディアンが射出された」とある。
 ガーディアン射出口柱の存在はハイラルの研究者も把握していなかったもので、それを一斉にガノンに乗っ取られてしまった。
 それだけではなく、4英傑もこの時に神獣を乗っ取られ、あっけなく、あれだけの豪傑を誇っていたのにいとも簡単にこの世を去ることになる。
 この歴史を改めて見ることができたのは良かった。しかしここからが、『ゼルダ無双』における歴史改変の始まりだった……。

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 謎が多いのがハイラル城の構造。
 ハイラル城は単に見た目の壮麗さだけではなく、防衛上の都合で高台になっているところに建てられ、やたらと塔が目立つ作りなのは、おそらく周辺を見渡せるようにするためだろう。
 城までの入り口も、まっすぐに道を作るのではなく、大きなカーブを描き、さらに途中で関門のような物が作られている。これも見栄え優先ではなく、防衛上の問題。進軍する相手をいろんなところで遅らせたり、足止めしたりするためだと考えられる。
 ハイラル城の謎は特に地下空間。『ブレスオブザワイルド』には裏手にも入り口があり、おそらくは王族が密かに脱出できるように用意した場所だと考えられる。『ブレスオブザワイルド』時代の時は、あの辺りが手薄で、一番侵入しやすい場所だった。
 でも、それにしては構造が複雑すぎるというか……妙に古い。表側の整った構造と比較して、時代感覚の差を感じる。一つの時代に全てがドーンと作られたのではなく、あちこちで時代間の差があるように感じられる。
 それに謎のガーディアン射出口柱の存在。ハイラルの研究者も把握していなかった装置が隠されていた。ということは、まだまだハイラル城には発見されていない謎が多く隠されている可能性がある。
 この辺り、『ブレスオブザワイルド:続編』で深掘りされるのではないかと思われる(というか期待している)。

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 魂を抜かれるイーガ団の忍者達。
 私はイーガ団達もどこかで“魔物化”したんじゃないか……と考えていた。イーガ団達は元は人間だが、どこかで魔物化し、だから100年後の時代、赤い月が昇った時に他のモンスターと一緒に復活したんじゃないか。
(あと殺しても殺しても数が減らず、いくらでも復活してくる理由にもなる)
 100年後の『ブレスオブザワイルド』時代にもコーガが登場してくるのだが、もしもイーガ団が人間であるのなら、『ブレスオブザワイルド』時代のコーガは“○代目コーガ”ということになる。が、魔物化していて寿命などがなくなり、殺されても何度も復活する存在になってしまったら、『ゼルダ無双』時代からずっと同じコーガということもあり得てくる。
 おそらく『ゼルダ無双』時代がその分岐点になっていたと考えられ、“正史”ではイーガ団はここで魔物化し、以降は“人類”ではなく“魔物”となって生き続けるようになったのではないだろうか。
 しかし『ゼルダ無双』のコーガは土壇場で寝返り、正史とは違う道筋をたどることになる……。

演出の問題

 引っ掛かりを感じたのは演出の問題。
 『ゼルダ無双』は任天堂ゲームとしては(正しくはコーエーテクモ)ムービーシーンが非常に長い。キャラクターの詳しいやりとりは『ブレスオブザワイルド』でほとんど見られなかったもので興味深いところはある。『ブレスオブザワイルド』では謎な部分の多かった四英傑の内面や、リンクとのやりとりを含めて改めて掘り下げられ、決戦に向けて結びついていくドラマは見応えあるものとなっている。
 しかし、プレイヤーはそのやり取りに干渉することができず、ただ見ているだけ。レンダリングムービーではなくリアルタイムレンダリングで作られているのに、干渉ができることといえば、ただ衣装を変えるだけ……。これではなんのためにわざわざリアルタイムレンダリングしたのかよくわからない。
 リンクは無口な男で、呼吸芝居以外はほとんど自分の意思を示さない。こんな無口な男がムービーシーンに登場し、他のキャラクター達とやり取りしている場面を見ると、奇妙な感じにもなる。他のキャラクター達はこんな無口な男とどうやってコミュニケーションを取っているのか、どうしてリンクという男を肯定し信頼していくのか、その過程が見えてこない。
 せめてムービーシーンはただ鑑賞するだけのものではなく、どこかしらで選択肢や、意思を示せる場面があっても良かったのではないだろうか。

