【翻訳部辞書:B】Balloon―マンガの吹き出し
こんにちは、フジタです。ものぐさな人のことを「横のものを縦にもしない」(あるいは「縦のものを横にもしない」)なんて言いますね。でも、ひと仕事終えてぐったり横たわっている翻訳者にそんなことを言おうものなら「とんでもない!」と跳ね起きるかもしれません。
実は、しばらく前から気になっていたことがありました。それは、マンガの翻訳についてです。日本のマンガは世界的にも人気があるらしいけど、ふつうは縦書きの右綴じで作られています。英語圏など左綴じが当たり前の地域ではどうやって翻訳版を制作しているのだろう、と。
ものぐさが起き上がる
ただ、生来ものぐさなので、深く考えることもなく忘れかけていたのでした。しかし、ふとしたきっかけで実際に英語版の日本のマンガを手にすることになりました。
いつも地元の図書館のWebサイトで借りたい本を予約しておいて、週の終わりに受け取りに行くのが最近の習慣になっていたのですが、たまたま図書館のWebサイトの「おしらせ」一覧に「外国語図書新着案内」という項目を見つけたのです。
興味本位でクリックして一覧表を眺めていると、意外にも日本人らしき名前がローマ字でいくつも並んでいました。「Author」欄は「Naoshi Shinkawa」、「Publisher」欄は「Kodansha Comics」。「おお、これは日本のマンガの英語版ではないか!」と以前に抱いた疑問を思い出し、さっそく予約したのでした。
マンガのタイトルは「Your Lie in April」。実はまったく知らなかったのですが、調べてみるとこの『四月は君の噓』という作品はかなりのヒット作で、テレビアニメや実写映画も制作されたとのこと。日本語版も所蔵されていたので、両方借りて読み比べてみることにしました。
縦のものを横にするのは大変だ
さて実際に英語版のマンガを手にしてみると、見てみるまで思いもよらなかった発見がいくつもありました。
縦書きの吹き出しを横書きの英語に置き換えることくらいはわかっていましたが、もとが縦書きだけに吹き出しの形も縦長なものが多く、そこに横書きを収めるのは簡単ではありません。吹き出しの上下はガラガラなのに、真ん中にだけ文字が窮屈そうに詰め込まれていて、1つの単語がハイフネーションで4行に分かれていたりもします。たとえば、こんな風に。
DE-
TER-
MINA-
TION
読みにくいけれど、マンガは緻密に構図が構成されているので、吹き出しの大きさや形、位置を勝手に変えるわけにもいきません。
描き文字
吹き出しなどの活字部分は苦しいまでも置き換えられますが、置き換えられない文字もあります。マンガでは擬音などを表現するのに、いわゆる「描き文字」が使われます。「キャー」とか「ドーン」「ガシャーン」みたいなやつです。描き文字は文字自体が表現になっていて、絵と一体化しているので置き換えられません。
そういう箇所は、日本語の描き文字に寄り添うように、英語の描き文字が加えられていました。挙げれば切りがありませんが、たとえばこんな英語が描き加えられています。
・イラッ→IRK
・ザワザワ→MURMUR
・パチパチ(拍手)→CLAP
・キラーン(眼鏡が光る)→GLINT
・ギュッ(手を握りしめる)→SQUEEZE
…
これは、振り仮名のようでもあり、字幕のようでもあり、効果音のようなものでもありますが、どれにも当てはまらない、なんとも不思議な要素です。奥付を見ると「Lettering: Scott Brown」とクレジットされているので、このScott Brownさんが指示された文字を描き足しているのでしょう。
Translation Note
また、翻訳では文化的な違いをどう吸収するかという課題もあります。いわゆるローカライズの領域です。文字がメインの媒体なら、いろいろ工夫の余地もありますが、マンガは絵という情報量が多く具体性に富んだ表現手段が用いられているため、そのぶん工夫の余地は限られてきます。もちろん、セリフを入れるスペースも決まっています。
そこで、巻末には「Translation Note」という補足情報が追加されています。たとえば、日本の学校ではおなじみの鍵盤ハーモニカや学ランなどについて説明や、いくつかの場面で下敷きになっている作品や人物、背景などについてです。
奥付には「Translation: Alethea and Athena Nibley」とあり、名前のよく似た二人の翻訳者が並んでいました。「Translation Note」はこの二人が書いたものと思われますが、検索してみると双子の姉妹らしく、名前の似た双子姉妹が協力して翻訳していたようです。なんだかそのこと自体がマンガっぽくて、なんともほほえましいです。
この「Translation Note」は、もちろん英語ネイティブの読者のために書かれたものですが、私のようなコテコテの日本人にも楽しめました。当たり前過ぎて深く考えたことがなかったことをあらためて説明されるのは新鮮です。また、ちょっとしたワンシーンやセリフの背景にあるものを探求して表現することの楽しさがにじみ出ています。
TOMARE!
さて、英語版の第2巻を読み終わって裏表紙を閉じようとしたときに、こんなページが目にとまりました。
日本のマンガはこっちから読むのではありませんよ、という「止まれ」の標識です。
なるほど。日本語の本は縦書きも横書きもあるので、どちらから読むのかまず確かめてから本を開くのが普通ですが、英語圏の人にとっては本を「逆から」読むというのは思いもよらぬ体験なのでしょう。