映画感想 ザ・キラー
とある殺し屋の日常。
犯罪映画に異様な執着を見せる、デヴィッド・フィンチャー監督が選んだ題材はとある「殺し屋」の物語。原作はフランスのコミック『The Killer』。2007年にデヴィッド・フィンチャーが監督することが発表された。映画の制作はブラッド・ピットが立ち上げた会社であるプランB。脚本はアンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。脚本家アンドリューとデヴィッド・フィンチャーの関わりは『セブン』に始まり、『ゲーム』『ファイトクラブ』『パニックルーム』で、本作で4作目となる。
2021年、本作の企画はNetflixに持ち込まれ、Netflixとの独占包括契約を結んだ後に制作された。
2023年9月に第80回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門でプレミア上映。第71回サン・セバスティアン国際映画祭で上映。第28回釜山国際映画祭でも上映された。他の劇場公開に関する情報はない。
映画批評集積サイトRotten tomatoでは、批評家によるレビューが292件あり、肯定評価85%。一般レビューが61%。批評家受けは良かったが、一般観客からはやや厳しめに評価された。
それでは映画前半のストーリーを見ていこう。
驚くことに、肉体はなにもしなくても疲れる。退屈に耐えられない者には、“この仕事”は向いていない。
ここはパリ。ホテルのある一室の監視を始めて、数日。数日、ただ見ているだけ。標的がホテルの中でどのような生活をして、いつ隙を見せるのか……そのタイミングをひたすら待つだけの日々。
毎年、およそ1億4000万人が生まれる。世界の人口は概算で78億人だ。1秒ごとに1.8人が死ぬ。一方で4.2人が1秒ごとに生まれてくる。俺の仕事は、目の前の1人を殺すだけ。統計になんら影響を及ぼすことのない、ささいな仕事だ。
――標的が戻ってきた。仕事だ。
音楽は気晴らしを与えてくれる。集中させてくれる。内なる声が彷徨わないように。俺は段取りを重視する。意図的に目標を狭める。
計画通りにやれ。予測しろ。即興はよせ。誰も信じるな。決してアドバンテージを許すな。やるべき事を確実にこなす。単純だ。
――クソ!
失敗した。銃弾は女に当たった。
今すぐに逃げなければ……こんなのは初めてだ。落ち着け。考えろ。考えるんだ。誰にも見つかってない。痕跡も残していない。すぐに消えれば、誰も俺を追跡してこないはず……。
ここまでで25分。
前半25分は、とある殺し屋が殺しのタイミングをひたすら待つだけ。これだけのお話しで25分。
似たような作品に、押井守監督の短編オムニバス映画『.50 Woman』があったね。2003年の映画『KILLERS キラーズ』の中に収録されている1編だ。似たようなシチュエーションの作品だけど、押井監督の『.50 Woman』はコメディ。似たようなシチュエーションで、殺し屋がひたすらタイミングを待っているだけの内容だが、本筋はさて置きとして、その間ひたすら食べまくる……むしろ食べるシーンのほうが本筋という内容だった(あと標的がジブリのあの人だし……)。
本作『ザ・キラー』はそこからさらに進んで、「もしも殺し屋が本当にいるとしたら、こんな生活を送っているのではないか」という“もしも”の物語が詳細に描き込まれていく。
前半25分の物語は、この窓から、えんえん標的のいるホテルを眺めているだけ。その間、殺し屋がなにを考え、どんなルーティンをこなしているのか……それが淡々と描かれていく。
ちなみに主人公の名前は特になく、公式でも「ザ・キラー」となっている。このブログでは「殺し屋」とする。
ちょっと映画学校の生徒に向けたお話をしよう。
とある男が何もない部屋の中にいる。その様子をどう撮るか。
まず、真後ろから撮った構図。殺し屋と、殺し屋が狙っている対象が見えている窓。この構図がベースになっている。
次に真横。カメラが90度回り込んだ視点で撮影されている。
