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映画感想 ジョン・ウィック:パラベラム

 ジョン・ウィック3作目! シリーズのスタッフは当たり前のように集結し、制作費は前作からまた増額の7500万ドル(これでもブロックバスター大作ほどの予算ではない)。これに対して世界興行収入は3億2000万ドル! 第2作目と比較して、2倍以上も稼いでいる。新作が公開される度に、こうやって興行収入が2倍2倍に膨れ上がっていく作品も珍しい。
 さて、作品だけど……わーカメラが美しい! 夜の色彩感がとてつもなく美しい。めっちゃカラフル! この作品はほとんどが暗部や夜の風景なのだけど、光や色彩の捉え方が今までとぜんぜん違う。コントラストの具合や、アニメ的に光が十字の形になっているところや、なのに俳優にレンブラントライトがばっちり当たっているところや、どのカットもちゃんと絵になっている。凝った画になってるけど、俳優の姿をしっかりと確認できる。
 第2作目とルックがあまりにも変わったので、撮影監督が変わったのかと思ったが、カメラマンは同じダン・ローストセン。なんでここまで映像の感触が変わったのか事情はよくわからないけれども……こういうところも予算増額の恩恵なのか? どのカットも止めて見たくなるくらい。3作目はカメラも見所です。

前半1時間のあらすじ紹介

 ではストーリーを見てみよう。

 お話は前作の終了直後からスタートする。前作の直後から始まっているから、腹部の出血もそのまま。前作のラスト、コンチネンタル・ホテルで殺人を犯したジョン・ウィックは「掟を破った者」として追われる身になってしまった。ジョン・ウィックにかけられた懸賞金は1400万ドル。ただし、ホテル支配人であるウィンストンの恩情処置として、追放処分と懸賞金をかけるまで1時間の猶予を与える……と宣言される。
 ジョン・ウィックは与えられた時間は1時間……。この1時間のうちにニューヨークを脱出しなければならない……。

 今作ではプロローグらしきものはなし。いきなり逃げている場面からお話がスタートする。「あらすじ紹介」もないので、前作視聴は必須だ。
 ニューヨークの街を駆け回るジョン・ウィックだが、道を通りがかる人みーんなジョン・ウィックに振り向く。ジョン・ウィックは殺し屋界隈では超有名人。ジョン・ウィックを狙ってくる者はみんなジョン・ウィックの顔見知り……という状態だ。
 前作のラストを見て、ちょっと笑っちゃったんだ。「おいおい、ニューヨーク殺し屋多すぎじゃねーか」って……。どんだけ殺し屋いるんだよ。物騒だな。
 今作でもどこを走っても、誰かがジョン・ウィックを振り向く。その大抵はジョン・ウィックも知っている。なんだよ、ジョン・ウィック、今まで孤独を装ってたけどめっちゃ知り合い多いじゃねーか。「友達100人」レベルじゃねーよ。「殺友(殺し屋友達)1000人」くらいいるんじゃねーか。
 ジョン・ウィックは殺し屋世界では超有名人で、簡単に殺せるような男じゃない。しかし、懸賞金目当てに、あるいは「ジョン・ウィック殺し」という名誉を得たいがために次々と刺客が狙ってくる。
 そうこうしているうちに、殺し屋たちがジョン・ウィックを狙ってくる。
 第1の刺客はめっちゃ背の高い殺し屋。ジョン・ウィックより頭身が一つ大きい。もしかしてブルース・リーの『死亡遊戯』を意識したのかな?
 第2の刺客はおそらく中国人っぽい殺し屋複数人。超人的な体術でジョン・ウィックを追い詰めていく。舞台は骨董品倉庫のようなところで、展示品を次々に奪い、それを武器に戦う。  第3の刺客はやっと拳銃を使ったバトルになるが、舞台は馬小屋。ジョン・ウィックは馬を武器にして刺客を倒す!