 引っ掛かりを感じたのはそのゲームのプレイシーンとムービーシーンが完全に乖離していること。プレイシーンが終わると、画面がフェードアウトして、読み込み画面を挟み、ムービーシーンに入る。ムービーシーンは必ず最後に画面がフェードアウトして、読み込み画面を挟み、プレイシーンに入る。この見せ方があまりにも単調だ。プレイステーション初期のゲームかと思わされてしまう。
 間に必ずフェードアウトとローディング画面が挟まってしまうことで、プレイヤーの気分としてもプレイシーンとムービーシーンとの間に気持ちの断絶ができてしまう。プレイシーンがフェードアウトして終わると、ムービーが始まったと思ってついコントローラーを置いてしまう。物語を体験している気持ちも、そこで一区切りついてしまうのだ。
 今時のよくできたゲームは、プレイシーンとムービーシーンとの境界をいかに曖昧にするか……ここに工夫されている作品が多い。ムービーシーンとプレイシーンとの間に差し挟まるローディングは短く抑えられ、ムービーシーンでも選択肢やちょっとしたQTEが入り、「ただ鑑賞しているだけのモード」ではなく、ムービーシーンもプレイシーンと同じ緊張感が続くように作られている。
 ムービーを流している間に、次のシーンを読み込んで、スムーズに次の展開へ、プレイヤーにコントローラーを置く隙を与えないようにしている作品もある。
 『ゼルダ無双』のムービーシーンにはこういった今時のゲームによくある工夫が一切ない。ただムービーを流し、その前後にローディングを挟み込んでしまっている。このために、ムービーシーンを見ている時は完全に気持ちがゲームから離れてしまう。ちょっとコントローラーを置きましょうか……みたいな感じになる。そうするとプレイシーンで高まった気持ちとムービーシーンとの間に断絶が生じてしまう。プレイシーンとムービーは別のもの……という捉え方になってしまう。これが演出上で良くないと感じられるところだ。

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 ゲームが始まると、物語の展開は左下のメッセージで流れることになるのだが、まず引っ掛かりとしてはそのメッセージにボイスがないこと。ボイスがないとまず見逃してしまうことが多い。すでに書いたことだが、ゲーム中は大軍勢を相手に忙しく戦っている。そんな最中に文字だけのメッセージを出されても、読んでいる暇がない時が多い。

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 ゲーム中でもちょっとプレイシーンから離れて、短いムービーが挟まる場面がちょくちょくあるのだが、ここもボイスなし。画面やキャラクターが動いている場面なら問題ない。しかしなにかしらのパズルが解けた……というような場面の時は止まっている画面をただ見せられることがある。プレイヤーの気分としては、「飛ばせないかな」となってしまう。ボイスがないと、間が持たないんだ。

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 こうした演出の引っ掛かりは、プレイヤーキャラクターが本来接することのできないキャラクターの台詞が入ってくること。
 討伐数が一定数に達した時、仲間が「凄い!」と称賛してくれるが、これは同じ仲間グループの声であるから、そこまでの違和感はない。しかし、明らかにそうではない、「敵勢力」の声がこちらまで聞こえちゃっている場面がちらちらある。
 コログの森のアストルの台詞がそれだが、敵勢力の、本来リンクが耳にすることができないはずのキャラクターの声が示されてしまっている。これだとゲームの視点がどこにあるのかわからなくなる。「誰の視点で進行しているのか?」それを考えていない人が作った演出だ。
 こうした場面を描く場合、プレイヤー側の視点からは一旦遠ざかって、敵勢力の視点を描きますよ、という一工夫が必要になってくる。まず、プレイシーンの最中にメッセージとして示されてはいけない。むしろこういう場面にこそ、ムービーを挟んで「一方その頃……」とやったほうが良かった。

 『ゼルダ無双』の演出面を見ると、はっきりいって前時代的。古くさい。最前線のトップクリエイターが作ったとはとても思えない。平凡で面白味がない。プレイシーンと物語が乖離し、一体となって盛り上がっていくような感覚がない。物語がただの添え物にしか感じられなくなっている。そこが惜しく感じるところだった。

見たかったものと違ったストーリー

 一番の引っ掛かりは物語の展開だろう。正直な感想を言うと……「いったい何を見せられているんだ」だった。

 物語の冒頭、ハテノ平原の兵士達がみなやられてしまい、リンクが最後の一人となってガーディアンの大群と向き合っている。そんな最中、ついに力を覚醒させるゼルダ姫。これが『ブレスオブザワイルド』正史で起きていた状況だ。
 それに呼応して、ハイラル城のとある部屋(おそらくハイラル王の部屋だろう)で保管されていた白ガーディアンが起動。窓の外に開かれた謎のゲートを通り……そこからお話は厄災復活前に戻る。

