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いま電車に轢かれたら仕事にいかなくてすむと考えた時期があった



当時働いていた会社の同期が「今この赤信号を無視したら会社に行かなくていいって何度も考えたよね」と笑いながら話していた。


それから数ヶ月後に、電車が来るのを待ちながら、目の前の線路に今飛び込めば会社に行かなくてもいいんだろうなと考えてしまった。


死にたいわけではなくて、会社に行きたくないだけだったのだ。でもきっとそんな些細なことで同期は自殺してしまった。それはわたしが話したことのない人で知らない場所で車の中で亡くなったそうだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「おまえ、北側斜線も説明できないのか?2年目なのに何を勉強してきた?」


その言葉で私の何かがプツンと切れた。


そうか、私2年目なのに北側斜線が説明できないほど、家に興味がないんだって。なんて無駄な時間を過ごしたんだろうとはじめて我にかえった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



私が就活をしていた頃はとても順調だった。
自分をしっかり分析していたから面接で困ることはなかったし、900万円もの奨学金があったから「稼ぐ」以外にわたしには会社選びの条件はなかった。


なんで志望したのか?の質問には「稼ぎたい」以外に言わなかったし、商社と保険と住宅に絞ったけれど、商材にも保険にも家にも全く興味はなかった。

それでも私は受けた会社はすべて内定もらった。
稼ぎたい私はネームバリューで売れる大手しか受けていなくて6社にしぼり、住宅会社を選んだのだった。

学生時代も自分で生活費を稼ぐためにずっとアルバイトをしてきた。
一瞬入ったサークルは大学祭実行委員なるもの。

しかし、高いお金で大学祭実行委員会のジャケットを買わねばならないこと、未成年の私にお酒を勧めること、お金を払ってイベントに参加しないといけないこと、私が一生懸命生活のために稼いだお金をそんなことに使うのかと呆れて、サークルに入るのをやめた。


スーパー、カフェ、オープンキャンパススタッフと接客中心のアルバイトをしていた。
接客ができればどの仕事もできるようになるだろうと予想した私の考えは的中し、営業職を希望しようと就活中からはじめた通信関係の営業のお仕事は楽しくノルマを達成できた。


大学から少し社会人の世界に片足を突っ込んでいたから、住宅会社で女性営業が1人の支店でもそんなに気にならなかった。


それでもやっぱり大手は体育会系的で、今までお金がもったいないと思ってあまり参加しなかった飲み会には行かなきゃいけないし、気づいたら朝か夜かわからない4時に家に帰ることだってあった。

お金を払っているのに接待のように先輩方に接しないといけないことを私は今まで経験していなかったから、本当にいやだった。

それでも働くためにはコミュニケーションも必要だと割り切り1年は頑張った。


2年目になり、二次会に行くのをやめるようになった。本当は新入社員に教えるためにもいかなければならない立場になっていたけれど、指導員が変わり、その方と私はとてもじゃないけれど合わなかった。


ゴマすりを得意としていた指導員は、私がゴマをすらないことをよく思わなかった。女の子なんだからもう少し愛嬌を持って接しなさいだの、今考えればかなりの男女差別。

女性1人しかいない営業なんだからもう少し優しくしてくれてもいいのに、むしろ差別的に扱われた。


そんな上司と仕事終わってからも接待なんてしたくなくて、二次会にはいかなくなったし、サービス残業もサービス休日出勤もやめた。


それが正解だと今では思っている。


1年目は、先輩にタイムカードを20時に通してから23時まで仕事をすることを教わり、上司には新入社員は朝一番にきて全員のデスクをきれいに、住宅関連記事の新聞を用意することを求められたので7時には家を出ないといけなかった。

家に帰るのはいつも23時半から0時で、7時に出ないといけないなかでどこでご飯を食べろというんだろう。


お昼も夜もごはんが食べられない日なんて何度もあった。
化粧を落とさないで寝てしまうことなんて毎日のようで、エステに行き、お金を払って肌をなんとか維持していた。


高いものを売る仕事だから高いスーツを着るように言われ、上下で10万を超えるスーツを何着か買ったし、設計の勉強もして持ち歩がないといけなくて大きなA3カバンも買った。

