2024年夏アニメ感想 ターミネーター0
あの大ヒットシリーズ『ターミネーター』がアニメ化する! しかもProductionIGが制作!
おお、それは面白そう。ぜひ見たい!
と期待して、配信されてすぐに視聴を始めたのだけど……。
明らかに出来の悪い作品への対処は、「取り上げない」と決めている。なぜなら批評として取り上げる段階まで来ていないから。それに、あえて取り上げないことも、作り手への仁義だと考えている。
アニメ版『ターミネーター0』も、作品のクオリティが批評できるレベルに達していない。出来が悪いという以前に、作品になってない。
取り上げるのはやめようか……とは考えたけれども、いい機会だから、このアニメに関する話だけではなく、『ターミネーター』シリーズ全体が抱えている問題を含めて、取り上げることにする。
まず基本情報。
アニメ『ターミネーター0』は、1997年に起きたとされる「審判の日」前後の事件をできごとを描いている。
配信は2024年8月29日・Netflix。1話30分・全8話。
シリーズのショーランナー・監督・脚本をマットソン・トムリンが務める。アニメーション制作はProductionIG。
映画批評集積サイトRotten tomatoを見ると、件数について書いてないのだが、批評家による肯定評価が89%、一般レビュー77%とかなりの高評価。どうやら英語圏のユーザーからは好評だったようだ。
ではこの作品のどこが問題なのか……を掘り下げていこう。
1・野心がない。
まず1つめ。この作品には「野心」がない。『ターミネーター4』以後の作品、『ターミネーター:新起動』と『ターミネーター・ニュー・フェイト』は失敗作に終わったものの、それまでに作り上げてきた「ターミネーター」という土台の上に、新しい展開をやろうと挑戦があった。自分の爪痕を残してやろう……という熱意はあった。いずでも失敗に終わったわけだけど。
しかし本作『ターミネーター0』にはそういう野心はない。本家シリーズに触れない範囲の「番外編」をただ作った……というだけ。「ここでシリーズの新しい波を作ってやるぜ……」なんて挑戦的な野心がまったく感じられない。新しい『ターミネーター』としての提唱はない。ただの傍流の物語。大人しいサイドストーリーを、優等生的に作りました……というだけ。そういう作品にはなにも感心しない。
2・哲学の欠如
本作の大部分は、主人公マルコム・リーと人工知能ココロの対話シーンで成り立っている。これは、対話と見せかけて「この作品のテーマはなんなのか」を語っている。
ただ、そこに問題がある。
そもそもの『ターミネーター』のストーリーは、高度に発達したAIが、「地球にとって人類こそがもっとも有害だという結論に達した」ために人類を滅ぼそうとするロボットとの戦いが描かれている。
この前提が無理筋。すでに私たちはAIの時代に入ってきているが、薄々と「そうはならんやろ」と思い始めている。AIが人類に反旗を翻し、戦争が起きる……どうやらそれは起きそうにない。
もしもAIが「人類は地球環境にとって有害だ」と考えるようになっても、人類滅亡のための戦争を仕掛けると、かえって地球環境を悪化させる。いずれシンギュラリティがきて、AIが人類の知能を越えたとして、「人類を滅ぼすために、地球もろとも破壊する」という行動を取り始めたら、そのAIはかなり頭が悪い。
そもそも、どうして「AIの叛乱」というテーマが西洋から生まれたのか? という話から始めなければならないが、西洋は「奴隷だと思っていた相手から氾濫される」という歴史の繰り返しだった。黒人だったり、アジア人だったり……。西洋が潜在的に抱いている不安は、「奴隷から叛乱を受けること」。その潜在的な不安が、SF物語の中に反映される。どうせなら、西洋が抱いているこの不安まで掘り下げて欲しかった。
こちらは『PLUTO』の一場面。ロボットが労働市場を荒らすようになって、ごく普通の、平均的な能力しか持ち得ない人々が一斉に失業者になった。社会から排除され、自尊心を喪った人々が、過激なロボット排斥主義に傾倒していく。
……こっちはかなりあり得る。数百年後どころか、数年後にはこうなりそうな予感が現実的に漂っている。こういう理由で人類とロボットが対立する未来……はありうる。
産業革命以後、世界中の社会制度が一回変わったわけだけど、AI革命後、もう一回社会制度を変えなくちゃいけない……いまそういう端境の時期なんだ……ということを考えなくちゃいけないが。まあ本件と関係ないので横に置きましょう。