イマジナリーラインは殺し屋の右手側、背中から正面までの半径となっている。
イマジナリーラインはこの後も、ずっとこちら側。殺し屋はこの後も画面→側を見続ける。
次に殺し屋の正面に回り込む。真正面ではなく、顔がななめ45度に見える視点。
真正面ではなく、ななめ45度。真正面になると、それだけで特別なニュアンスが出てくるから、俳優からやや距離を置いた視点で……となると、この構図になる。
以上がこのシーンの、基本的なカメラワークとなっている。フレームサイズを変えながら、この構図がえんえん繰り返される。カメラワークは好きなようにすればいいのではなく、一定のベースが必要。このシーンにおけるカメラポジションのベースは以上の3点。ここを押さえているから、シーン全体も破綻しない。
本作の場合、殺し屋の仕事の退屈さを強調するために、あえて同じカメラワークが繰り返されている。似たような構図が繰り返されるのも、意図的なもの。
同じ構図がひたすら繰り返されるだけ……はさすがに退屈なので、点々と「決め」のカットが間に入ってくる。この場面はヨガをやっているところ。ピンと伸びた足や手を強調するために、遠近感が極端に見える構図で撮影されている。それでいて、このシーンの重要ポイントである窓を構図に入れている。
映画学校の生徒は、この映画の前半シーンを絵コンテに起こしてみると勉強になるかも知れない。
一度、殺し屋が建物の外に出る。行く先はマクドナルド。
なぜマクドナルドに行くのか。マクドナルドは世界中にどこにでもあり、ひっきりなしに人が尋ねてくる。殺し屋はとにかく目立ってはいけないから、だからこそ世界中どこにでもあるチェーン店をあえて選ぶ。
で、買ってきたハンバーガーのパンを外し、ハムと卵だけで食べる。殺し屋の生活はとことんストイックなので、余計なカロリーの摂取は避けて、栄養だけを獲りたいので、ハムと卵だけを食べる。じゃあ「最初からパンなしで注文すれば……」と思うかも知れないが、そんな注文をする客がいると店員の印象に残ってしまう。普通に注文して、食べるときにパンを外して食べる。
携帯電話は一回使用ごとに破壊。もったいないなぁ……。
携帯電話はチリンと鳴らすだけでも通話履歴と、位置情報も記録として残る。使い続けると居場所を特定するヒントになる。しかし連絡手段としては必要だから、1回使うたびに破壊……という使い方になる。
プリペイド携帯といって、昔は日本でもコンビニで「使い捨て携帯電話」が売っていた。しかしプリペイド携帯なんて喜んで使う人、といえば犯罪者くらいなものなので、そのうちにも禁止された。
殺し屋の窓から見えた視点。正面に見えるホテルを、平面的に捉えられている。この構図はたぶんヒッチコック監督の『裏窓』が元ネタじゃないかな。
依頼元から「24時間以内に仕事をしろ」とせっつかれたので、悪条件が一つあるが、仕方なく銃を身構える。
仕事の直前、必ず「感情移入はするな。感情移入は弱さを生む。弱いと無防備になる」というモノローグが入る。殺し屋なんて仕事をやっているが、かといってサイコパスではない。殺人に抵抗はある。感情が揺らぐことがある。だからこそ、「感情移入するな」と自分を言い聞かせるために、こう言っている。
しかし――失敗する。標的の手前に立っていたSM嬢に当ててしまった。
これまで100発100中。失敗したことがない。初めての失敗。殺し屋は動揺しながらも、ただちにそこから逃亡する……。
殺しに失敗したのは、依頼主に「24時間以内(今夜中)」という条件を示され、しかしその夜、SM嬢がやってきて、標的が1人になるチャンスがなかったから。無理を強いた結果、失敗してしまった。
物語創作としてなぜミッション失敗をテーマにしたのか。もしも成功だったら、「任務完了」で物語はそこで終わり。暗殺に失敗した後、その殺し屋はどうなってしまうのか……こちらがこの物語のメインテーマ。
仕事に失敗した殺し屋は、すぐに飛行機に乗って、自宅があるドミニカ共和国を目指す。ここに来るまで、意図的に視野が狭く、緊張感のあるカットが続いていたが、ここで一気に視野が開けるロングショットが描かれる。このカットでは車の動きに合わせてドローンが上昇し、その向こうに海を見せている。
