そもそもの次元上昇(アセンション)
知識ではなく心がそれを可能にする
スピリチュアル界隈で、いずれも最終的なテーマになるのが「アセンション」という概念ですね。
ところがこのアセンションなるものがきわめて抽象的なそれで、しかも様々な方々が様々な角度で云々することから、どーも本質からそれてしまっているような気がするのは私だけでしょうか?
ちょうど、大方の方が抱く(そして私もそうでしたが)「ニューエイジムーブメント」が、その後単なるサブカル的なそれに堕したかのようなイメージと同じです。
一言で言えば、コンビニエンスな、安易な、お茶飲み話的な次元でそれを扱う方が多いからです。
集団アセンションともなると、一種の「お祭り」であることは正しいとしても、そこには個々の人格の陶冶(古い言葉ですが)が問われないかといえばどうやらそうでもなさそうです。
そのことを「知っている人」「知らない人」問わずです。
とりわけ最近では様々な情報がネットで入ってきますし、知識量=教養=人格みたいな風に思われる方も多いですが、わたしはそうは思いません。
なぜなら、問われるのは「心」だからです。
まったく無知な田舎のお百姓さんや、その娘さんやらがアセンション出来て、博学な方や自称スピリチュアルな方でさえも(かえって知識や慢心が邪魔して)その時に呻吟するような気がします。
考えてもみてください。
過去にアセンションした方々は、「アセンデッドマスター」といわれる覚者です。
それに至らんとしたものはごくわずか。
しかも高僧や阿闍梨のような存在だったわけです。
厳しい修行や修練の挙句、ついには達せなかった存在も多いでしょう。
その方々とわたしたち・・・
いうまでもありませんね。
それがいかに過酷なものなのか。
(そのこと自体はごく自然な、きわめて楽な過程だと思いますが、その次元から私たちがとんでもなく離れ、毒され、汚されていることによる落差を言っています)
それは普通に起こりうること
アセンションは諸説紛々。
なぜそうなのかといいますと、ほとんどだれもがそれを経験したことがないという事情がそうさせているようです。
だれも経験してないのですから、何と言おうがそれは自由なわけで、その時になって初めて真偽が分かるということになります。おそらくそれは、原因と結果が一体になった(3次元的ではない)出来事であることは想像できますね。
こう書きますと、私がまるでアセンション支持者であるようにとらえられるでしょうが、別に支持するしないはともかくとしても、それは普通に有り得ることでしょう。
というのも、それはちょうど自然界に見られる相転移を見ても分かります。
個体→液体→気体→プラズマ体→エーテル体・・・
わたしがもし気体だったらそれからいよいよ目に見えないプラズマ界に行くとは想像できませんが、実際にそうなるわけです。
また、芋虫がさなぎになり、まさか麗しい蝶になって、しかも大空を舞うようになることなんて芋虫次元でも、さなぎ次元でも想像もつきません。
なかには、「経験したことがないものは信じられない」とおっしゃるお方もいらっしゃると思います。
わたしもそうです。
ただ、わたしはだからそれはないものだ、という意見には賛同しません。
宇宙法則からしても、この世で変わらないものは一つとしてありません。
体内の細胞にしても、それを作る血液にしても、日々何億という数の古い血液細胞が壊され、新しいものに再生しています。だから、三四か月もすればあなたはすっかり「別人」に生まれ変わっています。
では、いつまでも(個人も社会も天体も…)このいまの状態のまま変わらないのでしょうか?
何度も書きましたように、人間は自分の狭い了見だけでものを見ると、とんだ間違いをします。
いま、普通に日々何便も上空を飛んでいる飛行機などは、たぶん自分が百年前に生きていたとしたら「信じられない」存在でした。
同様にクルマはすでに空を飛び始めましたね?
近々、コックピットには人間不在、自動制御で行き先を指示するだけで目的地に付いたりするようになります。もちろん無事故無違反です。
「アセンションが有り得ない作り話だ」と笑うものが、そのときそうした自分を笑うことにならないとは、誰も言えないことではないでしょうか?
アセンションに関しては、「この地球が5次元にシフトするから、わたしたちもそうならなくては、(地上では)生きていけないのだ」という説があります。
さらに、みずがめ座の時代に入ったこともそうあるべくしての遠因になっているのかもしれません。
わたしは占星術師ではないので、そのアスペクトがどうのは不明ですが、大局にある天体の配置や動きは、太陽系のこの惑星の動向を決める大きな要素であることは、常識的に考えてみてもわかることです。(月でさえ地上の生物、特に女性に影響を与えているのですから)
アセンションは私自身になること
最後に私の見解を述べてみます。
まず、次元という考え方は、一つの「仮定」であって、実際はその言葉に囚われると何が何だか分かりません。
普通、5次元でさえ想像の域を出ないものが、9次元だとか11次元ともなると、想像の域ですらなくなります。
わたしは3次元というものがこの物質世界であると仮定するのであれば、2次元、1次元はないと見ています。
物質という質量をもって「形(立体)」を持った重いものは、この宇宙空間で最後の相ではないかと思います。
それは次第に(先ほどの相転移ではないですが)希薄な素粒子の世界、量子力学的な世界へつながっており、わたしたちはそちらにも存在しているという見立てです。
物質は精神とつながっていて一つであるとする見方です。
(重く密な精神が「物質」で、軽く希薄な物質が「精神」です)
これは、以前「五次元って何ですか?」で書いたことですが、私たちはすでに5次元にいます(その言葉を使うならば、です)。
ここで勘違いしやすいことですが、3次元がこうなんだか形を持った世界だから、5次元もその延長線上で考えてしまいがちですが、それはむしろ偏在する「意識」といってもいいようなものでしょう。
わたしたちはその意識である5次元にいます。
ただ、3次元にもいます(いるように見えます)。
身体という「物質」があるからです。
わたしの「手」
わたしの「脚」
わたしの「貌」
わたしの「鼻」
といったように主体(5次元)と客体(3次元)が分離してしまっています。
難しい話ですが、これは「神」と「自分(自らを分けると書きますね)」の分離というおそらくあらゆる哲学者や宗教学者を苦しめた「命題」にぶつかります。
本来は一つのものが分離してしまった(あるいは、させられた)わけです。
だから、その意味でのアセンションとは、この二つが本来あるところの「一」に帰るといいますか、戻るといいますか、そう言うことではないかと思うのです。
別な見方をすれば、異常性が正常な状態になることです。
クモリが取れ、ゴミや塵が払いのけられる現象です。
このことは、今現在あらゆる「異常性」が、私たちの目に見える次元で露呈されてきたことで裏付けられます。(主体がすでに「異常」であれば、あるいはくもっていればこの世の「異常性」は見えません)
神と自分が本来そうあるべき一つの姿になる。
もう求める必要すらない幸福そのものになる。
一点のクモリもない純粋な心に立ち返る。
思いと行動が一つだから、行きたい場所に瞬時にして行くことが可能になる。
やりたいことは即座にできる。
周囲が美しい光で満ち溢れる。
だれもが潜在的にそうありたいという願いは、
実はそうあるためにあったのです。
その日のために、みんなの心の奥底に希望の灯が灯っていたのです。
それがいま閃光のように一斉にきらめきます。