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選り好み

色(いろ)の惡(あ)しきは食(くら)わず。臭(におい)の惡しきは食わず。飪(じん)を失(うしな)えるは食わず。時(とき)ならざるは食わず。

孔子は、色や臭いの悪いもの、煮加減のよくない物や季節外れの物は食べられなかった。『論語』郷党篇には、冒頭章句の前後に孔子の食に関する心得が記されている。ご飯がすえて味の変わったのと、魚がくさり肉のくずれたのは食べない。肉のご馳走が多くても主食のご飯の分量を超えない。酒には量がないが、乱れて人に迷惑をかけるような飲み方はしない。

特定非営利活動法人論語普及会より

いわゆる、「君子・・・すべからず」的な羅列。
孔子が、食に対してもうるさかったのは有名な話だが、あなたはその態度をどう受け止められるでしょうか?


長崎孔子廟・中国歴代博物館=長崎市公式観光サイトより

「肉魚を日常的に食べている」
「しかも、その鮮度から調理法、作法までこだわる」

いいご身分だ、というのが私の第一印象である。
食卓に馳走が並ぶ。
気に入らなければ食べない。
すなわち、ここに挙げられている論語の記述を見る限り、特権階級とまでは謂わないまでも、それは官僚的で高いところからものを申している所作に見えるからである。

いたんだものや古くなったものは食べない。
もちろん、今日の一般家庭では、ごく当然の衛生上の行為であるが、そのことをわざわざ特記していることから、当時(春秋時代)の一般庶民の食生活はあまり上等とは言えなかったのだろうことがうかがわれる。

「食べない」という行為は、はめを外さない、矩(のり)をこえず、のいかにも聖人・孔子さまらしき態度である。
しかし、だされたものに箸をつけない。
いかにも正しい行為であるが、いかにもそこに「愛」がない。

アフリカなどの未開民族と触れ合おうとする際に、彼はその部族の中に決して入り込むことは出来ないだろう。
猿が作った酒の”回し飲み”や、タロイモが入った羹(あつもの)やナマズかなにか正体不明の鱠(なます)など、一切箸をつけないだろうからだ。

いたんだ魚や肉は論外であったとしても、多少鮮度が落ちて色が変わった野菜などは、作り手を思うとき、それは黙って食べるべきである。

細君に逃げられた、というエピソードはむしろスッと耳に入ってくる。



選(え)り好みが強い。選り好みが過ぎる。
──とは、日常的に自他ともに感じることである。
あなたはいかがでしょうか?
「分け隔てなく」「まんべんなく」でしょうか?

言うまでもなく、選り好みは比較で成り立っている。
大なり小なり人は自分中心に何かを比較し、選別し、そして捨てるという行為を繰り返しているものだ。
それが「考えること」「思考」の特性である。

そうして出来上がった人格を、一般には「個性」と言ったり「アイデンティティ」と言ったりしているようだが、それを別な角度から見れば、「わがまま」「エゴイズム」とも言える。
それが行き過ぎると、天才とかが出現する半面、稀代の悪党や暴君もまた世に出てくることになる。

それは不断に、機械的、条件反射的に行われている。
思考というベルトコンベヤーは、さながら果物のサイズを選別するように、流れてくるオブジェクトを容赦なくふるいにかける。

「人は、その考えるところのものである」
とはよく言われる。
その考えは、ほとんどが過去(とりわけ幼少期)の経験とその記憶によるところが多い。
だから、人はその記憶のパッケージである、ともいえそうだ。

個々に千差万別な経験を通した記憶を持つ人々の性質、意見、好み、価値観同士が、どうして相互に折り合いをつけることができるのだろうか?
まして民族的、土着的、風土的な相違もある。


問題をもっと単純化するために、食べ物の好み、嗜好について考えてみたい。
よく、「生理的に受け付けない」という言葉を耳にするし、またそう思うこともあるわけです。
一番わかりやすい例では「味覚」かもしれない。
「どーも、それだけは苦手でね」
とは、どなたにも一つや二つありそうだからだ。

普通に「○○はどーも」ということを乗り越えて、あるものにとっての「好物」が、別な誰かにとっては「苦手なもの」である場合もよくある。
つまり、逆を言えば、一般に比較的好まれない、癖のある食物ほど特定の人にとっての垂涎の的といったものでありがちということ。

代表的なものでいえば、
クサヤ
ほや
納豆(とりわけ、ヒキワリ納豆)
ブルーチーズ
──といったあたりだろうか?
どちらかと言えば癖の強い食べ物が多い(納豆などは今や全国区的な食材になったとはいえ、外人さんなどには難しい)。
このほか、いわゆる珍味類や嗜好品など好き嫌いをハッキリと分けるものも多い。

