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11月28日 AI革命以後社会を考える⑤ 核家族が終わる時

 いわゆる「就職氷河期」がやってきた頃、仕事を獲得できなかった若者が、その親から罵倒され、そのまま家を追い出される……というような話がぽつぽつとあった。就職氷河期の親……というのは団塊世代か、それよりちょっと後くらいの世代で、「大人になったら家を出て行くのが当たり前」「結婚して、自分の家庭を作るのが当たり前」「それができない奴は甘え」という考えだった。
 しかし団塊世代とその後はまるっきり社会状況が違う。団塊世代やバブル世代は、どこにいっても採用されるのが当たり前、就職の苦労というものを経験していない世代だ。団塊世代が就職をし始めた頃、問題になったのはすぐに離職して違う仕事に就いてしまうことだった。なにしろ採用率100%の世界だから、少しでも条件の良いところ、給料の高いところを探して渡っていくのは当たり前。そこで「終身雇用制度」が作られ、「同じ企業にずっといた方がお得」という考えが生まれ、それが現在に至るまでの労働者の社会倫理になっていった。だから「就職する」ということ自体に苦労する……ということを理解しない。「働けない」という状態は自己責任であるから、とにかく家を追い出せ! ……がある時代まで若者の独り立ちを促すために正しいやり方だ……と思われていた。
 少なくとも、テレビメディアではそういう考え方を発信していたし、引きこもりになった若者を強引に連れ出し、「矯正施設」に送り込む「引き出し屋」と呼ばれる人達を英雄的に紹介していた。実際に引き出し屋を英雄的に紹介した報道番組を見たことがある。あれはまだ核家族を中心とする社会が正義だと思っているからこそのものだ(テレビはまだ引き出し屋を報道番組に出しているのかな?)。

 バブルが弾けた後、企業は雇用の数を絞り、新卒も中途もほとんど採らなくなった。これを就職氷河期といって、そういった実態はテレビでさんざん報道されていたはずだが、しかしその内容をきちんと理解できている人は少数だった。
 理解できていたのは、実際に何社も受けて、採用すらされない……という現実に直面した当事者だけ。そういう問題に直面することのないおじさん世代たちは、就職氷河期という言葉をテレビで見ていたけど、理解していなかった。就職できない若者を見ると、「甘えだ」「怠けているだけだ」と反応するだけだった。

 こういう様子を見ると、世の中に変化があったとしても、人間の頭はそういう変化に対し、即座に対応できないのだなぁ……というのがわかってくる。大抵の人々、というのは、自分がそれらの現実に直接触れるまで、世の中の問題を自分事として考えることができない。そもそもそういうものなんだ……ということは理解しておいたほうが良い。

 今にして考えると、就職氷河期と言われた時代から、もう「時代の変化」は来ていた。働きたいと願い出ても、働く機会すら与えられない。これからはそういう時代がもっと加速する。AI革命以降は、本当に能力のあるごく一部しか働けなくなる。
 すると社会観は、家族観はどうなるのか? 私がここで「核家族」という形態について考えたい。
 どうして最初に就職氷河期の問題を書いたのか……それはすでに変化は始まっていたから。しかしほとんどの人間はその変化に対し、なかなか理解できない。その以前の価値観を引きずって来たし、その次の世代に対しても同じ価値観が通用すると考えてしまう。それはこれからの世代、さらに通用しなくなりますよ……という前置きをしたかった。というのも、これから書くことは「核家族」という形態が崩壊するかもよ……という話だからだ。

 こういう考えを始める前に、まず「核家族」がなんなのか……というところから始めよう。
 核家族の歴史は浅く、19世紀から20世紀初頭の頃、西洋社会で形成されはじめた。この頃、産業革命によって農村地域から都市部へと人口流動がおき、それまでにない家族観や社会構造の変化が起きた。「核家族」はそういった変化の一つである。
 核家族の形成に大きな影響を与えたのが「産業革命」であった。産業革命によって、より多くの人が平等に働くことができて、平等にそこそこの冨を得ることができた。そうした背景があって、ようやく核家族は成立したものであった。

