枷(かせ)【前編】
この項、前回の「三界に狂人住むと人の言う」から続く。
十数種の仕事の遍歴で見えてきたもの
私はこんな性格だから、十数種に及ぶ職業というより世界を覗いてきたものです(細かいのを入れると20余)。
訪問販売や飛び込みセールスもやったし、ごみ焼却場で中国人女性に混じってゴミの山と格闘したこともあります。
小さな会社ではありましたが、記者や編集者をやっていた時分には、それこそ仕事柄数えきれないくらいの(社会的には)上から下の層の方々と接し、さまざまな感慨でその人たちを見てきたわけです。
もちろん、作家や芸術家、エッセイスト、画家、陶芸家、画廊経営者、飲食店経営者、刑事、武道家、ロシアのバレエ団顧問、元大手銀行の支店長などの多士済々とも出会う機会もありました。
(書いていてふと思い出したのは、中には「十二単の研究家・権威」のように、「なんでそんなニッチな世界に入ったのか?」と首をかしげたくなるような謎の国文学教授もいらした=十二単はまんまリプリーの着てた「パワーローダー」並みに重い=💦 また思い出しついでに付言すれば、一番手を焼いたのが「郷土史研究家」という古老の方々。その熱き研究成果の披瀝に長時間つかまって帰してもらえない💦)
また、信じられないくらいにお堅い「ブックカフェ」をやっていた際には、そこにどーいうわけか、大学の哲学教授や造形作家、翻訳家、詩人、映画監督を志して渡英し帰国した青年、バロック音楽に該博の方、牧師、書店経営者、元中堅会社社長、元裁判官、地元媒体の社長でジャズマニア、子供時分に東京大空襲をリアルに経験した元バリバリの営業畑の江戸っ子の粋人(←ヤケに長いな)らが集まってきたものです。
(今思い返すと、よくぞそんな面々といけしゃあしゃあと渡り合ったもんだと寒心する)
こうして改めて振り返ってみて、我ながら連想するのは、江戸時代の人相診・水野南北です。
今でいう床屋の見習い3年、銭湯の三助3年、火葬場の死体焼き3年までやって人相学を究め、「粗食・小食で運が開ける」というドエライ哲理を発見した人(私は特段何も究めていないうえ、「大食ときどき小食」くらいですので運も開けないですが、南北式の人相診は多少心得はありますヨ)。
成功者の孤独と寂寥感
まあ、そんな中で一応社会的には一角の「人物」や、いわゆる功成り名を遂げた方々とも当然オフで話す機会があったわけですね。
若い方でこれをお読みであれば、それぞれいろいろ理想がおありかと思うのですが、私が彼らから受けた印象は、
総じて「孤独」
でした。
よく「社長業は孤独なものだ」とは耳にしますが、
どこか心に風が吹いているというか、そんな印象。
「普通の人たちとなんも変わりません」
だけでなく、
むしろ私の感慨は、人間的な面白みは我々下々の方が勝ってるかな?
というおこがましいものでした。
もちろん、中には破天荒な楽しい方もおられましたが、大概は、それこそ、新宿のおかまバーのママよりも面白くない(ていうか、彼らは頭の回転が速く特に面白いんですが)、ひねりのない、批判精神のない、毒のないそれでした。
もちろん、皆さんいい人なんですよ。
こんな私の話し相手(というより、私は専ら聞き役でしたが)になってくれるくらいなんですから・・・。
「では、彼らはなぜにそうなんだろう?」
と考えたわけです。
それは、「沽券」です。
「社会的な地位」ですね。
それが枷になってしまっているんです。
もちろん、聡明な方々なんで、ご自分でもそれは薄々気づいているんですね。
もしかして、あなたが彼らに興味を示す以上に、かえって彼らは、我々一般人の生態(?)に興味があるんです。
「終了」の後、どうするのか?
とかく、人間は「○○のようになりたいなあ」
と考えるわけですが、
実際は「なってしまったら終了」です。
いうまでもないですが、人生、四五十年勤め上げた会社人として「終了」のわけがないですね?
生保会社のスローガンのように「人生百年時代のライフプラン」ですか?
この世の「人生設計」ですか?
あの世の「人生設計」はどーしますか?