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 つまり、『ゼルダ無双』はifのストーリーだ。
 ifストーリーであることは、まあ良しとしよう。ifを展開させることには、はっきりと良い部分がある。
 ゲームプレイヤーは自分の手でプレイ中に何かを獲得し、育てることに喜びを見いだす性質がある。それをとある要素、つまり「物語の展開」によって取り上げられることを蛇蝎のごとく嫌う。例えばとあるキャラクターに「力の種」を一杯注ぎ込んで育ててたのに、ある時そのキャラクターが物語展開によって離脱し、それきり永久の別れとなってしまったら……。プレイヤーは「力の種を返せ」となる。力の種を使っていなくても、そのキャラクターを育てるために要した労力を返せと憤るプレイヤーも多い。

※ 力の種…ドラゴンクエストシリーズに登場するアイテム。力を1つあげることができる。ゲーム中、限られた数しかない希少アイテム。力の種を一杯注いで、物語展開によってパーティから離脱してしまう、という事件は『ドラクエ7』のキーファというキャラクターで起き、記事はそのことを意識するように書かれている。

 もしもこの作品が『ブレスオブザワイルド』正史のとおりに物語が進行すると、四英傑は死亡することが確定となってしまう。しかし『ゼルダ無双』ではそれぞれのキャラクター達を育てることができる。
 戦ってレベルを上げて、戦利品を合体させて武器を強化させて……それだけの労力を消費して育てて、それが物語展開によって取り上げられたら。もしもプレイヤーが『ブレスオブザワイルド』正史を知らず、純粋無垢に四英傑が死すべき運命にあることを知らずに一生懸命育ててしまったら……。  物語展開によってキャラクターが取り上げられる展開にきっと憤ることだろう。
 私としても、発売前はこの死すべき運命のキャラクターをどう描くか。プレイヤーに納得感を与えつつ、どうやって死の運命を演出として物語として組み込むのかは興味があった。
 ゲームのミッションは正しく、完璧に達成しているのに、その次の「物語展開」によって死の烙印を突きつけられると、それはどんなにうまく描いても納得できるものではない。こういうときに作り手のエゴを感じてしまう。ゲームプレイヤーの感覚と、作り手の感覚との間に乖離が生まれてしまう瞬間だ。

 だがそもそも『ゼルダ無双』はifの物語である。そうすることで、上のような問題は全て解消される。四英傑は死なない。リンクもハテノ砦で力尽きることはない。プレイヤー的にもステージのミッションを正しく成功させれば、その次に差し挟まるムービーでいきなりキャラクターの死亡を突きつけられることもない。プレイヤーの感情を奇妙なところで折り曲げられることなく、気持ちよく前へ向かっていく物語を追い続けることができる。

 では何が問題なのか?
 理屈が示されていないことだ。

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 問題の1つめ。
 まずハテノ砦において、ゼルダ姫は力を覚醒させた。ガノンを封じる力である。その力によって、ガノンに乗っ取られたガーディアンを浄化させることができた。
 映像を見ると、ゼルダ姫が力を覚醒させ、その直後白ガーディアンが起動し、次元の扉が開いた……という展開が示されている。ということは、これらもゼルダ姫の能力の一つなのだろう……と、普通は読み取る。私もそう読み取った。背景に流れているメロディも、64版『時のオカリナ』における「ゼルダ姫のテーマ」だ。だからこそ、引っ掛かった。
 ゼルダ姫の能力の中に、そういった能力が含まれている……ということが今までに一度も示されたことはなく、この作品の中でも示されていない。
 次元を越える能力については、64版『時のオカリナ』で示されたが、あの作品ではマスターソードの力であり、オカリナによる演奏によって発動する力であった。ゼルダ姫の能力の中に、次元跳躍の力はない。