AIがある日、人類の敵になる……そんな未来は永久にやってこない。ということは『ターミネーター』の前提設定はすでに「賞味期限切れ」ということだ。「昔の人が考えたSF」の一つとなっている。
そんなストーリーを今の時代に再起動しようとするならば、新たに刷新する必要がある(これは今回のアニメだけの話ではなく、実写映画にも言える)。前提設定は変えず、そこに至るまでの「理由」を変更する必要がある(どういう理由で「人類VSロボット」の戦争が始まるのか)。そこを提示できていない。
今回、「審判の日」前後の物語が初めて描かれるわけだが、ここで本来描くべきなのは、その「審判の日」がどういう理由で起きたのか……というストーリーだ。ここでシリーズの前提を新定義するチャンスがあったのに、作り手に野心もなければ哲学もなかったために、なんの意外性のないストーリーになってしまった。
3・日本を舞台にする意味がない。
どうして日本を舞台にしたのだろうか? 日本を舞台にしたことによって、様々な無理が生じてしまっている。
まず、哲学の面で「日本を舞台にする意味がない」理由。
マルコム・リーと人工知能ココロの対話の中で、「人類の歴史は闘争の歴史だった……」みたいに語られる。でもそれは、「西側では」という話だ。ここでいう西側とは、ヒマラヤ山脈を挟んで西側という意味で、確かに西側は闘争の歴史だった。メソポタミア文明にはじまり、ギリシャ文明、エジプト文明、ローマ文明、ヨーロッパ文明……確かにひたすらに戦争の歴史だった。
東側もまあ戦争の歴史だったけれど(特に漢民族は昔から好戦的だった)、実はその東の端である日本はそうではなかった。根拠となるのは縄文時代の遺跡や遺物だが、縄文時代の武器が発見されていない。縄文時代の大がかりな集落が発見されているが、掘りもなければ塀もない。どうやら日本は、「超平和国家」だった。戦争が始まったのは、弥生時代からという説もある。
確かに戦国時代になると激しい闘争の歴史になるのだけど、それ以外の時代を見ると日本は超平和。平和すぎて平和ボケしまくる、ある種自堕落な性質を持っている。こういう平和な時代が背景にあったから、社会秩序を重んじるし、相互扶助の思想も疑問に思わず受け入れられる国民性が生まれた(最近はそうでもなくなったけれど)。
そういう国で、「人類の歴史は闘争の歴史だった……」という話をするのは、違うんじゃないか。そういう話をするなら、事実「闘争の歴史」で埋め尽くされる西洋でやったほうが相応しい。日本でこの話をやるなら、日本という歴史や文化観を踏まえた上でやってほしい。
問題はまだある。こちらの場面。
闘争の歴史の果てに、ついに愚かしい兵器まで作ってしまった……。そこで「原爆」のイメージが出てくる。
たぶん、監督・脚本のマットソン・トムリンは知らないか、忘れていたかどっちかだと思うが、日本は「原爆を落とされたほうの国」だ。
いや、この件について怒っているわけじゃないよ。そうじゃなくて、お話しの視点が「原爆を落とした方の国」で語られている。こういうところを見ても、日本を舞台にした意味がない。描写する場合でも、原爆の投下を見下ろす視点ではなく、投下される原爆を見上げる視点で描いた方が、日本を舞台にする意義が出てくる。
さらに対話が進み、人工知能ココロは、「ロボットの語源」は「奴隷」という意味だった……という話題を始める。
これも日本を舞台に語る意味がない。なぜなら日本には「奴隷制度」がなかったから。
最近は「日本にも黒人奴隷はあった」それどころか「黒人奴隷は日本から始まった」という言説が西洋に広まり始めている(事実は奴隷制度に強行に反発して、西洋との通商制限をかけていた)。これをジョークだと笑い飛ばしている場合ではない。間もなくこれは「定説」になっていく。そうすると「日本はかつて黒人奴隷をやっていたのだから、その反省を踏まえて、黒人達の待遇を手厚くするべきだ!」という意見が政府界隈に出てくるだろう。
という話は(本件と関係ないので)横に置いといて。
奴隷のなかった国で、奴隷の話をする……というのも相応しくない。
確かに西洋におけるロボットは「奴隷」だ。西洋人は無意識にロボットを奴隷的な存在として描こうとする。そのロボットが反旗を翻すストーリーを構想してしまうのも、その奴隷的な存在が自分たちに反抗するのではないか……という潜在的恐怖が前景にある。そして事実、西洋はそういう歴史を形を変えながらひたすら繰り返している。