私服ですら1万以上の服なんて買ったことないのに。


奨学金の支払いのためにはじめた稼ぐ仕事で入ったお金はどんどん消えていった。


900万円というのは300万ほどは利子だ。
生活費を稼いでいたのになぜそんなに高いのかというと、母が弟との生活費に使っていた。

それでも私はひとりで私たち姉弟を育ててくれた母を責めることはできなかった。


だから稼ぐ道を選んだ。


でも月日が経てばたつほど、ご飯を食べられずまともに寝られない生活が私の理想だったのか?こんな調子で900万円も返せるのか?
入ってくるお金はすべて会社のために必要なものや、荒れた生活を少しでもマシにするための費用、そして残りは奨学金。


これは何年続くのか。

0時を回った時計を見ながら、腐りゆく野菜たちに気づかずに、ただぼーっと考えていた。
こういうときは、「じゃあどうすればいいのか」を考える余裕なんてない。ただ明日をどう過ごすか、こんな時間があるなら勉強しないといけない、むしろ早く寝ないと明日起きれない、そんなことばかりが頭を埋め尽くす。


お米は1年以上賞味期限のようなものがきれていて炊くお米はカピカピだった。
でもそれが当たり前だと思っていた。
家で炊くお米はカピカピなもの。


数年前の大学生活で炊き立てのホワホワとしたお米を知っているのに、たった1年半で忘れてしまった。


入社して1年半を過ぎたころに2年目研修が東京で行わられた。
100人ほどの同期で久々に集まり、次のステップへ行くための研修。

その研修の日に、さらっと同期の1人が自殺をしたことを伝えられた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


2日間行われた研修の日の夜、仲の良い同期とホテルでとあるワークをしてみた。


たまたま私が読んでいた本に「毎日10億円が振り込まれたらなにがしたい?」という問いがあった。これは自己啓発でよくあるワークらしいがそのときはじめてみた。

私たちは「ゆっくり寝たい」「海外旅行に行きたい」「美味しいものを食べたい」そんな願望が共通した。
10個以上出てきたなかで、3つに絞ることになった。

「ゆっくり寝たい」
「モンサンミッシェルにいきたい」
「祖母と旅行に行きたい」


そんなようなことを書いた。するとその本は今すぐ実行しようという。
そんなことできるわけないと社畜脳の私は考えてその日は眠りについた。


研修2日終えた日は休みの日だったので同期と東京観光をした。東京なんて研修でもない限り来られない場所。

当時「君の名は」が流行っていたので、聖地巡礼の旅に出た。もちろん、観光だからこそ美味しいお店や観光地も含めて。


明治神宮にそのときはじめていった。
神社はお願い事ではなくてお礼を言うところと前々から知っていたので、いつものように出会えた神様にお礼を言おうとした。


明治神宮はお金を入れるような紙が置いてあり、お気持ちだけとのことだった。今もあるのかわからないけれど。

そのときの私は多分神様に助けてもらいたかったのかもしれない。このままじゃいやだ、変わりたい。そう思い私は500円以上入れたことないお賽銭に1万円をその紙に包み、神様へお礼を伝えた。


変わるために、私が思う大金を包んだ。

それからも私はそのときにやったワークの内容が忘れられなくて、はじめて仮病を使って休んだ。

休むときは、あれもこれも今日中にやらなきゃ、休んだ次の日大変になるしイベントの準備もあるしと休めない理由をたくさん考えていたけれど、「ゆっくり寝る」を実行してみたかったのだ。