 次の問題は白ガーディアンの謎。
 白ガーディアンの正体は、ゼルダ姫が幼少期に自ら組み立てたガーディアンで、その時にテラコと名付けられている。どうやら特別な一体だったらしい……が、何者なのか最後まで提示がなかった。
 白ガーディアンの力がシーカーストーンと連動し、シーカータワーが起動した。映像を見ると、そのように読み取れる。正史においては『ゼルダ無双』時代、シーカータワーは起動しておらず、シーカーストーンもほぼ力を発揮させることができなかった。ということは白ガーディアンはシーカータワーの電源を起動させることができるトリガーであり、白ガーディアンの存在が決定的に歴史を改編するトリガーとなるから過去へ送り込まれたのだろう……と推測できる。
 では白ガーディアンが何者なのか? どういった由来を持つのか? さらに問題は、なぜゼルダ姫は白ガーディアンのその性質を知っていて、起動させ、過去に送り込んだのか……? ゼルダ姫はどこで白ガーディアンの詳細を知ったのか。幼少期に別れて以来、記憶からも忘れていたはずなのに。
 この辺りの説明がゲーム中、一度も深掘りされていない。それが違和感の元になっている。

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 さらに白ガーディアンの技術を解析したことにより、シーカーストーン、シーカータワーに眠っていた様々な機能が解放され、利用できるようになった……という。「それもこれも、そいつに内蔵れてた謎の古代技術のおかげ」と台詞で説明されるが、具体的に「謎の古代技術」がどういったものか、どうやって解析したのか……そうした一切が省かれてしまっている。
 これでは白ガーディアンがifストーリーのために作られた、ただのご都合主義マシン、デウス・エキス・マキナでしかない。
 もし白ガーディアンがそういう力を秘めていた、という設定を受け止めるとして、せめてゼルダ姫がいつどこでそれを知り、過去へ送り込もうと考えたのか……というプロセスを物語中に示さないと、この辺りの理屈がスッキリしない。

 物語の半ば、シド、ユン坊、テバ、ルージュの4人が未来から救援としてやってくる。いずれも『ブレスオブザワイルド』時代の4人だ。
 だが、どうやって? 誰に手によって?
 物語中にはこのように示される。

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「あの時は誰かに呼ばれたような気がして……声の主を探すうちに、姉さんが魔物にやられるところが見えた。助けなければ、と思ったら、いつの間にかルッタの中にいたんだ」
 ここで台詞の最後に白ガーディアンがアップで映される。

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 ここで引っ掛かるのは、“誰が”“いつ”シドやユン坊を過去に送り込んだのか? 冒頭、次元の扉を開き、白ガーディアンを過去に送り込んだのはゼルダ姫のように思えた。ではシド達を過去に送り込んだのも、ゼルダ姫なのか? そうすると引っ掛かりとして、最初のあのシーンの時に、シドやユン坊たちも一緒に過去へ召喚されていなければならない。それがなぜ神獣乗っ取りといういかにもな都合の良い場面で召喚されたのか……?
 もしも後になって呼び出されたとしたら由々しき問題を生み出すことになる。というのも、物語はすでにifに入っていて、四英傑が死なない歴史がすでに紡がれているのに、その未来からシド達が呼び出されてしまった。シド達は、存在しない未来から、違う世界線から召喚されたことになる。
 映像は白ガーディアンが示され、「貴方の力……なのね」というゼルダ姫の台詞が続く。
 ここまで来ると、正解がなんなのかわからない。次元を開く能力はゼルダ姫の能力なのか、白ガーディアンの能力なのか……。
 もしも白ガーディアンの能力としたら、もはや何でもありな存在だ。

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 もう一つの引っ掛かりはアストルの存在だ。アストルは『ゼルダ無双』世界線が唯一改変されていることに気付いているリーティングシュタイナー(観測者)である。アストルは改変に気付き、未来からガノンを断片的に呼び寄せ、リンク達の行動を妨害しようとしている。
 ではなぜアストルが観測者たり得たのか? アストルは何がしたかったのか? そもそもアストルは何者だったのか?

※ リーティングシュタイナー 出自は『シュタインズゲート』。誰かが過去へ行き、未来を変化させたことを「世界線が変わった」といい、その変化を認識できる人をリーティングシュタイナー(観測者)と呼ぶ。

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 シンプルな推測として、厄災ガノンが未来からやってきて、その厄災ガノンから事情を聞いた……というところだろう。物語の初期の頃、厄災ガノンはガーディアンを乗っ取り、リンク達の前に現れたことがある。もしもあれが、アストルが活動する前だとしたら。厄災ガノンが過去にやってきて、それから物語が動き始めた。ifの物語を紡ぎ出そうとしているリンクやゼルダ達を妨害するためにやってきた。こう考えるとアストルが観測者たり得た理由と、目的がはっきりする。
 ではアストルは何者だったのか? これが最後まで見えなかった。あの魔法使いはどこからやってきたのか。なぜガノンを信奉しているのか……。『ブレスオブザワイルド』時代ではあんなキャラクターはいなかった。『ブレスオブザワイルド』時代にいたのは、獣のように人間を見たら襲いかかる怪物だけである。アストルの存在は、そういったものと明らかに別種類のものだ。当然ながらコーガ団の一員でもない。出自不明の悪役である。
 おそらくは『ゼルダ無双』におけるif世界線のみの人物だと思われる。もしも『ブレスオブザワイルド』正史の時代にも存在していたとしたら、100年後の時代に復活して存在していなければならない。でもいなかった、ということを考えると、正史には登場しなかった人物と想像される。