 日本における核家族はWikipediaによると1920年(大正9年)には54%の世帯が核家族化していた。明治時代、西洋で起きていた産業革命を採り入れ、急速に社会観が変化していく。そうした最中、核家族も広まっていった。
 それ以降の推移は緩やかで、1975年(昭和50年)の頃、核家族仮定は64%となり、これが頂点となって、以降は6割前後を推移している。

 世の中的には「核家族こそが家族構成の基本だ!」という前提で語られやすいが、そもそも100~200年程度の歴史しかない。しかも核家族は産業革命によってようやく実現し得たもの……で、いま直面しているのはその産業革命を前提にした社会の崩壊。すると核家族という家族構成も崩壊するかも……というところまで考えておきたい。

 しかし、核家族が崩壊し、消滅することは実はなんの問題もない。というのも、核家族という形体にはいろいろな問題が孕んでいた。ここからは「核家族が抱えていた問題」について書いていく。
 まず第一に「子供の問題」だ。核家族になると、子供の教育はその親のみの責任となる。最悪の場合、母親のみが子供の問題の責任を負う……ということになる。現代の社会は周りの人達全員が「他人」であるから、いざという時に頼れない。二親にのみプレッシャーのかかってしまう。
 核家族以前の社会がどうだったのか見ていこう。
 人類のもっとも古典的な社会構造は小規模血縁集団と呼ばれ、血縁者だけで固まっている集落を作っていた。社会が首長制度、国家へと変遷していった後も、どこかしら「血縁者」という一塊としての考え方は残っていった。産業革命によって、ようやくその血縁者という括りが崩壊したわけだ。
 その小規模血縁集団はどんな家族観だったか見てみよう。
 小規模血縁集団では、周囲の大人達全員が「代理親」だった。子供の育児や教育は、まわりの大人達全員で引き受けるものだった。そういうわけで、初めて母親になった人が、たった一人で子育てに奮闘する必要はない。時にはまわりの大人達に子供を預けて、遊び行くことだってできた。
 小規模血縁集団では子供の出産は非常に早かったが、しかし「初めての子育て」でも母親は「どうすればいいんだろう?」と慌てることはなかった。というのも、自分もしょっちゅう他の女が産んだ赤ちゃんのお世話をしていたから、自分が出産する番が来たときには、すでに子供の面倒を見るためのノウハウを理解していた。小規模血縁集団の世界では、母親は「育児講習会」なんぞに行く必要もなかった。「子供の面倒の見方がわからない!」と困るようになったのは、核家族以降の話だ。
 実は人類史の歴史を見ると、そうやって子育てしていた時期の方が圧倒的に長い。人類の歴史はざっと40万年ほどあるのだが、核家族制度はそのうちのたった100年ほど。「核家族が基本!」なんて考えるのは、ごく最近で、しかもそれも今まさに崩壊しようとしている。

 個人的な話になるが、私の両親は教養とはまったく無縁の人間だった。言うことなすことデタラメ。私は親から何一つ教訓めいたものを学ぶことができず、社会に出てからさんざん恥をかいて苦労して必要なことを学んでいった。
 親がまともな教養を持ってなかったら、その親しか手本を持たない子供は苦労する。私がその実例だ。私はあのいい加減な親をもったばかりに、社会に出てから相当に苦労した。
 こういうものも核家族の弊害。自分を教育してくれる唯一の親が、教養とはまったく無縁の人間だった場合、それだけで子供は苦労するし、社会に出るスタート地点もだいぶ遅れる。周囲に「代理親」が一杯いる環境であると、「自分が尊敬する大人はこの人だ」と決めて、その人から教育を受ける……というやり方もあり得るかも知れない。
 「成功者の子供」に生まれると、その時点でスタートラインが違う……というのは事実だ。私は実家には本は一冊もない、音楽はCDもレコードも1枚もなかった。家の中に「文化」と呼べるものがなく、家の中でなにかしらの教養を吸収することはまったくできなかった。「親の影響で何かを好きになった」ということもなかった(そもそも親は完全なる無趣味で、影響を受けるものが何もなかった)。すべて大人になって、古本屋巡りを始めてようやく……というものだった。それまでの私は、ただの無知な若者でしかなかった。
(今はブログでこういう文章を書くくらいの知恵は得たが……残念ながらこの知恵で収益を得る方法をいまだに見いだせずにいる)
 私の場合、親がまったく教養を持ち得ない……というだけで済んだが、もしも親が一般的なモラルから著しく外れるような人間だったらどうなるだろうか? そういうときに、いろんな「代理親」がいるべきではないか。