陰惨な世界観から逃れて、天国的な世界に逃れる様子を表現している。
しかし安全地帯と思われた自宅へ行くと、そこに足跡。すでに依頼人が手を回していた。そのことを察し、殺し屋は銃を抜き、わざわざ茂みに隠れて自宅を目指す。すでに襲撃者は去った後だった。
殺し屋は自分と、恋人の安全を確保するために、行動する。復讐しなければ、この後もずっと「いつかやってくる襲撃者」に怯えて暮らさなければいけない。
真っ先に向かったのはタクシー会社。「襲撃者は緑のタクシーに乗っていた」という目撃情報をもとに、緑のタクシー、襲撃者のやってきた日時にぴったり合う運転手を特定。その後、金庫の金を奪って逃走する。金を奪ったのは、「ただの強盗」に見せかけるため。
次に向かったのは、ホッジス弁護士事務所。殺し屋はこの人から依頼の受注をしていた。主人公に殺し屋稼業を勧めたのもこの人。パリで「24時間以内に仕事をしろ」とせっついていたのも、この人。しかし暗殺に失敗したために、元の出資者に「証拠隠滅」を提案し、主人公を殺そうとした。その証拠隠滅に失敗したために、こんな状況になってしまっている。
殺し屋稼業なんて、儲かるからといってやるものじゃない(ブラックバイトの行き着くところって感じだけど)。
しかし弁護士から有用な情報が得られず、その秘書を連れて行くことに。
殺し屋はいつものように「感情移入はするな」と自分に言い聞かせるが、目元がピクッと動いている。このおばさんは、この映画の中では善良で、一般人に近い立場の人。悪党なら殺すことにためらいもないが……普通の人を殺すことには良心が痛む。その密かな心の揺れを、目元の動きで表現している。
この殺し屋は、実は積極的に人を殺したい……というタイプではない。タクシーの運転手を撃つときも、逃げられそうになった瞬間、パンと撃っている。そのギリギリまで撃たない。後のシーンでも、ギリギリまで撃たない。その代わりに、撃たねばならない時が来たら、パッと撃つ。そこは冷静に対処する。積極的に殺しはしないけど、殺さなければいけないときにはパッと判断する……ためらいと冷静さの間で密かな葛藤をする主人公だ。
必要な情報を獲得し終え、殺し屋はフェリーに乗り、海に何かを捨てている。
その直前のモノローグで、「パズルを解かせたくなければ、ピースを1~2片残し、残りはばらまく」と語っている。その台詞に合わせて、弁護士の死体を入れたポリバケツとノコギリが出てくる。その直後の場面だから、海に捨てたのは死体の一部だろう。あえて身元を特定しやすい部位……といえば頭部だろうか。
……残りのパーツはどうやって処分したのだろうか。『ブレイキングバッド』では酸で死体を溶かしてたな……。
ここまでで前半1時間。ここまでが前半戦で、後半戦は復讐シークエンスになる。映画が一番盛り上がるところだ。
ここからは後半戦チラ見せ。
もしも「殺し屋」が職業としてあるとして、実際にいたら、こんな生活を送っているのではないか……という想像で描かれた作品。空想たくましく……というのではなく、かなり論理的に、合理的に殺し屋という職業が描かれている。スパイ映画的な「秘密道具」なんて一切登場せず、すべて現実にあるものだけで作られている。
(たぶんデヴィッド・フィンチャー監督のことだから、もっと詳細に「殺し屋の生活」を調べ上げていたはず。しかし全部描いちゃうと、この映画を切っ掛けに何かしらの犯罪が起きちゃうから、細かい手法はぼかされている)
そこをあまりにもリアルに描かれているから、エンタメ映画的な派手さはかなり弱い。物語の起伏も小さく、情緒的に惹きつけられる部分はほとんどない。お話しに付いてこれるかどうか……というところがあるので、批評家からの評価は高く、一般レビューが厳しめになったのは、こういうところだろう。率直に「楽しい作品」ではない。
映画後半パートのシーンをちらっと見てみよう。ここは、殺し屋が敵の家の中へ侵入した場面。とにかく画面が暗い。かすかな明かりだけでうっすらと人物が浮かび上がっている。この明暗の微妙なコントラストもデヴィッド・フィンチャーらしく、見事な画面になっているが……。