 アストルの存在は最後までスッキリしなかった。何者なのかわからない。何者なのか想像させるものもない。そういった由来を説明させる場面がないから、悪役としての存在感が薄い。虚ろな存在に感じられる。
 ビジュアルとして青白い顔をしたひょろひょろの魔法使いだ。見るからに弱そう。悪役として存在感と貫禄に欠ける。ありきたりの“弱そうな”悪役でしかない。
 この小悪党は最終的に、力を取り戻した厄災ガノンによっていともあっさりと葬られる。これまでの展開で仰々しく描かれ、意味深な台詞を重ねてきたのは何だったのか……とガッカリさせられる。
(もしかしたら厄災ガノンの復活が予言より早かったのは、アストルが何かしら手を下したかも知れない。もしそうだとしたら、これがアストルが仕掛けたことの唯一のものとなる)

 私はアストルの存在について、期待していたことがあった。ゼルダ姫の側が、どうして今のようなifが展開しているのか察知しておらず、深掘りして解説することもない。ということはアストルから何かしらの“種明かし”があるんじゃないか……と期待した。なぜならアストルが唯一の観測者だからだ。
 『ゼルダ無双』で起きている物語は、どう考えても説明不充分だし、納得がいくものではない。例え四英傑が死なない展開、プレイヤー側視点で安心できる展開になっているとはいえ、それで納得ができるかと言えば絶対に「NO」だ。そうするとアストルがこの状況を引っかき回し、どうしてこのような展開になったのか、解説をしてくれるんじゃないかと期待した。それが作中、唯一観測者たるアストルがすべき役割である。
 が、最後までそんな場面が来ることもなく。アストルはただの小悪人としてあっさり退場することになる。もはや「何だったんだお前は」と突っ込みたくなるようなキャラクターだ。

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 物語後半、ハイラル城とともに斃れたと思われたハイラル王が生存していて、再開する場面がある。私は拍子抜けだった。いや、それはさすがにご都合主義が行きすぎだろう。
 ハイラル王はプレイヤーキャラクターとして加わるのだが、問題は、『ブレスオブザワイルド』時代の世捨て人の格好になれてしまうことだ。あの姿は、『ゼルダ無双』によって失われた未来の姿のはずだ。現世代のハイラル王がその格好をしてはいけない。
 ファンサービスで『ブレスオブザワイルド』時代の姿を入れた? そういうファンサービスはいらない。物語や設定に矛盾を作るだけだ。『ゼルダ無双』は『ゼルダ無双』だけで世界観を完結させるべきだ。世捨て人の格好をさせるのははっきり蛇足。はっきりいえばオタク的な言及でしかない。世界観を大事にしているとは言えず、程度の低いファンサービスだ。

 ハイラル王のみならず、『ゼルダ無双』は多くのキャラクター達が次々と参戦し……結局の所、これまで通りの「無双シリーズ」のフォーマット通りの内容になってしまった。
 大妖精や導師ミィズが仲間になるところまでは、逆にジョークとして受け入れることができる。でもハイラル王や厄災ガノンまでプレイヤーキャラクターになってしまうのは、いかがなものだろう。それは物語を大切にしているとは思えない。
 『ゼルダ無双』は無双シリーズの中でも「スピンオフ」ではなく公式な「続編」として作られたはずだが、物語が進めば進むほどに、「続編」ではなく「スピンオフ」に近付いてしまった。