 さらに余談だが、さっき話したように、私の両親はまったく教養を持ち得ない人間だった。生涯で1冊も本を読んだことがない。言うこともやることも全てデタラメで、いったいあんないい加減な人間がどうやって世の中を渡っていけたのだろうか……と不思議になるくらいだった(団塊世代はあんなものでも許されていた時代だった)。
 私は親から何も学べることはなく、影響を受けたものは一つとしてなく、すべて自力で社会性を身につけ、知識を身につけていった。
 その結果として起きたことは親子の対話の消滅。私と親とは持っている知識も、感性もまるで違いすぎる。いくら話しても興味ある何かを得ることはできないし、楽しくもない。文化観があまりにも違いすぎるから、違う国の人との対話になってしまう。
 それどころか、私の親は、私の話なんてものは基本的に見下している。「今どきの若者は活字を読まないからみんなバカになっている」というのが私の親の口癖だが……本を一冊も読んだことのないお前が言うな……の一言をグッとこらえている私の気持ちがわかるだろうか。ちなみに、私の親は、私のことをテレビを通して見る若者と同じくらいバカなんだと思い込んでいる。
 でもあんな人間でも、社会は当たり前のように引き受けていた……という時代があったのだ。私の親だけの話ではなく、あの時代の大人達はみーんないい加減だった。まともな教養を持っている大人はいなかったし、まともな社会性を持っている大人もいなかった。私は私の親が外部の人に対し敬語を使っている場面をほとんど見たことがない。私の親世代は仕事するときでも敬語などほとんど必要なかったのだ(ただし、若者には敬語を絶対に使わせるが)。
 そう考えると、団塊世代達はなんて幸せだったのだろう。その幸せに気付かず、若者批判をし続ける彼らはなんと愚かなのだろうか。

 話を「核家族問題」に戻そう。
 核家族は基本的には“恋愛で燃えあがっている若者達のもの”で、家族を作って以降の問題について何も考えていない。まずすでに書いたように「育児の問題」を抱える。育児の問題すら、まともに向き合ってこなかったのが核家族だ。その次の問題は「老後問題」だ。
 たいていの人は、自分が年老いたら、息子や娘が自分の面倒を見てくれる……と信じている。しかし核家族という習慣がそれを遠ざける。いざ自分が他人の手を借りなければならない時期が来たときには、若者達は外に出て自分の家庭を築いている。それは自分たちが若者時代にやってきたことだ。それなのに、なぜ自分が老人になったら、息子や娘に面倒を見てもらえると思っているのか?
 こういうのを「空の巣症候群」という。若い時期は、燃えあがる恋愛が男女を繋げている。それは子育ての意欲にも繋がってくる。しかしその子供たちが去った後は燃え尽きてしまう。後に残るのは「孤独」だ。
 中には「いい加減親に頼るな!」と自ら追い出した人もいるだろう。自分から追い出して、どんな義理で老後の面倒を見てもらえると思っているのか。
 最近は実家に残り続ける男性のことを「子供部屋おじさん」と呼ぶらしい。この呼び方も、「核家族が家族形態の基本!」という思い込みに基づいている。ではこの子供部屋おじさんを家から追い出すとどうなるだろう? 誰が老いた親の面倒を見る? 誰が親の資産を継ぐ? そういう将来を考えず、「すべての若者が家から出るのが当たり前!」という価値観のみで語ってはいないか?
 また少し私の地元の話をしよう。私の地元は70代以上の老人が全世帯の7割を越す。大きめのスーパーに行くと、客はみんな老人。働いているのが若者……という様子が見てすぐにわかる。どうしてこうなったかというと、私の地元はそこそこ新しい街で、団塊世代達のベッドタウンとして栄えた。そうした人々で一杯だったから、若い世代が育ったときに「地元に住む場所も働く場所もない」となって、みんな街を出て行った。これが「若い世代はみんな家を出よう!」という習慣が生んだ末路だ。
 「習慣や仕事の継承」といったものもまるごと絶えてしまい、世代が変わるごとに文化観がリセットされてしまった。「後継者問題」に苦しむのも、核家族制度を推し進めたせいでもある。核家族を基本としてしまったからこそ、数千年受け継いできた伝統文化が喪われ、日本は浅はかな文化が広がってしまった……ともいえる。
 核家族はこうした老後問題も想定していない。想定していないから問題を抱える。他人の手を借りたい……というときには息子と娘は外に出てしまっているから、仕方なく施設へ……ということになる。
 核家族はこういう老後の問題をずっと目を向けないようにしてきた。その問題を、当事者だけのものにして、社会的にも話題にしないようにしてきた。

