4月8日 三島由紀夫と頭でっかちな全共闘東大生
Netflixで『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』というドキュメンタリーを見た。撮影はされたものの、50年間封印されていた、ちょっと曰く付きな内容のドキュメンタリーだ。
時代は1969年5月13日。この頃の若者や大学は全共闘運動で荒れまくっていた。大学はバリゲートが積み上げられて要塞化していたし、若者はヘルメット被ってゲバ棒振り回して「革命だ!」と叫んで暴れ回っていた。若者と警察がしょっちゅうぶつかり合ってあちこちで騒乱が起きていた。銀座の石畳はその頃、石畳が排除されてアスファルトになっていた。なぜなら若者達が石畳のレンガを掘り起こして、警察に投げつけるからという。
そんな荒廃する東大のまっただ中に、三島由紀夫のもとに「討論会をやらないか」と招待された。東大生達は右翼の三島を「舞台上で論破して立ち往生させて、その場で切腹させてやる」と息巻いていた。大学生はヘルメットとゲバ棒で武装していたし、招待された講堂には首飾りにペニスを付けた三島由紀夫の(落書きのような)ポスターが貼ってあるし、そこに「飼育料1000円」とか書いてあるし……(三島由紀夫の討論会に来た人達にカンパを募っていた)。
あんな怖いところ、よく行く気になれたな……。しかもたった1人で。
戦後の日本はGHQに占領され、徹底した思想教育を受けていた。「まともな教師」は何千人と解雇されて、獄中だった左翼活動家が解放されて、教育制度そのものも左翼思想に基づいた改革が行われる。「日教組」はもちろん左翼達が作った組織。そんな左翼教育をダイレクトに受けていたのが戦後ベビーブームで生まれてきた団塊世代達だった。
団塊世代たちは左翼教育を浴びるように受けて完全に染まりきっていて、「日本はダメな国」「日本は革命しなければならない」と本気で考えて、当時のありとあらゆる「権力的」なものに対して反抗した。
「俺たちは“日本人”なんかじゃない! “国籍”というものも権力が俺たちを縛るために作ったものだ。そういうあらゆるものから自由になるんだ!」
とか妄言を吐き散らかしていた。
東大生達は左翼に染まった上に、理論武装しているからなお質が悪い。言っている言葉が高級だと、どうにも「何かすごいことを言っている」ような感じがする。言っている自分もその気になってしまう。
それで、左翼東大生にとって、天皇崇拝を掲げる三島由紀夫は、「右翼的権力」の象徴的存在であり代表的存在だった。その三島由紀夫を、あえて自分たちの拠点に招待し、恥をかかせてやろうぜ……そんなふうに計画された討論会だった。
当時の東大生の捻れっぷりを見ると、「幼児教育」って大切だなぁ……としみじみ。全共闘東大生達は、難しい言葉で仰々しいお題目を一杯掲げているけれど、結局のところ「反抗期」あるいは「中二病」でしかない。それをゴリゴリに理論武装して、やたらと難しい言葉を使って表現しているから何やら遠大なものに見せかけているけど、全部「言葉のハリボテ」。単に暴れ回りたいだけ……が本音だ。
全共闘や全学連運動が敗北した後の団塊世代達は、結局は社会に入って権力を補強する側に回っちゃったわけだし……。ただのモラトリアムだったんだよなぁ。
(そんな左翼達は全滅したわけではなく、教育、マスコミの世界に一杯残留している。橋下徹はロシアーウクライナの戦争について奇妙な発言を繰り返しているが、橋下徹がなぜあんな発言するか、というと左翼教育をきちんと受けてきた「優等生」だから。ああいうのがいつまで経っても知識層に残り続けている。これが日本が今でも抱え続けている問題)
討論の中で「日本人ってなんなんだよ」という東大生達の問いがあった。当時の東大生は「国籍」というものも自分たちを縛る権力で、悪しきものだ。そういうものからも自由にならなければならない。人間は土着的な文化や国家の法律から自由にならなければならない。それでこそ真の人間の生き方なんだ!