私は長い間”ラッキョウ”を食べられなかった。
というのも、幼少期のある日、それを一人で食べすぎて以来、身体が受け付けなくなってしまったからだ。
また、若い時分にとある簗(やな)に遊びに行き、そこで(まだ漬けてそう日にちが経っていない)”うるか”(アユの内蔵の塩辛)を食べすぎて、「あと十年はうるかを食べなくてもいいな」などとうそぶいていたものである。

幸い、その後の人生において、ラッキョウもうるかも食べられなくて困ったという記憶はないものの、例えば白米や小麦などを受け付けないといったケースのように、品目によっては少々不便をかこつ場合もあるのだろう。その意味で、蕎麦アレルギーで苦しんだ自分の過去を振り返ると想像に難くない。

私は今日では(あまり食卓に上ることのないレアなものは置いておいて)ほとんどのものを食べれると自覚している(まあ、昆虫食はいただけないし、口に入れたくないが・・)。
食については、自分のよく知っている馴染みのあるもの以外は食べたくないといった孔子まがいの保守派も、特に年配者に多い。
しかし、私のように、旨い不味いといったこと以上に、未知の味、食材というものにも食指を伸ばしたいという向きも多そうだ。


食べ物の嗜好にしてからがこれである。
十人が十人とも、みな別の方向を向いている。

これが戦争や言い争いが絶えない理由である。
──と言えば、あなたは論理の飛躍を指摘されるかもしれない。
しかし、足元を見ず、民族や思想や経済や宗教観などの相違にその火種を探すことの方が、文字通り「論理の飛躍」ではないか?

それでは「選り好みをするな」とあなたはお思いかもしれない。
がしかし、それは「選り好み」を認めたうえでの言葉であるから、解決にはならない。
ちょうど「核兵器を使用してはならない」というのと一緒である。

宇宙は食卓にある。
あなたの日常の行為にある。

それを離れて、どこか遠くの銀河系の果てあたりにいわゆる「真理」を探そうとする。
あるいは、思想・哲学・宗教にそれを求めようとする。
そこで見つかるのは、美しく、荘厳で、複雑で、晦渋な、それは誰かの描いた浪漫であり、幻想である。
(多くの方は眉を顰めるだろうが、それは文学やゲームや趣味などに逃避する行為と変わらない)

すべて過去のものであり、それは死んだものである。
ルーブルやその他美術館や博物館のように、それは墓場である。
なんらかの作品、定義や定石は化石のようなものであって、一夜の夢や陶酔を与えてはくれるものの、それはあなたに何らの生き生きとした躍動感をももたらさない。
むしろ、そこに押し留まることを命じてくる。

「あれほど有名な傑作がこんなにも小さな額縁の中にあるなんて・・」
と、無理やり自分に言いくるめるしかないのだ。

そこから先に行かないと、それは硬化して、セクショナリズムとなる。
自らの獲得した思想(という幻想)を至高のものとし、またそうすることで必然的に他者のそれを低劣なものとみなす。

そこに軋轢、葛藤が生じないわけがない。

何も聖書の「嫉妬深い神」を持ち出すまでもない。
神は、私たちの選り好みの生んだ極である。
だから、あなたの神は、他の誰かにとっての神ではないし、あなたが唯一と思う神とは別な神を他の誰かは唯一と思うのだ。


この狂った世界を変えたい。
変えなくてはと思う。
そんな声を多く聞く。

しかし、自らがそうした世界を創りつつ、変えようなどということは、自ら燃える火に油を注ぎつつ、やれ消火だ、水だと騒いでいるようなものである。

そのために、私たちは何処まで行ってもエゴイスティックで、はなはだしい選り好みで生きているという事実を見つめなくてはならない。
それは反省でもなければ自己批判でもない。
事実である。
それを自ら見つめているときに、それこそが実は生命そのものである事実を発見する。

問題なのはエゴイズムでも選り好みでもない。
それに対する無知か、または言い訳、それの他者への転嫁、投影である。

万人が個々に自らの卑小さ、愚かしさ、自らがばかばかしい夢想家であることに気づく時に、そこにいざこざはあり得ないではないか?

そのとき、「神」という幻想は消えてなくなるだろう。
またそうならない限り、あなたと私の、そして人類の未来は、これまで通りの悲惨と残酷さを繰り返すのみである。


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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。