 と、こんなふうに今回の『ジョン・ウィック』は戦いの舞台にやたらこだわっている。1回のバトルシーンはだいたい5分ほどなのだけれど、バトルごとに必ずバトルステージを変更して、それに合った戦い方をしている。
 前作の感想文には、「だんだん似たようなアクションばかりになってきた」と書いたけれども、3作目には今までのバトルシーンに似たバトルはないし、作品の中でも毎回バラエティ豊かなバトルシーンが考案されている。しかもそれがどれも鮮やかなので、単純に見ているだけでも楽しい。よく考えられているし、クオリティもめちゃくちゃに高いので感心する。

 次々に迫る刺客を蹴散らして、ジョン・ウィックは「タルコフスキー劇場」へ逃げ込む。
 ここまでのお話で25分。
 今までは15分刻みで矢継ぎ早にストーリーが展開していたのだけど、今作は25分でひとまとまりという構成になっている。なぜなら全体で2時間10分の尺になったから。今までよりも余裕を持ってお話が進むが、今までのテンポ感に慣れていると、ちょっとゆっくりかな……と感じるところもある。

 さて、タルコフスキー劇場。そこは表向きにはバレエ劇場だが、裏向きには「殺し屋養成学校:ルスカ・ロマ」。ジョン・ウィックもそこの卒業生だった。
 ジョン・ウィックはディレクターにロザリオを見せて、救援を求める。ディレクターは組織に背いたジョン・ウィックを快く思わないが、「私を助ける義務があるはずだ」の一言にやむなく手を貸すことに。殺し屋の社会、「掟」には厳しいのだ。
 ジョン・ウィックは劇場内へ招かれる。ディレクターの執務室に行くが、暖炉に飾ってある絵は、カラヴァッジオの『ホロフェネスの首を切るユディト』。同じ画題でアルテミジア・ジェンティレスキが描いているよね(私はアルテミジアのほうかと思った)。ディレクターの背後に置かれている絵は、レンブラントの『イサクの犠牲』。

カラヴァッジオ『ホロフェルネスの首を斬るユディト』……天才カラヴァッジオによる1600年頃の作品。エグい……。

 その陰になっている絵は、断片しか見えないのでよくわからない。どれも古典名画の中でもエグいやつだね。「ホンモノ」が美術館に飾られているので、この場面にある絵画はすべて贋作。いずれも16世紀~17世紀の傑作古典名画なので、こういう絵がやたらと飾られているところから、ディレクターがどういう美術観を持っているかがわかる。
 ジョン・ウィックはロザリオの「チケット」を使ってモロッコへ。
 ディレクターは「主席はあたなを殺す気よ。どうやって風と戦う? どうやって山を砕き、海を埋める? どうやって光から逃れる? 闇に逃げ込んでも、彼らは闇の中にもいる」と語る。どうやっても今の状況からは逃れられない。いかにして逃げて、生きるつもりか……と問う。
 ジョン・ウィックの計画はシンプルだった「主席の上の存在に会う」ということだった。

 モロッコに逃れたジョン・ウィックはモロッコ・コンチネンタルホテルの支配人・ソフィアと会う。
 わっ、えらい可愛い子が出てきたな……と思ったらハル・ベリー! ああ、この人ひさしぶりに見たなぁ(私がハル・ベリーの出演作を見ていなかっただけだけど)。華奢な体だけど豪快なアクションを披露する。いや、相変わらずいい女優だなぁ……。
 ジョン・ウィックとソフィアは旧知の仲。ジョン・ウィックはソフィアに「誓印の貸し」があると言い、メダルを突きつけて「その貸しをいま返せ」と迫る。組織から追放されたジョン・ウィックへの協力を渋るソフィアだが、誓印は絶対……。仕方なく引き受けることにする。やっぱりジョン・ウィック知り合い多いなぁ……。
 ジョン・ウィックとソフィアは、かつてのボスであるベラーダに会いに行く。ベラーダなら「主席のさらに上」の居場所を知っているはずだ……。

 一方その頃、コンチネンタルホテルに「裁定人」がやってくる。
 裁定人はホテル支配人ウィンストンと会い、「なぜジョン・ウィックに猶予を与えたのか」と問い詰める。組織の掟は絶対。その掟に背いた者に「猶予」を与えることなど論外。「掟を破った者に猶予を与えた罰」としてウィンストンは懲戒されることに。ただし、7日の猶予を与えるという。
 裁定人はモーフィアス……じゃなかった、バワリー・キングのところへも行き、ジョン・ウィックに銃を1丁貸し与えたことを問い詰め、やはり懲戒を言い渡す。
 裁定人は寿司店へ行き、そこの店主に「裁定執行」の依頼をする。寿司屋の店員は全員殺し屋なのだ……。
 って、寿司店のBGMが『にんじゃりばんばん』。変な日本語は出てくるし、日本人はとりあえず忍者になってるし……。日本人のパートだけ笑わせに来てないか?

