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何ものも信じない、信じる必要もない、提唱もない、主張もない。
陰謀論など信じるまでもない
陰謀だからだ
スピリチュアルはなおさら蛇足
ましてスピ系というくくりは姫系と等しい
様々な「セオリー」
むしろ邪魔だ
愛も語りたくない
その辺の愛は愛ではない
真理になど触れることすらできない
「悟り」
そんなものない
⧪
それが私の本音だ。
なぜか?
それは、
あなたが「真理」そのもので、
「覚者」で、
永遠に「愛」があふれ出る存在、
「ソース(宇宙の淵源)」そのもの
それらと一つだから。
あなたが「神」そのものだから。
そこに付け足すものは何もないからだ。
そのものに向かって何を語り、
まして何を主張する意味があるのだろうか?
完璧なものになんで余計な雑音が必要なことか?
それは、屋上屋を架すようなものではないか?
⧪
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と言うと、大いに矛盾している?
それではおまえは何のために何を書いているのか?
それこそスピリチュアルにすぎないではないか?
宗教か?
欧米か?
いや、ここからなんです。
「ぼくのスピリチュアル または一元論」は。
あなたは「完璧」であるからこそ、「おかしいな?」と、この世界にいびつさ・違和感を感じるのではないですか?
それはあなたが、完全だからこそ、
不完全なものに、
自由だからこそ、
窮屈さに、
美しいからこそ、
醜さに、
善だからこそ
悪に、
満たされているからこそ
不満に、
健康だからこそ
病に、
平和だからこそ
いざこざや争いに、
5次元にいるからこそ
3次元に、
光だからこそ
闇に・・・
その有り得ない存在に疑問符を投げかけるのではないか?
⧪
生まれたときから、
「この世の中はそんなもの」
と叩き込まれてきたから、何も不思議に思わなくなってしまった
一種のテーゼ
楽あれば苦
苦あれば楽
のパラドックス。
「なんで楽だけじゃダメなの?」
みたいな。
それが「気づき」のスタートだ。
私はそう思うのです。
⧪
そして、その気づきはあくまでも個人の問題だし、
また個人に始まるものであるから、他人に「教えてもらう」ことが出来ない。
また、他人に「諭す」ことも「強要」することもできない。
外側に向かえば、日常の卑近な出来事から、社会問題、時事問題、果ては宇宙の問題にまで「気づき」はある。
前回ちらっと触れたように、「社会問題」にしても無数にあるだろう。
理不尽極まりないようなそれがいくつもある。
それを究明することが「陰謀論」だというなら言わせておこう。
内側に向かっても、心の不思議、意識の不思議、精神の不思議と際限がない。
それを「スピリチュアル」というなら言わせておこう。
⧪
![](https://assets.st-note.com/img/1678019985682-i74vNE5Fcm.jpg?width=1200)
そもそも、なぜそうした事態に「気づく」必要性があるのか?
それは、私たちは二元性の世界に生きているからだ。
そこには、対立があって当然。
逆に言えば、私たちが今いる(と思ってる3次元)世界は、対立があって初めて存在できている世界だ。
ところが、その一見「対立」に見えているものは、実は「相補性」のものである。
両者はひきつけあって、あい補い合って一つのものになっている。
いや、一つのものの両極を「Aだ」「Bだ」と言っているにすぎない。
その対立という実は「幻想」を、マトリクスと言う。
(その意味で、この世が「幻想」「仮想世界」と言うのは正しい)
それを知らなくてはならない。
しかし、その手段は大方の理解するような「知識」ではない。
(以前どこかで書いた繰り返しになるが、)
学問のようにいろいろな知識をインプットするようなものではない。
それはかえって邪魔になる。
老子の言ったように、それとは真逆に、
すでに身心に沁み込んでしまったさまざまな観念、信条、信仰、思い込みなどを一つ一つ拭い去っていくことだ。
捨てて捨てて捨てていく作業だ。
禊だ。
なぜか?
それは、もともと完全である私たち自身に、積もり積もってしまった塵や垢を払い落すことだからだ。
知識は、一つ知ることで「賢くなったなあ」と思うが、
「気づき」は、一つ気づくごとに「馬鹿だなあ」と自分を笑いながら見れるようになる。
⧪
私が追いかけているテーマは、そうした二つのものを一つにすること。
別に偉そうに気取ってるわけでも、気負ってるわけでもない。
何度も言うが、単純にそれが面白くてたまらないからに過ぎない。
若いころはとりわけ社会的な問題点、矛盾点、陰謀に義憤を感じてそちらに目をやったこともあった。
しかし、今では様々な事情でそれにはあまり触れないことにしているし、そもそも昔ほど関心がなくなった。
その理由の一つには、そうした問題というより、もっと別な問題に関心が移っていったからです。
同時に、精神界の問題も学生時代から興味があり、幼いころから慕っていた私の「師」と呼ぶべき方に、哲学をじかに親しく教わったものです。
彼が晩年、超常的な力で、たとえば今さっき誤ってカマの刃の上に足を踏んで、そこから血が噴き出ている状態。その男に電話で送念、すぐさま止血させるような様をまじかに見て、その場で”奇跡”を体験している。
そうした「超常現象」が現実に存在し、私自身も体験しているからそれを「スピリチュアル」と言うならそうだが、今となっては、それはいわゆるマトリクスを打ち破る力だと思うし、それを含めた宇宙の全体構造に関心が移っている。
私の投稿をいくつかお読みくださったような奇特な方は、お気づきかと思いますが、「一体何が言いたいのか?」と面食らうことも多いかと思います。
私はマトリクスを解体したいだけです。
ときに、マトリクスをそこに放り出してみたりもします。
(これがケッコー難しく、うまくいかないことも多いですが💦笑)
付記
ここまでお読みいただいたあなたは、私と一つです。
別に変な意味でも媚びて言ってるわけでもありません。
書き手と読み手というものは同じものです。
創造者と被造者が同じように、それは宇宙の法則です。
量子物理学でも言いますね。
「見る(読む)」という行為があって、はじめてそこに存在がある。
ありがとうございました。
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