 ここまでに見てきたように、実は核家族にはいくつもの問題を抱えていた。なぜ人々は核家族という形式を選択したのかというと、産業革命によって誰もがそこそこの富を獲得するようになって、「若い男女だけの家庭」が可能になったから。そして核家族が増えていくと、それが世の中的に「絶対的な常識」という状態になっていった。あたかも「核家族を作れない奴は欠陥品だ」のような言い方をする人すらいる。
 それにしても、どうして人々が核家族なんてものを作るようになったのか……それは「煩わしかった」からだ。一族とか血縁とか、そういうしがらみから解放されたい! 好きな相手と、自分たちだけの小さな世界を作りたい! 世の中的にも、個人の意思や考えを尊重すべきだ……という考えのほうが優勢になっていた。そしてそういう若い願いのもとに、一族や血縁といった社会は崩壊していった。
 それはある意味、産業革命以後社会の「徒花」と言うべきものだった。

 しかしもしもAI革命によって、一部の優秀な人間だけしか仕事が得られない社会が来て、ほとんどの人々が「少々の冨」すら作れない……という状態になったとき、この核家族は維持可能だろうか?
 まあ……無理でしょう。

 ならばどうするか……というと一つには拡大家族以前の形体に戻ること。血縁や一族という括りに戻って、その中で成功者が出てきたら、その成功者にぶら下がる。
 ここでも「成功者にぶら下がる」が出てくる。成功者にぶら下がって、いろんな面倒を見てもらう。成功者が働くための障害を取り除くよう世話をして、そのかわりに勉強する機会をもらったり、結婚の面倒も見てもらう。
 結婚の面倒を見てもらう……というのに驚く人もいるかもしれないが、江戸時代の徒弟制度の世界では、師匠が弟子の結婚の時の後見人になることはよくあった。江戸時代では師匠と弟子はある種の家族のようなものだから、面倒を見るのは当然だった。

 推しの面倒を見る……ということもこの時代にはあり得るだろう。
 今の時代「推し」という概念があり、そういう人達を支えたい……という人は多い(私にはこの感覚、難しいのだが)。現代人は自分が働いていることや、自分の生活に意義を見いだせないという人は多い。そういう人々は推しというカリスマ的な存在に強烈な憧れを抱き、その存在を横に置くことで生活の活力を得ているという。
(それはすでに「働くこと」の意義がなんなのかが失われている……という状態だという話だが)
 AI革命以後の時代は、外から金銭的にそういう推しを支持する……ではなく、推しの生活の中に入って直接支える……という形式になる。ある意味、推しにぶら下がる……というやり方だ。成功者もそうやって慕ってくれる人を養う。そうやって支え合う関係が成立する。

 もう一つ提案したいのが、複数家族と一つの家に住んでしまう、ということ。どれくらいの人数で住むのが相応しいのかわからないが、だいたい3~4家族くらいが一つの家に住む(独身であれば5~10人くらい)。その家の中では、大人達が全員が「代理親」となる。子育ての責任を、直接の親だけの責任……としない。全員が面倒を見て、全員が教育をする。
 核家族は基本的に新天地を目指し、周囲一帯知り合いがまったくいない中で子育てをする。だからいろいろ問題が起きる。いざという時頼れる人がいない……という状態に陥りがちだ。
 そういう問題を回避するために、母親は「ママ友」を作ったり、「公園デビュー」したりと、いろんな苦労を抱える。職場のように「合わなければ転職」……というわけにはいかない。自分に合わないコミュニティだと思っても、諦めてそのコミュニティに頼らねばならない。
 だったら最初から仲の良い友人同士のグループの3~4家族くらいが一緒に住んでしまえばいい。その中で頼って頼られればいい。どの親も他人の子供の面倒も見るし、自分の子供の面倒も見てもらう。そうすると、一つの家族だけにかかる負担は相当軽くなるはずだ。
 その中で、働いていない人や働けない人が何人かいても問題ない。そういう人をいかに守っていくのか……が世の中の在り方だ。むしろ全員が8時間働かねば維持すらできない……という工業化社会のほうがどうかしていた。そこまでしゃかりき働かなくていい時代がきたのなら、その時代の恩恵に甘えたっていい。
 AI革命以後、すべての人が働けるわけではない、成功者にぶら下がっていく社会ができるなら、そういうこともあり得よう。