しかし、日本におけるもっとも有名なロボットは『ドラえもん』だ。あるいは『鉄腕アトム』だ。日本人はエンタメにロボットを積極的に採り入れたが、ロボットを奴隷として描こう……という意識はない。ドラえもんは主(あるじ)であるのび太としょっちゅうケンカするし、ご飯は一緒のテーブルで食べている。どう見てもドラえもんは奴隷として描かれていない。ドラえもんに限らず、日本人が「知能を持ったロボット」の物語を描くと、主従関係ではなく【友人関係】で描いてしまう。知能のないロボットであっても、人間のよきパートナーとして描かれる。
(『攻殻機動隊』のフチコマも反乱を起こそうとするが、「ハイハイ、もっといいオイル入れてやるから、言うこときいてくんな」とバトーに言われて解決しちゃってる)
なぜ日本のSFでロボットは「友人」として描かれるのか? それはそもそも日本に奴隷制度がなかったから、ロボットというアイデアが日本に入ってきたとき、「奴隷」ではなく「友人」という発想で描かれた。確かに、日本発のSFで「奴隷としてのロボット」が描かれ、「ロボットによる叛乱」のストーリーはたくさん描かれてきたが、それはたぶん西洋の影響によるもの。日本人は「未知の他者」と巡り合ったとき、とりあえずその相手を「奴隷にしようか」という発想はあまり持たない。
そういう国で、ロボットは奴隷だ、奴隷と主、どうやって共存ができるんだ……みたいな話は相応しくない。こういうところも、作品から哲学が欠如しているといえる。日本を舞台にするなら、今までと違う考え方のストーリーが必要だったはずだ。
4・SF設定に無理がある
スカイネットが知能に目覚めた直後、世界の軍事施設をハッキングし、核ミサイルが次々と打ち上がる……。
私はこの軍事について詳しくないのだが、核ミサイルのシステムって、インターネットに繋がってないんじゃないだろうか。ハッキングされて外部の手で操作できる……そういうふうにはしていないんじゃないだろうか。
お話しの設定を見ると、1997年。背景を見ると、懐かしい初代プレイステーションが描かれている。
まだ初代プレイステーションの時代だ。この時代、確かにすでにインターネットは存在していたが、まだまだ一般に普及していない時代だった。AIがネット上のあらゆる情報を掌握できるようになった……といっても、この時代のインターネットにはたいした情報は転がってない(あらゆる個人情報も掌握……というのも無理。この頃はネットと個人情報はほとんど繋がってなかった)。それに回線が遅く、ネットで画像を1枚送り合うのもすごーーく時間が必要だった。
そんな時代に、オンラインに繋がったからといって、その次の瞬間には世のあらゆる情報を掌握し、軍事システムも乗っ取る……いやいや、ムリ。あらゆる面でムリ。
人工知能ココロがオンラインとなったあと、都市中の「1NNO」というロボットがココロに掌握され、東京にいる人々を制圧する。これも色んな面で無理がある。
まず当時のネット状況の問題。当時、回線の問題で大容量のデータをやりとりするのはかなり難しかった。それをWifi的なもので情報を伝達し、共有する……なんてことはできなかった。
次に1NNOというロボットのスペック。たぶんこのロボット、ツンと押すだけで倒れる。
この時代、最先端のロボットはホンダのアシモP2あたりだと思う。やっと自立二足歩行ができるようになりました、凄い! と言っていた頃だ。まだヨチヨチ歩き……という状態。その程度のバランス感覚しかないはずなので、こいつが走り回って人間を制圧する……無理でしょう。マルコム・リーが過去に来たことで、タイムパラドックスが起きている設定だが、それでも1NNOみたいなロボットが走り回って銃をぶっ放す……形状からいってそういうふうにはできていない。
さらに、1NNOたちは銃で武装をはじめる。一応、物語の流れを見ると、自衛隊が治安維持として出張してきて、それを1NNOが逆襲し、武器を奪い取る……という流れはあるものの、その直後にはすべての1NNOが当たり前のようにライフルを装備している……という状況になった(それ以前に、1NNOでは自衛隊に勝てんでしょう。あと、日本で自衛隊出動は、よっぽどの事態がない限り動かすことはできないし)。
いやいや……日本にはそんなに銃はありません。監督・脚本のマットソン・トムリンは知らなかったのだと思うが、日本のスーパーマーケットには銃は売ってない(たぶんアメリカの観客には、この違和感は気付かないかったのだろう)。
この辺りから、どのキャラクターも当たり前のように銃を持っている……という状態になっていく。人間の側も、当たり前のように銃を持っている。お話しの前提がどんどん滅茶苦茶になっていく。やっぱり日本を舞台にするのは相応しくない。
数も多すぎ。倉庫に大量にストックされていた……という設定だが、こんな数で在庫抱えてたら、メーカーは破産するわ。
本作の問題点はここまでにして、さらに細かなところも掘り下げていこう。