(規律はどうやって守るんだよ……)
……まあ、頭でっかちな若者にありそうな話。結局のところ、「日本人は劣った国民」という刷り込みを幼児期から受けて、日本人でいることにコンプレックスを感じている、というだけの話だ。
「日本人韓国起源説」というのがある。日本人というのは韓国から来たのであって、日本人にとっての真の古里は韓国なんだ……という。日本人が最も親しみを持つべきは韓国人なんだ……という。司馬遼太郎なんかはこの思想を持っていて、「本当の古里を見たい」と韓国旅行に行っていた。
そういうのが時を経て、マスコミによる「韓流」を持ち上げる報道に変わっていく。
ついでにいうと、「韓国起源説」は大嘘。というのも遺伝子レベルで調査したところ、日本人と韓国人との間に遺伝的交雑はほぼなかった。確かに「お隣の国」で交流はあったが、結婚して子孫を作るということはほぼなかった。遺伝子レベルでまったく違う民族、ということは「日本人は韓国からやって来た」というわけでは絶対にない、ということが証明されている。
「日本人ってなんなんだよ」という問いに対して、三島由紀夫はこう答える。「そりゃ海外に行ったらすぐにわかる」と。西洋に行って、英語生活をやっていかにも欧米人というフリをしていても、ショウウインドウに映る自分の姿を見ると、どう見たって胴長の日本人なんだから。それに、海外に行けば「外国人」として扱われる。「国籍から解放されるんだ」なんて話は幻想でしかない。三島由紀夫が東大生達が「コンプレックス」で自身が日本人であることを否定したがっている深層心理くらい理解していた。
国籍や人種といったものはずっとついて回る。講堂にあつまった若者達は顔を見ても体を見てもどう見たって日本人。文化的な性格も、ずっとついて回る。私たちは「神様なんかいない」とわかった後でも相変わらず神社に行って手を合わせるし、人が死ぬと仏教様式で葬るし……。そういう習慣や文化的なもの、というものはどんだけ文明が発達したってそうそう消えるものじゃないんだ。むしろ文明が発達しすぎると、「私たちとは何か?」という問いから、そういう古い人々が残してきた文化に戻っていく。人は常に「よりどころ」を求めてしまう生き物なんだ。私が私であるという「根拠」を求める生き物なのだ。そこからの「解放」というのは、「出自を捨てる」という意味でしかない。
三島由紀夫が「盾の会」なんかを作って天皇崇拝なんかやっていたのは、「自分たちが何者であるのか?」を改めて考える上で、結局のところ「天皇」という存在が自分たち日本人であることを繋ぎ止めるシンボルだった、という気付きからだった。盾の会がやたらと過激だったのは、当時の左翼が過激だったから。そのカウンターだった。
全共闘東大生たちは、典型的な「頭でっかちな若者」でしかなかった。「頭で考えたことはすべて現実になるはず」「脳内でシミュレーションできるなら、現実にできるはず」……とそこに現実問題や感情問題は想定できない。
例えば恐ろしい猛獣がいたとして、脳内でシミュレーションしたとおりに動けば退治できる……しかし猛獣の前に行けば、恐怖で足がすくんでなにもできなくなる。そういうものなんだ。
でも全共闘東大生はそういうことはわからない。若さゆえの情念でなにもかも実現できると信じてしまっている。というか、思想も情念に押し流されてしまっている。情念で押し流されていることを、理論武装しちゃってるから、自分で気付けない。
そんな相手に、三島由紀夫は果敢に討論を繰り広げる。
そんな頭でっかちな全共闘東大生1000人を相手にした討論会を、楽しんで帰る三島由紀夫だった。すごい人だったんだなぁ……。襲撃される恐れすらあったのに。私は見ていて、何を話しているのか、ぜんぜんわからんかったけども。
三島由紀夫が割腹自殺をしたのは、その1年後だった。