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これからどんどん、二極化、二極化って言うけども


二極化、二極化と至る所で騒がれる中、疑問に思ったことが一つ。

二極化が起こるから取り残される側と生き残れる側が顕著になります。
二極化が起こるから○○して取り残されないようにしましょう。
二極化が起こる先でこうしておけばあなたも勝ち組。

そのような言葉をたびたび聞くようになりました。
極端な二つの例を引き合いに出し、「こうはなりたくないですよね」「勝ち組になるためにはこうしましょう」みたいに解説する方もいらっしゃいます。


そもそも、その促しこそがますます二極化を激化させ、その後押ししているだけなのでは…?と感じていた次第です。

では逆に問いたいのですが、そもそも二極とはなんなのか。
何故そのように世界が動いているのか、そもそも二極だと良くないのかなど、そんな疑問に対して詳しく考察している人も少なく違和感を感じております

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【この世が二極とは?】

まずこの世が何故二極なのかを個人的見解ですが簡単に説明させていただくと…

これにまつわる思想は古代中国の陰陽説から来ており、物質世界を構成する基盤には必ず「電気」があり、マイナスの電気が流動するためにプラスが必要不可欠であるという、表裏一体で作用する性質があるからこそ、目に見えるモノの殆どに「対局となる二つの存在が同時に顕現している」ということです。
男女、朝昼、上下、表裏、冷暖、火水…等が代表的なところですよね。

現状では「勝ち組・負け組」「貧富の差」というのも二極の一つとも言えます。
しかしこの二つも二極として含まれるのならば、結果論では貧富の差は人間社会で絶対に無くならないという裏付けにもなってしまいますね。
だからこそより豊かな方を目指しませんか、というのも頷ける話ではあります。

しかしながらこういった知識が何に対して活用できるのか?と感じると思いますが、これを知っているからと言って仕事の業務に直接何かができるということではありません。
これを知るから勉強ができるとか、そういった「物理」に働きかける領域ではないのです。


物事の基盤を知りながら日常生活を送ることによって見識がより広まったり、周囲から見たら不幸だと称される出来事も幸運の種に変換することができる。人生を歩む中で世界を観察しつつ行動ができる。
意見と意見の中間を見ることができる、異なるものを紡ぐことができる。

そういったところから魂的成長、人間的成長に繋がりより人生を謳歌することができる。

「宇宙的視点」「物事の根本への知識」とはそのようなことを手助けするのです。


さて、この世は対極する二つのことで構成されている。
それを表している「太極図」というものがあるのですが、皆さんも見たことがあると思います。
そしてその図は円の中心から縦真っ二つに綺麗に分裂しているわけでは無い。
その上、黒にはわずかに白があり、白にはわずかに黒がある。


これこそが本来の「二極の姿」と私は解釈しています。


この太極図は巴紋のごとく勾玉のような形をして分かれていますよね。
巴紋は実は世界各国に同じような形をしたデザインがあるためその意匠の意味は様々ありますが、代表的なのは「渦巻く水」を表しているということです。

水は環境によりその姿を固形から液体、さらには気体にまでその姿を変えて至る所に漂っています。
何かしらの情報が追加されることで何にでも変化ができるのです。
また、相手が固形でも液体でも混ざり合う事ができる代物でもあります。

「渦巻く」ということから混ざり合う事ができますよね。
円の真ん中から縦に真っ二つに分かれているのではなく、姿かたちを変化させながら黒は白に、白は黒になることもあるという、揺蕩う形としてあのような曲線を描いているのです。

そして黒の中には少しの白、白の中には少しの黒が必ず存在している。
これは「善と悪」「正義と悪」などのように、時と場合、人によっては正義になることも別場所では悪となりうる、逆もまた然り。
物事とはそういったもので100%なものなどどこにもない。誰しもがそのような法則の場に在る。そのような事を伝えていると感じます。