といっても、作画も作劇も出来が悪いのは誰が見たってすぐにわかる。そういうのを一つ一つ取り上げても粗探しにしかならないし、切りがないので、大きな問題点、改善点を取り上げていこう。
主人公マルコム・リーの息子・ケンタ。こいつが人格クズすぎ。
いや、「共感できない」「性格クズすぎでムカつく」という話ではなく、この少年がことあるごとに物語の進行を停滞させる原因を作っている。
例えば問題が起き、打開させるためのアイデアを練る。するとそこで「やりたくない」と反対する人が出てくる。
こういうのは物語ではよくある。全員が計画に対して一致団結……というのはリアリティがないし、下手するとそれでカタストロフに陥る場合がある。意見がバラバラであったほうがいい。
しかしケンタの問題は、「嫌だ! やりたくない! なんでそんなことしなくちゃいけないんだよ!」とことあるごとにゴネる。毎回これをやるから、そのたびに展開が滞る。スッといくべきところを、グダグダにする。それで何かしらの対案を示してくれれば問題ないが、それすらやらない。ただただゴネる。
物語に決まった方向があり、それが「正の方向」だとすると、ケンタはその進行をひたすら足を引っ張るだけの存在となっている。かといって、ケンタの行動が別の可能性(違う状況へ向かう正の方向)をもたらすというわけでもない。
全員の意見に対し、とりあえず1人は反対する……というのも一つの脚本作法ではあるが、物語そのものを停滞させてしまうのはダメ作法。やっちゃいけないやつだ。
(ようするに「バカなキャラは描いてはならない」だ)
未来からやってきたターミネーター。このキャラデザがダメ。
ターミネーターの役は、誰でもできるわけではない。そもそもの話、『ターミネーター』というストーリー自体が無理筋。しかしそこに、アーノルド・シュワルツェネッガーが「未来からやってきた殺戮マシーン」を演じてみせた。若い頃のアーノルド・シュワルツェネッガーの風貌は、それを納得させるだけの存在感があった。
『ターミネーター4』以後の新しいターミネーターがなぜ失敗したのかというと、アーノルド・シュワルツェネッガーと並ぶ存在感のある俳優を見つけられなかったことが大きい。新しいターミネーター俳優は、あんな顔・体の人間に迫られても怖くないし、「未来からやってきた殺戮マシーン」としての説得力もなかった。年老いたアーノルド・シュワルツェネッガーも登場するのだが、もう若い頃の存在感はない。なのにいまだにアーノルド・シュワルツェネッガー頼りというのがダメだった。
『ターミネーター』シリーズは、次なるアーノルド・シュワルツェネッガーを見つけなければならない。それができなければ、次の映画は撮るべきではない。アニメであっても、それは同じ。
小さな問題だが、ちょっと取り上げておこう。1997年に「ダブスタ」って言葉はあっただろうか? あったかもしれないが、10代の子供が使ってただろうか?
なぜか主人公には弾丸は当たらない。ガトリングガンをぶっ放しているシーンだが、なぜか弾丸は足元に着弾し、主人公に当たらない。ロボットのエイムはもっと正確なものじゃないのか? それに無駄弾打ち過ぎ。銃の撃ち方ひとつとっても、ロボットらしくない。
昔からある表現だけど、そろそろこういうの、やめようよ。
未来からやってきたエイコ。ミサキに「マルコム・リーはどこだ!」と迫るが……オイオイオイ、1分前までそこにいただろ。なんでいない設定になっているんだよ。逃げる後ろ姿くらい、見えてるはずだろ。
以前から思っていることだが、「ターミネーターシリーズは終わるしかない」のかな。そもそも時代と合っていない。途中に書いたように、私たちはAI時代に入ったのだけど、どうやらAIは人類に対し反旗を翻したりしそうにない。そうではなく、社会環境の問題の方が大きい。今作がそういう時代を踏まえているか……というとそんなことない。未だに1984年か1991年頃に作られた考え方で通そうとしている。そこに無理筋がある。『ターミネーター』を新時代に再生しようとするなら、今の時代に通用する設定を考えなくちゃいけない。今の時代にリアリティを感じられる設定を考え直さなくちゃいけない。
1997年「審判の日」前後を描いた本作は、そのチャンスがあったはずなのに、やっぱり最初の『ターミネーター』の設定を引きずっている。新しいようで、新しくできなかった。そこにこそ、本作の失敗があり、そこに気付かないターミネーターシリーズは限り失敗し続ける。
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