 だいたいここまでのストーリーで50分。中間の25分はバトルシーンは無し。ジョン・ウィックがモロッコに逃れるまでを描き、一方でニューヨークに裁定人がやってくる様子が描かれる。今までは15分刻みでテンポ良くお話が展開していたから、この辺りのエピソードはちょっと長めに感じられてしまう。
 55分目からまた5分のバトルシーンが挟まれ、物語は後半戦へと入っていく。

ドラマシリーズ化していくシリーズ映画

 第3作目に入った『ジョン・ウィック』だが、今作からこれまでのストーリーとちょっと違う。今まではラストで一応区切りが付く終わり方になっていたが、今作からは最後の最後でクリフハンガー的な引っ掛かりを残して「次回へ!」という感じになっている。それがどこかテレビドラマ的だ(アメリカのドラマシリーズは毎回最終回に、引っ掛かりを残して終わる……あの感じで作られている)。映画なのにテレビドラマ的なストーリー構成……というところでちょっと不思議な感じがしてしまう。
 映画の「シリーズ長編化」の流れは、もともとは『スターウォーズ』シリーズがその前景にあったわけだが、2000年代の『ハリー・ポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』『パイレーツオブカリビアン』といった連作映画の隆盛で一定以上の認知は得られたものだと考えられる。もちろんキアヌ・リーブス主演『マトリックス』シリーズは外せない。そこから発展し、『マーベル・ユニバース』の一連の巨大な映画があり、映画は1本で終わるのではなく、その後も、さらにその後も続いていくものとなった。「映画のストーリーは1本で終わるもの」という認識はもはや観客の側にもなく、魅力的な世界観とキャラクターがいたら、その続編、さらに続編を望むようになった。

 こういう話をすると、かつては『猿の惑星』のように1本の大ヒット映画からどんどん続きのストーリーが継ぎ足しに作られていった時代もあった。考え方がその時代に返った……という見方ができるが、その当時とは映画にかける感情がまるっきり違う。『猿の惑星』は新作が作られる度に内容スカスカの手抜きになっていき、その結果として人気が枯れてくるとさらっと映画会社に捨てられてしまった。当時の映画人は「続編なんて作るものじゃない」という考え方があったから、大抵の続編は駄作だった。
 日本でも大ヒット映画はその後毎年公開のフランチャイルズ化する。『ゴジラ』や『ガメラ』といった長く続いた怪獣シリーズ映画。『男はつらいよ』や『釣りバカ日誌』。そういう系譜のシリーズ映画は非常にたくさんある。だが2000年代に入るより前に、こうした毎年公開のフランチャイルズ映画は途絶えてしまった。今かろうじてあるとしたらアニメの『ドラえもん』『名探偵コナン』『クレヨンしんちゃん』といったファミリー層に強い映画だ。
 それが『スターウォーズ』の登場で革命が起きた。計画的なシリーズ展開、ちゃんと連なりのある3部作構成、シーンのイメージは新作が公開される度にどんどん進化していく。『スターウォーズ』の登場は、確実に映画人の考え方を変えていったはずだ。

 2000年代に入り、『ハリー・ポッター』シリーズや『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの登場で、「続編」や「シリーズ展開」の考え方は深化していった。シリーズ展開はちゃんとやれば確実に儲かる。長くファンが付いてくれる。そのことに気付き、ハリウッドもシリーズ映画について真剣に取り組むようになっていった。それがもっとも良き形で結実したのが『マーベル・ユニバース』映画であろう。
 『ジョン・ウィック』はおそらく2作目までは「その前作がヒットしたから」で継ぎ足しで作られた映画であろう。この2作で続編が構想されていたようには思えない。しかし結果的に『ジョン・ウィック』の1作目2作目はいずれも大ヒットした。そしてそれを受けた第3作目はもう明らかに、それ以降も、次へ、さらに次へと続くシリーズにしようという思惑が現れた。映画のテレビドラマ的連作化だ。
 かつて『猿の惑星』のような映画が作られていた時代とは、時代感覚が違う。あの時代は評論はあったはあったが一般映画観客には浸透せず、「とりあえず猿の惑星の新作が公開されたら観に行く」くらいの感覚だった。今は観客1人1人が厳しく映画を審査するし、それが映画興行に直結する。かつてのような「手抜き続編映画」を作ったら、その時点で「次の新作」はもうない。そういう緊張感で、これからの作り続けていかねばならない。
 『ジョン・ウィック』シリーズはこの戦いを物語の最後まで乗り切れるか……。ジョン・ウィックの戦いも気にかかるところだが、「批評と興行収入」という戦いも乗り切れるかどうか、が今後の見所になる。