あなたがもし、大会社の社長になるのが「目標」でしたら、首尾よくそれが達成できたとしても、そこに様々な想定外の問題が山積しています。
それを回避できても、その後はどーしますか?
スーさんのように、「釣り」で心を癒しますか?
もし、それでもいいとお思いであったとしても、
最後まで追いかけてくるのが
「終了の後どーするの?」
という問いです。
念願の美しい稜線を持つ高山を踏破して、頂上から下界を見下ろす。
見たことのないような雲海や、はるか遠方の景色が広がる。
しかし、自らの足元は、といえば大概狭い空間に横たわるごつごつとした岩肌というわけです。人生は。
とはまあ私の考えなんで、
「いや、それでは目標に向かって邁進するひたむきさや向上心をないがしろにすることに等しいではないか!」
とお叱りを受けるかもしれません。
いえ、むしろそこなんです。
私の言いたいことは。
到達点はそこですか?
これは、特に日本の学生に多い現象ですが、
いわゆる「お勉強」というものが、「受験」や「資格」やらの単なる足がかりか、よくてツールでしかない場合が多く見受けられるからです。
終生、学んでさらに学びたいようなそれとは切り離されてしまっている。
だから、既存のレール上の「目標」が達成されれば終了で、次がない。
(もっとも、これをお読みになっている方々は論外ですが)
なんだか畑違いのありふれた教育論みたいですが、とりわけ諸外国の学生さんと比べて日本のそれは「問題意識」というものが総じて希薄なような気がします。
それの足かせになるものは、むろんその教育自体にあるわけですが、一番の懸案は、
どこに自分の到達点を設けるのか?
の問題ではないでしょうかね?
ある方が言っておりましたが、
それは、この世で完結しないほどドデカいところでなくてはならない。
それはわたし的にはヒジョーに正しいことに思えるんです。
作品は結果、完成はない
画家は長命の方が多いですね?
なぜだと思いますか?
たとえば中川一政さん。
神奈川県の真鶴半島。
とっても風光明媚な場所で、好きでよく私も足を運びましたが、
そこに彼の記念館があります。
以前TVでドキュメントを放映していましたが、97歳でお亡くなりになるまで、彼は自らの絵に何度も筆を入れていました。
完成がないんですね。
ここです。
悟ったら終了の意味は。
この世に完成を求めてはならない。
この世は、そしてあの世も、
あなたが「完成」を目指して突き抜けていく一つの「場(フィールド)」でしかないからです。
完成品(作品)は、目的ではない。
結果です。
それは、作者(あなた)の魂の「、」であり、その軌跡です。
だから、名作は人の心を打つんです。
その作品ではなく、それを通した作者の魂に触れるからです。
となると、そこに命題のごとく横たわる
人生の目的
とやらが見えてくるのではないですか?
目的は先にあります。
ちょっと先ではないですね。
ずーっと、果てしない先にあります。
それが人間の大きさ、器に現れます。
自らの無知を知る智
あなたは、自分の愚かさや無知を恥ずかしいと感じますか?
それを「負い目」に感じますか?
隠そうとしたりしますか?
そうではなくて、
もし他人から指摘されても、
それを怒るのではなく、笑ってみることが出来ますか?
ホントにそうだ
と素直に認めることが出来ますか?
そんな柔らかい心を持っていますか?
あるいは、自分が決して愚かではないとお思いですか?
愚かなところを見つけることが出来た時点で、その人はすでに愚かではないですよ。
それこそ、まだまだ伸びてゆく草の根です。
大成は欠けるがごとし
と、突然ここで老子さんが降りてきました。
ま、私にとっては50年来のつきあいになる口うるさい爺様なんで、耳障りのよろしくない発言があっても向き合ってくださいね。たぶんそれはホントのことですから。
(こんなんおりてきはりました、だ、だからって、どないする?)
いや、もしあなたが悟りきれない(達成できない)悲哀とやらで、落ち込むには当たらないですよ。
老子爺さんは「なんだかそこに満たされないような」「呆然としたような」「ふっ切れないような」人品こそ「正解」と言ってます。
あの有名な宮沢賢治の「雨にも負けず」でも言ってますね。
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
おろおろ歩くんです。
決してしたり顔をして出来上がってはダメなんです。
当たり前ですね、
この世は有限の世界なんですから。