この後、ドタバタの乱闘になる。この戦いも、ハリウッド・エンタメ的な「流れのキレイな殺陣」というのではなく、とことん生々しく、暴力的。実際に殺し合いになったら、こういう状況になるんじゃないの……という光景そのものを描いている。
ひとしきり激しいドタバタを繰り広げた後、明かりの中に入っていく。と同時に、血がダラダラ~と流れ出してくる。これまで薄暗闇の中の乱闘だったが、ここでその激しさに気付かされ、ゾッとする。こういう残酷描写の見せ方は、相変わらずうまい。
次なる標的を求めて、ニューヨークへ行くが、画面全体がゴールドになっている。この照明がとてつもなく美しい。色彩や光の捉え方は、デヴィッド・フィンチャー監督独特のものがあるのだが、いったいどうやったらこんな画面になるのだろうか。
女を追って、とあるレストランへ入っていく。ここでも色彩表現、奥行き表現が見事。この画面になるまで、とことん突き詰めているんだろうな……。
殺し屋と女の対話シーン。殺し屋は今から殺すべき標的と向き合うとき、とことん無表情。弁護士の秘書との対話シーンを見ても、まったく同じ無表情カットが何度か繰り返される。話しかけられても無視。すでに書いたように、この殺し屋はサイコパスではない。感情移入すると殺せなくなるから、感情を動かさないようにしている。
この女と向き合っている場面でも、アニメの止め絵みたいなカットが何度も間に入ってくる。感情を動かないように頑張ってる。
ところが女が物語を話し始めると……。ここでカメラがゆーっくりズームされていく。2人が物語に意識が集中していることが示されている。人物は無表情であるかわりに、演出で心情の動きが表現されている。
で、つい殺し屋は微笑みを浮かべる。心が動いちゃったのだ。
なんで来たの、と問われて、「話をしたかった」と答えちゃっている。それくらいに殺し屋の心は動いている。もしかしたら一つ前のシーンで、秘書を殺したことが引っ掛かってるのかな……という気も。
でも、これは女の策略。この後、レストランの外へ出て、2人で歩く。地面が凍結して、足下が滑る。女は、「滑るりそうだわ」と殺し屋に手を差し伸べる。
ここで殺し屋が撃つ。次のカット、よく見ると、女の左手にナイフが握られている。レストランのやりとりで、殺し屋の情緒が動くのを確かめて、その後、「足が滑りそう」と手を差し出す。相手が普通の人間だったら、女の手を握ろうとするはず。ここまでが女の作戦だったが、殺し屋のほうが一枚上手。冷静に対処した。
というのがこのシーンの流れだけど、普通に見ていたらスルーしちゃいそう。「あの対話、意味あった?」「なんで撃ったの?」と思われても仕方ない。こういうところで「わかる人にしかわからない」内容になっている。
こんなふうに、殺し屋のストイックな生活を描いた本作だが、映画自体も無駄な贅肉のない作品。エンタメ映画らしい派手さはない。痛快さもない。映画自体が殺し屋の生活を、冷徹に捉えて描いている。後半の“復讐パート”も、もっと派手に、エンタメ映画的な見せ方はあったはずだけど、あえてトーンは落としぎみで、テンションもギアも上げず。冷静に、「殺し屋が実際にいたらこうじゃない」という感覚で描かれている。
それだけに見る人を選ぶ作品。こういう作品が好きな人は、とことん好きになるはず。さほどでもない人が間違って見ちゃいけないタイプ。まずエンタメ映画としての親切さがない。主人公がいま何をしているのか、映像をきちんと見ないとわからなくなる。説明してくれない映画。モノローグは一杯あるのに、そこで本音は語ってない。やっぱり映像を見てないとわからなくなる。興味のない人には難解作だが、こういうジャンルが好きな人は絶対に見るべき作品。
最後の、ラストシーンのネタバレ。最終的に、主人公の殺し屋は、“状況的な平和”を獲得する。しかし最後のカット、殺し屋の横顔がアップになり、目元がピクピクと動く。“状況的な平和”は獲得できたが、“心情的な平穏”は獲得できませんでした……と。
いくら儲かるといっても、殺し屋なんて仕事にしちゃいかんね。