【翻訳のヒント】開けたドアは早めに閉めよう
こんにちは。レビューアーの佐藤です。「英文の意味が正しく訳出されているのに、なぜか読みにくい訳文」というものがあります。そうした訳文によく見られる特徴の1つは、「開けたドアをなかなか閉めない」ことです。翻訳における「ドアの開け閉め」とは何でしょうか?具体例を交えて見ていきましょう。
「開けたドアをなかなか閉めない」翻訳
先に説明しておくと、ここで言う「開けたドアをなかなか閉めない」とは、言葉の意味や目的を確定させないまま放置している時間が長いことを指します。ドアを開けたまま、いろいろな場所にフラフラ出かけ、最後にようやく元の場所に戻ってドアを閉めるイメージです。玄関のドアを長く開けっ放しにしていると不用心であるように、翻訳においても、開けたドアをなかなか閉めないと、主に訳文の読みやすさに関して不都合が生じます。
では例を見てみましょう。ある保険会社の企業概要について、2つの訳例を作ってみました。読み比べてみて、どう感じるでしょうか?
どちらも原文の内容を正しく訳していますが、読んでいて意味がわかりやすいのは【訳例2】のほうだと思います。
【訳例1】は、私の考える典型的な「開けたドアをなかなか閉めない」タイプの翻訳です。一番の問題は、「AAA保険は~」という主語に対する直接の述語「ヨーロッパの総合保険会社」が文末に来ていることです。
この訳し方の場合、読者は文頭の主語に続けて、「住宅、旅行、自動車……」という一見関係ない単語の羅列を目にすることになります。文末まで読めば、この一見関係ない情報が最後の「総合保険会社」にかかる修飾句だと判明しますが、そこまでの道のりはなかなか不安なものです。「これが主語とどういう関係にあるのかな……」とぼんやり疑問に思いながら、理解をひとまず棚上げにして、いつ終わるとも知れない文を読み進めなければならないからです。
翻訳者のほうは、最初に開けたドアがいつ閉まるかを当然知っているわけなので、そこまでの時間がどれだけ長くても気になりません。しかし、読者のほうは違います。ドアが閉まるタイミングが先延ばしになるほど、一時棚上げする情報が増え、文全体の理解が難しくなります。そのため、読者は文末まで到達した後、また文頭に戻って読み直すことになります。そういう苦労を読者に強いるのは良くない訳文です。
このような「ドア開けっ放し」問題を回避するために作成したのが【訳例2】です。ドアの開放時間をできるだけ短くするために、「AAA保険は、100年近い歴史を持つヨーロッパの保険会社である」ことを先に言い切ってしまいます。そのうえで、"providing"以下の説明を続けます。これなら、前から順番に読んでいくだけで内容がすっきり頭に入ります。そして、実はこの訳し方のほうが、原文の語順に近くなります。英文ライティングでは、最初に根幹情報を述べて、後から補足情報を加えていくのが基本原則です。翻訳する際も、このスタイルにのっとったほうが、原文の論旨を自然な流れで伝えることができます(そして、後から自分の訳文を見直すときに、原文と訳文の対応を追いやすいという副次的メリットもあります)。
小さいドアも小まめに閉める
実は【訳例2】では、主語と述語にまつわる部分以外でも、ドアの開放時間を短くする工夫をしています。これは言い換えると、言葉の意味や目的を宙ぶらりんにせず、早めに確定するということです。この「宙ぶらりん」の状態が起きやすいのは、単語を列挙している箇所です。
まず"providing"以下の部分を切り出してみましょう。
【訳例1】の場合、読者はまず「住宅、旅行、自動車、...」という単語の並びを目にします。これらの単語がどう結び付くのかわからないまま読み進め、「……などの保険」まで到達して初めて、そういう意味だったのかと理解します。こういう宙ぶらりんの状態が続くのは、読者にとって嬉しいことではありません。そのストレスを解消したのが【訳例2】です。すべてに「保険」を付けることで、それぞれの単語の意味を早めに確定させ(=ドアを閉め)ました。多少くどくなりましたが、読者にとってはこのほうが親切です。
次は"selling"以下の部分です。
【訳例1】を前から順番に読んだ場合、読者はおそらく「オンラインで直接、および代理店」まで進んだところで頭が一瞬停止するでしょう。ここまでの内容と、以降の単語の並びの関係が自明でないからです。わからないぞ?という気持ちを抱えて読み進めると、「~で販売している」という表現が出てきて、そこでようやく、「直接販売」と「(代理店などを通じた)間接販売」の並列だとわかります。
この問題の原因は、「オンラインで直接何をするのか」の説明を後回しにしている点です。そこを改善したのが【訳例2】です。「オンラインでの直販」と加えることで、意味を早めに確定させました。これなら、読んでいる途中で「あれ何の話だっけ?」と迷わずに済みます。
このように、文全体だけなく節や句の単位でもドアを小まめに閉めていくことで、読者にとって読みやすい訳文が出来上がります。途中で情報を棚上げする必要がなく、最初から順番に理解していけばいいからです。1つの訳文が長くなるときほど、「ドアを開けたら早めに閉める」と意識することが重要です。ドアの開け閉めを細かく繰り返せば、ある程度長い文になってしまっても、読者にかける負担を軽減できます。
読者のストレスを想像し、なるべく負担を軽くしよう
最後にもう1つ例をお見せします。企業の研修体制について説明する資料からの抜粋です。詳しい説明は省きますので、【訳例1】と【訳例2】がどのように違うかを分析してみてください。開けたドアをなかなか閉めないタイプの翻訳が読者にどのようなストレスを与えるか、身をもって実感できることでしょう。