事件や事故での結果に基づく真実はいつも一つかもしれませんが、世の中のすべてはたった一つの真実などは無く、人の数だけ真実があるのです。

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【私の思う二極化のススメ】

私がこれから先迎えるだろう世の中の二極化について伝えたいことは、二極のどちらかに偏らせるアナウンスではなく、その「太極図を冷静に見る人」を作ること。

これは「どちらも知っている自分が偉い」という上から目線の立ち位置というわけではなく、白と黒の狭間にいる「どちらをも知っているからこそ二つを有効活用することができ、またその二つを紡ぎ合わせることのできる人」とのことです。

私はこれを「狭間の住人」と呼んでいます。

二極のどちらかに傾き過ぎた人からすれば「日和見」「蝙蝠野郎」という言葉が聞こえてきそうですが、これからの時代に必要なのは「中庸の心」です。

その心を養うためにはより多くの二極の狭間でその中間を見ていく必要があります。

目に見えるモノも見えないモノも同時に同じ土俵において観察し、意識しながら生活することです。


「日和見」や「コウモリ野郎」とはいわゆる長いものに撒かれろというタイプのことで、自分の立ち位置が危うくなるとその都度優勢な勢力につき意見や思想を鞍替えすることです。
自分に被害の及ばない場所から高みの見物をしたいタイプでしょうかね。


かたや狭間の住人はそうではなく、両方の意見や思想などを繋ぎ留めたり、混ぜ合わせて新しいきっかけを作ったりしてそのバランスを保つ、「二つのバランスを取り持つ陰の存在」です。

なぜ「陰」なのかと言いますと、狭間の住人として生きるという事は限りなく地味なことなのです。
人知れずそのような思想を持って生き、反発や衝突のあるところでやんわりと宥めすかしその両方を繋ぎ合わせていく。そのような存在だからです。


「いやいや、でも対極のものは決して交わらないでしょ?」と考えている人もいますが、やり方次第でうまく纏まることもあります。

例えば料理をする方はわかるかと思いますが、「マヨネーズ」は油とお酢(水分)と卵からできています。基本的に水と油は分離するものなのでただ掛け合わせるだけでは絶対に交わりません。

しかし作るときの様々な工夫でそれを可能することができます。
「一度に入れすぎない」「しっかり混ぜ合わせる」という注意点と、卵がその二つを繋ぎ合わせてくれてマヨネーズという新たな形に進化します。

物事だって同じなのです。
一度に知識や情報を入れられても受け取り切れずに「分離」してしまいます。
少しずつ様子を見ながら取り入れることで「乳化」し、統合していきますよね。


真の二極化とは、「狭間の住人」を増やすこと、「狭間の住人」を目覚めさせること。
間違っても「勝ち組になりたければ」「負け組になりたくなければ」という部分を強調し、人の不安を煽って行動させるのではなく、物事の基盤がどういった仕組みでそうなっているのかというのを簡単にでも説明に取り入れて、「中庸的視点で見られる人」を増やすことだと感じてます。

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しかしながら「生き残るために○○しましょう」というのは同感です。
取り残さる側と生き残れる側に分別されますという未来予測も理解できます。

かといって焦燥感に駆られながら手当たり次第に手を出してみたり、計画の無い行動を起こしてみたりしてもあんまり成果に繋がらなかったりしますよね。
そして世間の言う勝ち組になれば負け組と称される人を見下す人もたくさん出てきそうです。
そうやって争いの火種はどんどん溢れていきます。

ならばどちらにも振り切らない「狭間の住人」になりましょう。
そうすれば勝ちだの負けだのにこだわることもありません。人間のもつプライドに振り回されることもありません。
そして、そういった視点を持った状態でこの地球上で「自分の志」のために行動できる人になっていきましょう。


中庸的観察と行動力があれば余裕も自信も満ち溢れ、これから先を進む上で道を見誤ることも少なくなりますよ。

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