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第16回 TAMA映画賞授賞式 コミュニケーションから見えてくる、社会へはたらきかける映画の意義

前回の記事に続きTAMA映画賞授賞式について。

TAMA映画賞授賞式とそれ以外にもさまざまなプログラムが実施されるTAMA映画祭 TAMA CINEMA FORUMとは、多摩市民を中心とした映画愛好者によって運営されている国内映画祭である。

多摩市出身かつ多摩市在住の私が勝手に思ってる、"多摩市三大名物"の一つに挙げられるwとても品位あるイベントなのだ。

ちなみに多摩市三大名物の残り2つは以下。
・映画『耳をすませば』の舞台となっている聖蹟桜ヶ丘といろは坂近辺の風景
・猫(多摩の自然と、市内に張り巡らされたペデストリアンデッキに暮らす野良猫たち&キティちゃん含む)

今回初めて授賞式のチケットが当たって現場で観覧できたんだけど、登壇された受賞者が口々に「映画と作り手に対する愛や敬意が溢れてる」と言っていた通りの、本当に素晴らしいイベントだった。

で、忘備録的に各登壇者が話していた内容を書いておく形にしようかな…と、思ったらなんとYou Tubeに授賞式のアーカイブがあった!

ということで実際の内容は動画を見ていただくとして、この記事では授賞式の生の現場にいて感銘を受けたこと、感じたことを記しておく。

映画監督たちの想像を超えてくる河合優実

今年多くの作品(『ナミビアの砂漠』『あんのこと』『ルックバック』『四月になれば彼女は』)に出演して、どの作品でも強烈なインパクトを残していたのが河合優実という俳優さんでした。映画だけでなくドラマ『不適切にも程がある』の純子役も忘れ難い。

今回の授賞式では本人のみならず出演作である『ルックバック』押山清高監督『ナミビアの砂漠』山中瑶子監督も登壇していたため、インタビューでは2人も交えたトークという流れに。撮影現場で河合優実の演技が監督たちの想像を超えるものだったとそれぞれに感嘆してたのが印象的で。

(撮影中に最も印象的だったことは?と問われ)
押山清高監督:一番印象に残ったのを強いてひとつあげるとするならば、クライマックスで2人の少女の青春を回想する場面があるんですよね。そこはずっと音楽を流していて、最後その音楽が終わったときに(主人公であり河合優実演じる)藤野が涙を流しているという場面なんですけど、アフレコでそこを演技するにあたって、初めの音楽からずっと聴いていただいて、その流れでもって藤野の涙のシーンを演技をしていただくような流れだった。
アフレコブースの中に河合さんが入ってて僕はチェックする側なので別の部屋に入ってて、河合さんの表情とかどういう姿で演技するかはちゃんと見えないんですよね。その中で声が、本当に泣いてるなと思って…、たぶん本当に泣かれてたと思うんですけど、本当に鼻をすすっていて泣いててくれて、3分ぐらいの音楽・映像の後に、ストーリーの中に、藤野自身になりきって、本当に作品のことを理解して演技してされてたんだなと、それを思うと、プロだな…と感動しました。

(イメージを超える場面はどのような場面か?と問われ)
山中瑶子監督:撮影初日、最初に撮ったシーンがハンバーグをこねているシーンがでした。そのときに寛一郎さん演じるホンダがハンバーグを作っているんですけど、河合さんが手伝わずにベッドでアイコスを吸っているというシーン。
河合さんが口でアイコスを外す?捨てる?その所作、そこがすごすぎて、初日の最初なのに私がたまらず「これは傑作になるぞ!」と言っていた。(河合に)拍子抜けされていた。

撮影現場で歴戦の監督たちを唸らせる河合優実。いかに傑出した俳優なのかってのが2人のコメントからも十二分に伝わってきて震えた。『ルックバック』のあのシーンの裏話聞けて胸アツ…。まだまだこの先長い今後のキャリアにおいてどのような演技を見せてくれるのか、より一層楽しみにならざるを得ないやりとりでした。

「手話演出」を確立した呉美保監督&豊かな手話表現を見せた吉沢亮

2010年代を代表する日本映画と言っても過言ではない『そこのみにて光輝く』『きみはいい子』などで知られる呉美保監督の8年ぶりの作品『ぼくが生きてる、二つの世界』。この作品が特別賞、主演の吉沢亮さんが最優秀賞男優賞を受賞となり、2人がそれぞれ登壇された。

『ぼくが生きてる、二つの世界』は聾者の両親から生まれた聴者の子どもであるCODA (Children of Deaf Adults)を描いた作品なんだけど、この作品を作り上げる中で使われていた「手話演出」という概念や役割についての話題がとても興味深かった。実際に手話演出を担当された聾者の早瀬憲太郎さん、石村真由美さんも交えて説明頂いた。

早瀬憲太郎さん:「手話演出」という言葉なんですが、今までは日本で使われていなかった言葉です。「手話指導」、「(手話)監修」ということは経験してきましたけれども、今回の作品で呉美保監督が初めてこの言葉を使い始めて、私どもに(手話演出という)仕事が与えられました。これは、手話をしている、ということだけでなく聾者の生活、生き方すべてを込めた演技、その演出をしてほしいということでした。