 やがて子供が育っていくことになるが、その子供たちに積極的に追い出す必要はない。その子供たちが、良き友人や良縁に恵まれて、その人達と住みたい……と申し出れば、その時に見送ってやればいい。それ以外のときは、ずっと一緒に暮らしていく。そしてやがてやってくる老後の面倒も見てもらう。

 そうやって作った3~4家族くらいのグループが、ある意味の「血縁者」や「一族」になっていく。もしかしたら、そういうものが、かつての「血縁集団」とは別の、新しいグループを作っていくかも知れない。
 そういったものを本当の仲良しグループなどで作っていく……ということはある意味、幸福なものかもしれない。
 なぜなら私は私の親とまったく対話ができない。趣味も教養も感性もまるっきり違う。血縁者でも、「本当に私と彼は遺伝子的な繋がりはあるのだろうか?」と疑うくらいにまったく違うように育っていく……ということはいくらでもある。時代が変わると、それくらいに感性が変わるものなのだ。
 しかし仲良しグループであれば、つまり自分に似た感性の持ち主たち……ということになる。そういう人達の方が、従来の血縁者同士のグループよりうまくいくのではないか。

 おそらく核家族は崩壊するだろう。というか、今の時点でかなり崩壊している。この先も産業革命の徒花、核家族が当たり前……という社会が続くとは思えない。なぜなら工業化社会を前提とした社会が崩壊するからだ。
 しかし、人間の意識はそうそう変われるものではない。現代においても、老人世代だけではなく、若者世代でも大人になったら親元を離れ、誰かと結婚し、自分だけの核家族を築くんだ、それができて一人前の社会人なんだ……とほとんどの人が思い込んでいる。しかしそれは恐ろしく障壁が高い……ということに気付き、愕然とし、あるいはコンプレックスを抱く。それでも「核家族を築くべきだ」という考え方はなかなか変えることはできず、残っていくだろう。

『クレヨンしんちゃん』の野原一家。クレヨンしんちゃんが始まったのは1990年。バブル期の最後に始まった作品だった。この当時、野原一家は平均的な中流家庭。一家の長である野原ひろしは「頑張ってるけどダメなお父さん」という位置付けだった。それが今では「エリートなのでは?」と言われている。真実はそれだけ日本の経済がダメになった……という意味だ。

 すでに書いてきたように、イノベーションが起きたとしても、そのイノベーションに合わせて人間がすぐに変わる……ということはできない。その以前の考え方や、その以前の暮らしを引きずっていく。電気街灯が発明されていたのに、イギリスでガス灯を点ける職業がなかなかなくならかったように、一つ前の価値観はそうそうに消えるものではない。
 まだしばらく「核家族を築くべきだ! 核家族を築けて一人前だ!」と言い続ける人は絶えないだろう。そして偶然たまたま、核家族を築けた人達による優越感も消えてなくならないだろう。
 その後、とうとう誰もまともな核家族家庭が築けない……という事態に直面して、人々は大いに慌てることだろう。それからやっと、「核家族という価値観、やめようか」という考えに至る。そもそも核家族って、言うほど幸福な家族観だったっけ? ……という問いもその時になって初めてするようになるだろう。AI時代に対応した家族観を築こう……という考えは、その後の話だ。多くの人がこういう話題ができるようになるのは、その時になるだろう。

 大多数の人がここに書いている話に気づくのは、50年後くらいかな?

つづき

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とらつぐみ
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