 物語は多くの矛盾と説明不足を残したまま、クライマックスへ、ハイラル平原を背景に全種族の軍団が集結しての大合戦へと展開していく。
 普通に考えれば燃えあがる場面のはずだ。しかし私の気分は冷めてしまっていた。
 あまりにもご都合主義が行き過ぎている。あまりにも説明不足が行き過ぎている。あまりにも簡単に事態が肯定的に進みすぎている。納得がいかない。奇妙だ。
 これはもう一段、物語を大きくひっくり返す何かがこの辺りで起きるんじゃないか……と私は予想していた。なぜなら「真相」が明らかにされていない。そろそろこの辺りで大転換を作って、「真相」を語らねばならないのではないか……。いや、この辺りで語らないと、『ゼルダ無双』は三流シナリオだぞ。しっかりしろ!
 そのためにアストルがいるんじゃないのか。こここそ、アストルを活かす場面じゃないのか……。一回ご都合主義展開をひっくり返し、ラストシーンに移る前に本当の「困難」を突きつけるべきではないか。
 しかし、何もなかった。その後の展開に山も谷もなく、ぬるっと厄災ガノンを追い詰めて、エンディングへと入ってしまった。私は「えええええ……」と愕然とした。いったい何を見せられているんだ、という気分だった。

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 はっきりした言葉で批評しよう。『ゼルダ無双』は中学生の書いた二次創作だ。その程度でしかない。二次創作としても出来が悪い。ひたすらご都合主義的な展開が続き、そういった状況が続く理由についてきちんと説明すらしない。結局、誰のどういった力によってifの世界線が生まれたのかすらわからない。ゼルダ姫なのか白ガーディアンなのか……。ではそのご都合主義展開が面白いかと言えば、つまらない。特にアストルは問題で、悪役としても小さく、要所要所でプレイヤーを妨害するだけの存在でしかない。あれでは、いてもいなくても一緒だ。悪役に魅力がなければ、物語の魅力は一気に減退する。アストルは単に意味深なことを呟くだけで、物語を引っかき回すこともしなかった。本当に、いてもいなくてもいいようなキャラクターだった。単に願望を書きました……その程度のシナリオでしかなかった。
 それどころか、『ゼルダ無双』の存在によって、無用に歴史の分岐が作られてしまった。『ブレスオブザワイルド』で私たちが体験したあの物語は、あのドラマは――なかったことになるのだ。私も『ブレスオブザワイルド』の世界観にどっぷりはまり、あの物語に深く感動した一人だが、あの物語は『ゼルダ無双』によってなかったことにされてしまった。まさか公式で『ブレスオブザワイルド』を台無しにするようなストーリーが作られるとは思わなかった。

 私が見たかったのは……やはり四英傑が斃れる物語だった。その瞬間にどんなドラマが生まれていたのか……。そのドラマをきちんと描いてこそ、『ブレスオブザワイルド』に繋がり、より感動が補強されるものになると思っていた。
 それはもう言っても仕方ないことなんだけど……。
 四英傑が死なない歴史を生み出すにしても、もっと納得感が欲しかった。最後の最後まで白ガーディアンの正体は不明のまま。なぜ次元の扉が開いたのかすらわからない。結局、『ゼルダ無双』はなんだったのか……作品がその総括をきちんとせずに、投げっぱなしで、薄っぺらい願望の物語を作ってしまった。
(小説版とかで後付けで説明する……っていうのはナシだよ)
 心配なのは、この次――『ブレスオブザワイルド続編』がどうなるかだ。すでに『ゼルダ無双』は『ブレスオブザワイルド』の物語をなかったことにしてしまった。この『ゼルダ無双』の物語を踏まえるのか。『ゼルダ無双』はどう扱って良いのかよくわからない位置づけになってしまっている。
 もう一つ心配なのは、シナリオの力。『ゼルダ無双』によって発覚したことは、任天堂のライターの能力が低いということ。ついでに演出も弱い。『ゼルダ無双』みたいなお話を『ブレスオブザワイルド続編』でやられると、正直、キツい。私はもちろん『ブレスオブザワイルド続編』は発売日に買うつもりでいるけども……『ブレスオブザワイルド』は奇跡の一作に過ぎず、あの時の感動は続編へアップデートされないかも知れない。そういう心配はしている。

 ストーリー部分ははっきり出来の悪かった『ゼルダ無双』だが、しかしゲーム部分は非常に面白かった。音楽も良い。ここをしっかり作ってあるから、エンディングまでストレスを感じることはなかったし、クリア後もゲームを続け、裏エンディングも見たし、ほぼ全てのステージもクリアした。達成できなかったのはコログの実集め。ほとんどの要素をコンプリートできるところまで進んだ。ゲーム自体にそれだけ引っ張る力はある。どんなプレイヤーでも、ゲームを楽しませる工夫が一杯にこらされている。そこは非常に良いところだ。ゲームとしては間違いなく「良作」なのだ。
 これでストーリーさえしっかりしていればなぁ……。微妙な気持ちの残る作品であった。

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とらつぐみ
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