「復讐」が生きる根拠になってしまったジョン・ウィックの今後

 『ジョン・ウィック』の1作目2作目は殺し屋を引退するつもりだったジョン・ウィックの社会性が喪っていく過程の物語だった。妻と犬が殺されて、元の雇い主だったヴィゴを殺し、自分の庇護者だったコンチネンタルホテルを喪い、組織を敵に回し……。第3作目はジョン・ウィックがこれまで持っていた関係性全員が自分を殺しにやってくる……という展開だ。それをいかに回避するか、だったが……。
 この3作でジョン・ウィックは全てを喪ったことになる。精神的な拠り所である妻と犬を喪い、社会的な拠り所である殺し屋組織から追放されて、信頼していた人からも裏切られてしまう。ホテル支配人であるウィンストンはジョン・ウィックにとって父親的な存在だったが、その彼からも裏切られてしまう。ジョン・ウィックは「主席の上の存在」に会った時、「誠意の証として指を詰めよ」と迫られて、左薬指を切断する。よりにもよって、妻の指輪をしていた薬指だ。これによって、妻と結婚していた、という「物証」が喪われた。
(喪われたのは「物証」であって、「結婚した事実」はなくならないのでは? と思うかもしれないが、人間の生理として「物証」をなくすとそれに対する意識は薄らいでいく。前2作で写真もなくしたし、動画もなくしたし、ジョン・ウィックはこれから「結婚していた事実」を現実的に感じなくなっていくだろう。まず妻がどんな顔だったか……もわからなくなっていくだろう。妻の肖像を全て喪ってしまっているからだ)

 この時点でジョン・ウィックは「自身を規定する他者・社会」の全てを喪うことになる。もはや「ジョン・ウィック」という個のアイデンティティはなくなり、ブギーマン(闇の男)と呼称される存在になっていく。
 要するに、この時点でジョン・ウィックは「無敵の人」になった。
 「無敵の人」をここではブギーマンと呼称するが、ブギーマンとなってしまった者の末路に希望はない。自身の存在の軽さに耐えがたくなり、精神を病んで自殺するか、あるいは精神を病んで社会に復讐をするか。最近は「復讐」する側になった事件が日本で多く起きている。これによって社会はブギーマンを認知化するようになったのだが、その以前に年間の自殺者は数万人……。数万人のうちの一人がそういう事件を起こしているのだ、という事実にも気付かねばならない。

 と、話が逸れた。
 名実ともにブギーマンとなったジョン・ウィックはなんのために生きるのか?
 妻と家があった頃は、そこに精神的な拠り所を求めて生きていた。しかしそれが喪われた。さらに自分を意味づけていた社会である組織からも追放された。この時点で、ジョン・ウィックは「なぜ生きているのか?」の根拠を喪ったことになる。
 まだジョン・ウィックには単純率直な「生」への執着が残っていた。ある種の望みを求めて、「主席のさらに上」の存在と会いに行くのだが、その試み支配人ウィンストンの裏切りによって失敗に終わってしまう。この時点で、ジョン・ウィックは「生きている意味がない」状態になる。生きるための糧を喪ったことになる。
 では第3作目のクライマックスを経て、ジョン・ウィックは何を生きるための糧として選択したのか?
 「復讐」である。
 死ぬくらいなら殺してやる――この想いを糧に生きるという選択をしてしまった。
 これまでは単に通称でしかなかった「ブギーマン」が、3作目の最後の事件を経て、本格的にブギーマンへと深化する。しかも、モーフィアスと再びタッグを組む! もはやこれが『マトリックス』の新章だ。

 シリーズ3作目まではジョン・ウィックはあくまでも「組織側の人間」としてその社会やしきたりに隷属していたが、そこから完全に解放された存在になった。ここからどのように組織に対する復讐劇を展開するのか。最終的に「主席のさらに上の存在」を殺せるのか……。ジョン・ウィックはこれまでたった1人でいくつかの組織を潰してきたが、今度は1人でその組織の全てを束ねていた存在に立ち向かっていくことになる。
 いやぁ、ワクワクするね。ここまでのお話も面白かったのだけど、面白くなるのはこれからじゃあないか! 殺し屋組織そのものとジョン・ウィックがいかに戦い、最終的に勝利していくのか……。これは最後まで見届けなければいけないね。3作目まで見て、次回作が楽しみになってしまった。

前作

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とらつぐみ
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