女性ひとりだったからこその、生理休暇。
もちろんウソ。生理は重たいけどいつも薬を飲んで我慢してでも仕事に行っていたのに、はじめてなにもない日に休んだ。


休みを伝えたら思いの外あっさりと了承された。まあ生理でしんどいから休むって人に無理矢理は来させられないだろう。


単純なことだけれど、願いって叶うんだと実感した。その日は天気の良い日に窓際で寝るだけで幸せなことを知ったし、芽が生えたじゃがいもを捨てることだってできた。

その次の週に先輩から何気なく言われた言葉がきっかけとなった。


お客さんのために書いたプラン図面を先輩に見てもらったときに北側斜線がアウトと言われた。


「おまえ、北側斜線も説明できないのか?2年目なのに何を勉強してきた?」

いつもなら、自己嫌悪に浸り、悔しさを感じる言葉だったけれど、今回は違った。


ほんとだ、私1年半以上もやってきて、こんな簡単なことを説明できない。単語は知ってるしテストにも出てるから何度も記憶してるのに、いざとなるとど忘れしちゃう。
わたし、家に興味がないんだ。と。


興味がないのになんでやってるんだろう?


2年目になり、上司との関係が最悪になってきて、とうとうお客さんをとられるようにもなった。
展示場へ入れさせてもらえなくもなった。1年目は新入社員だから入れられないのが当たり前で、2年目からは戦力だから展示場接客からお客さんを増やさないといけないのに、入れてもらえず、替わりに新入社員の後輩が入れられた。


稼ぐために入ったのに稼がせてもらえないのに、なんでこの仕事やってるんだろう?


少しずつ少しずつ何かがわたしの中で崩れていった。
そして、ちょうど数ヶ月前に自殺した同期の話を聞いた。自殺なんて言葉は言わない人事部。車の中で死んでいた、事件性はないとのこと。

このまま過労死するくらいなら、モンサンミッシェルを見に行く旅の中で死にたい。

いろんなことが重なって、わたしの中でプツンときれた。


「やーめよ!」


辞めると決めたときのわたしの頭の中はこの言葉だった。大手の会社に入り、そこそこ良い給料をもらい、奨学金を返すためにこの道しかないとがむしゃらに働いていたころには思わなかった言葉。親族にいろいろ言われるだろうな、周りにもやっぱり続かなかったと思われるだろうな、でもこれわたしの人生だし!と思えるくらいになっていた。


あと数ヶ月でまるまる2年働くことになるのに、待てなかった。20代はあっという間じゃないかと、ならやりたいことやろうと、わたしの考えはもう止まることを知らなかった。


衝動的だったと思うけど、今考えれば必然的だったかのように思う。
今でも辞めるタイミングはあの時でよかったと思っている。

辞めてから3年半経った。

あのときの決断があったから、大好きな夫に出会え、好きなことをしながら生きている。

奨学金は辞めてから自己破産をした。私に失うものがなくなるくらいなにもなくなったから、何もかもを精算したかった。


稼いだお金がプラスに変わることを、最近知った。
通帳が10万円を超えたのは去年はじめて知った。


辞めないとできなかったことはたくさんある。


現状を変えたいなら環境を変える。
やりたいことは絶対できる。


あのとき、電車に轢かれなくてよかった。
あれってかなりの損害賠償を遺族とかに請求されるらしいね。
かなり人に迷惑かけることを私は知っている。何度も人身事故で車内にとどまったことがあるから。


あのときはそんなことなんて考えられなかった。だからこそ、あのときとどまった私は本当にえらい。

あのとき頑張れない自分を責めていたけれど、あのときの私はとてもとても頑張っていたと今では思う。私はもうあのときのように嫌なことに対して仕方なしに頑張ることはできない。

今生きてるからこそこんな幸せがあることを知った。
生きてるだけで人ってえらいと思う。
死ぬことって案外簡単にできるから、その選択を考えても生きてる人はえらい。もちろん、考えたことない人は最高の人生だと思う。そのままでいてほしい。


ワークを共にした同期は今でもその会社で働いている。県が違う支店で働いていたから私と違う環境なのでどんな環境かはわからないけれど、それでもあの体育会系の考えの人が多いなかで頑張ってる同期はすごいなあと思う。


あのときの私なら、それなのに頑張れなかった私は…とか思っていたけれど、今は違う。
あのときやめるという決断ができたから幸せになれたんだもの。


タイトルをみて共感した人は、やりたいことを考えてみるワーク、やってみても良いかもしれない。
意外と今すぐにできるものだってあるから。

ゴロゴロと布団の上で、たくさん寝て、このnoteを書きました。


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