(この手話演出という役割を作ろうと思ったのはなぜか?と問われて)
呉美保監督:これは監修とか指導とかの、その域を超えていると思った。私自身が映画を作るときに思うのは、すべての登場人物が生きてきた道のりにに思いを馳せるというか、なぜこの人物がこういうことして、こういことを言うのか、そこに違和感があると絶対に前に進めない。その中で聾者に対して今回のセリフや行動も一緒で、ただ私には今回の聾者に対してや 手話の知識もなければ聾者の生活の知識もないから、お二人にそこを細かく聞いて、お二人と一緒に構築して、たくさんの選択肢を与えてくださって、その中で楽しく作っていきました。

吉沢亮:手話を扱う作品って今までも結構あったと思うんですけど、それがちゃんと日常まで落とし込まれたというか、ちゃんとリアルな、そこでちゃんと息づいている人々が使う手話を監督も目指していた。僕もそこを目指していたのでハードルは結構高かったんですけど、監督や先ほどの2人と、2か月ぐらいですけどみっちりやらせていただいた。

CODAという存在は、普段暮らしていてるなかで周囲からはなかなか認識されづらい。そのような立場にある人を映画の中で描こうとした時に、当事者の視点が抜け落ちて表象的だったり記号的だったりした場合、それは単に物語にとってのただの駒でしかなくなってしまう。当事者がそこに生きている、という説得力やリアリティがなければCODAという存在を尊重していないことになる。

だからこそ徹底して当事者性にこだわり、妥協せずに"手話演出"を練り上げる呉美保監督、早瀬さん、石村さん、またそれに応えて体現された吉沢亮さんの姿勢には胸を打たれずにはいられなかった。"手話演出"の概念や役割がより確立されて、手話という表現力豊かな言語が出てくる映画作品がもっとつくられるようになるといいなと思う。

参考:早瀬憲太郎さんのインタビュー記事

映画は社会に対してどのようにはたらきかけるのか

今回登壇された方々が共通して口にしていたのが、映画作りをしながら作品が社会に対してどのようなはたらきかけをするのか?どのような意義があるのか?をずっと考えている、ということだった。

山中瑶子監督:『ナミビアの砂漠』の撮影中、去年の10月にガザの侵攻が始まってそのまま今でもたくさんの人が亡くなり続けているし、マイノリティに対する差別とか偏見も激化している。世界が壊れていく感じがこの1年で強く感じているのでその中でなぜ映画を作るのか、映画を作る意味って何なのかをより一層自分の中で考えていかなきゃいけないなと思っているので、無邪気に頑張りますって言えない。でも何とか映画を作り続けていきたいということと、また河合さんと一緒に映画を作りたいです。

呉美保監督:この原作で私ははじめてCODAという存在を知り、聾者の両親に育てられた子どものことをCODAという(ことを知った)。
社会的少数派と呼ばれる方の世界を描いているなと思いつつ、どこにでもいる家族のお話だなと、それがおそらく私たちが見るべき物語だなと。社会に対して自分ができることをやれたのかなと思います。

河合優実:さっき控室で見てたら山中さんが私が言おうとしてたこととほんとど同じことを言っていてびっくりしたんですけど、ガザでのこととかウクライナで起きてることやそれ以外の国や日本でも、光が当たってないけど起きてることがたくさんあって。やっぱりどう考えても"痛み"みたいなことが増え続けていると、私も感じているので、そういう世界で自分が物を作っていることが、いったい世界に対してどうはたらきかけているのかをずっと考えていたいし、大きく言うとそれが自分の仕事だと思っている。それを続けていきたい。

今回TAMA映画賞授賞式の現場にいさせてもらって、TAMA映画賞作品や登壇される作り手には一貫してこの「社会へのはたらきかけ」という視点が内在しているように感じた。

そしてTAMA映画賞授賞式における登壇者とのコミュニケーションそのものが、映画の持つ社会性と一致しているとも感じた。

映画を社会的にするものとは何か。それは映画を純粋に芸術的なものとして見ても、また大衆的なものとして見ても見落とされるような位相のものであろう。その位相にあえて名前をつけるとするならば、それはコミュニケーションではないか。この社会に住む人間の経験をコミュニケートするものとしての映画。その位相は、映画を安定的に完成された芸術品とみなしても、はたまた商業化され尽くした娯楽品とみなしても見失われてしまう。

『不完全な社会をめぐる映画対話 あとがきより』

社会的マイノリティや社会的弱者は認識されづらいがゆえに発言力も小さい。だから偏見や差別やヘイトの矛先が向かい易い。

我々が「この社会に住む人間の経験をコミュニケートするものとしての映画」を見つつ捉えることで、そのような人々の立場や視点や経験を当事者性を伴いながら疑似体験する。

その受け止めた疑似体験をそこで終わらせずにコミュニケートする。発信したり対話したりする。そうすると見えづらかったり認識しづらかった立場が少しずつ見えてきて、認識や理解が広まっていく。映画作品やこの映画賞の意義とはこういうところにあるんだなと改めて強く実感した。

多摩市民としてマジで誇り思えるイベントだったなーと感慨に耽りながらの帰路。

会場となったパルテンノン多摩から多摩センター駅まで伸びるコンコースには毎年この時期イルミネーションが煌びやかに輝いているのだか、、、

その中に、多摩市三大名物のうちの一つ、"猫"も輝いていた!!!

キティちゃん50周年!

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